大人なように見えて、どんどん幼稚になっている気がした2021初夏
大人とはなんだろう
物わかりが良くて、他人に融通ができて、仕事をテキパキこなせて、喧嘩しない恋人や伴侶がいる人のことなのだろうか。
少なくとも、子供の頃のわたしが想像していた「大人」はこんな人だった。
20歳になれば自然とそんな立ち居振る舞いができると思っていたし、23歳になれば知見の深い、自分の想像する人になれていると信じて疑わなかった。
実際のところどうだろう。
学生の頃はまだしも社会人になると、さらに地方から上京してきた人間からすると、より幼稚になってきている気がする。
それは社会人にもなれば人間関係もある程度は自分の好き嫌いを優先できるし、無理してする人付き合いも減る。
また経済的にも依存することがなくなるので自分の世界というのを作りやすくなる。
世の中、老害という言葉が一般的になって、なぜこんなにも年配層は害を撒き散らすのか。と高校生くらいからずっと疑問に思っていた。
アラサーを迎えたこの頃感じることは、学生の頃ほどの小さな世界に縛られておらず、何に対しても自分本位に生きやすくなる。その結果自分が見たい世界しか見えないのでそれはそれは生き心地が良い。
おそらくではあるがその心地いい世界にいたまま何年も何十年も時を重ねた結果が老害なのではないか、と。
自分の心地いい世界では誰も自分に指図しないし便宜を図ってくれる。
なのに通常の世界はそうもいかない。
だからこそ怒りにつながる。歪んだ自分の常識と正常な世界の常識との乖離によって生まれる歪から理不尽さが生まれるのではないだろうか。
わたしはまだアラサーに足を突っ込んだばかりではあるが、まだまだ時間がある!と息巻いているうちにあれよあれよとアラフォーに足を突っ込みアラフィフとなりアラカンになった頃には立派な老害が醸成されているかもしれない。
心地のいい世界が完璧でないことは学生時代の過去のわたしが経験しているはずだ。
だからこそ痛くても他人の言葉には耳を傾けて自分を見直す時間が時々は必要なのかもしれない。
まっすぐ歩けているようで側溝に落ちていないか、度々確認したい。老害にならないために。
やっぱり他人に煙たがられる晩年は迎えたくない