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"言わなくてもいいこと”

ふと、「言う」と「思う」の距離関係についての記事が目に留まった。最近私が頭にぼんやりと思い浮かべていたことが言葉になっていて非常に印象的であった。

実際のところどうだろう。私はこの距離関係が遠すぎる、つまり思っても軽率に口にしない。それは自分の中で”言うべきこと””言わなくてもいいこと”の選択肢で、”言わなくてもいいこと”に多くが分類されるからである。

”言わなくてもいいこと”をテーマに設定したのは、SNSを通して簡単に他人とつながることができ、他人のプライベートを見ることができ、他人のテリトリーにずかずか足を踏み入れることができるこの世の中で”言うべきこと”と”言わなくてもいいこと”の区別が出来ていない現状がしばしば見られるからである。この記事をつらつらと書くうちに”言うべきこと”は分析的な指摘、”言わなくてもいいこと”は単なる批判、SNS上においては「叩く」ことと具現化されるように思われる。

100人いるなら100通りの生き方、考え方があるのは金子みすゞさんの詩から初等教育の段階で学ぶ。他人の生き方、考え方を干渉する権利も否定する権利も無いのだと道徳教育で学ぶ。自分の生き方、考え方、価値観をあたかも世界の中心を本質を捉えた模範解答であるかのように他人に押し付け、ひけらかす人の多いこと。これだから嫌になる。”言うべきこと”を言った人も「叩かれ」、否定される。ほんの少しでも”言わなくてもいいこと”を言うと、”言わなくてもいいこと”が返ってくる。

ああ、もやもやする。私なりに”言うべきこと”を精査して今文字に起こしている。しかし境界線のこちら側に”言わなくてもいいこと”が足を踏み入れたり、元の位置に戻ったりを繰り返している。言いたいことを”言うべきこと””言わなくてもいいこと”に分類せず、一度立ち止まって考える時間を設けず、ポンと言葉に出来る人、羨ましいなあ。皮肉ではなく、本心で。その言葉にトゲが生えていないのならば。

「思う」→”言うべきこと”と”言わなくてもいいこと”→「言う」

この関係図。私は少々生きにくさを感じているけれど、この分類は自分を救い守るものであると思っている。生身のからだで生きる実社会とSNSでつながる社会。どちらでも大切にしたいところだ。どこかのだれかを、どこかのだれかが今もどこかできっと「叩いて」いる。私はこの関係図を”言うべきこと”として伝えたい。他人を認めて、許して、自分を見つめる。お互いに生きやすくなるといいなあ。


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