死ぬまでたぶんずっと書き続ける

これから死にます、ありがとうございました。

それくらいのメンタルで生きている。
大阪城野外音楽堂でのワンマンがあった。わたしは相も変わらず鬱のまんまで静かにライブを見ていた。楽しかったしかっこよかったのにそれをどうしてか素直に受け止められない自分がいる。それがきっと病気のせいだってことはわかっている。たぶん状況が違ったらもっと笑って泣いて拳をあげて、終わった後に笑顔だったんだろうな、と思う。いつも書いている感想のメモすらも、書けなかった。Twitterには少し感想を垂れ流したけれど。
ハルカミライのライブを見た。かっこよかった。ハンブレの時とは違う涙が出た。違う感情になった。言い方は少しよくないかもしれないけれど、ハルカミライには、ハンブレとは違った感情を抱いている。ハンブレのことは好きすぎて、人生をかけすぎて、まっすぐ向き合うことができなくなることがあるのだと思う。でもハルカミライはそうじゃなく、もう少しだけフラットに近い感情で好きでいられている。だから、楽しむことができたし、素直に涙を流すことができたのかもしれない。ハルカミライのライブで泣いて、泣くことができた自分を、少し肯定できた気がした。
学祭を見に行った。同じ年代の子たちが人前に出て堂々とライブをして、それを見守る人たちや支える人たちや共にステージに立つ人たちがいて、なんでこんな風になれるんだろう、と感じた。すごかった。ライブをする姿はかっこよくて、楽しそうで、純粋にこの人たちを好きだなという感情が浮かんだ。そして同時に、自分にはなれなかった姿、自分にはできなかったこと、自分がいけなかった世界にいること、そういうことを考えてしまった。どうしても苦しくなってしまった。努力すればできたはずのことをこうして考えてしまうこともまた苦しかった。遠い世界だった。すぐそこにいるのに、すぐそばに隣にいたのに、ステージに上がってしまえば、やはりそれはどれだけあの人たちが何を言おうと、演者と観客という線引きがされてしまうのだと、痛いほど感じた。それでも近くで応援したいと思った。そばで見届けたいと思った。どうあがいても自分にはなれなかった姿を、醜い感情とともに見守ってやりたいと思った。



ここまでで書き途中になっていた文章は、とても自分らしくて、愛おしくて、だからやっぱり自分には言葉を綴ることが必要なのだと思った。
強い感情がないと、文章を書けない。生きると呼ぶには余りにも揺らぎのない暮らしの中で、そっと言葉を綴る。僕が生きる意味はそこにあるのかもしれない。その文章がもしも、もしも誰かの中に残ったとしたら、それは本当に尊いものだろう。生きるということは言葉を綴るということ。人生なんて所詮いつかは終わるものだけれど、わたしが生きた証が少しでも誰かに刻まれればいいと思った。それがあなたにとっての傷跡になっても、救いになっても、残ってしまえばいい。そうしたら、人生は無じゃなかったよってあなたが証明してくれるかな。

気に入ったらサポートよろしくお願いします。