苦しい気持ちを表現する言葉について

鬱が来た。
Twitterでまたしんどいとツイートをした。

大阪城野外音楽堂でのハンブレッダーズのライブを見てからも、心が晴れ渡ることはなくて、曇り空のように薄暗い空気で満ちていた。ハルカミライ、学祭、お出かけ、フォロワーさんとの1日、その4日間を終えてプツンと糸が切れたように、わたしはまただめになってしまった。月曜日、バイトにも病院にも行けず、家の中でぐずぐずとしていた。火曜日、バイトに行けず同じように家で寝ていた。

何もできない自分が嫌だった。ちゃんとやると決めたことすらもこなせず、バイト先に迷惑をかけて心配をさせてしまう自分が情けなかった。過食が止まらない自分が嫌だった。2週間で5キロ太った。醜い体が鏡に映る。音楽が薄っぺらく聞こえた。自分を助けてくれた存在をそんな風に感じてしまう自分が嫌だった。

しにたい。もう何もわからず、またリストカットをした。痛いはずの感覚は鈍くなり、赤い血がただ溢れるのを眺めているだけだった。意味はない。自傷行為に意味なんてない。何も解決しない。それでもこうすることでしか今を凌ぐことができなかった。このどうしようもない衝動を、死ねない自分への罰を、刻み付けることでしかやり過ごせなかった。

苦しい気持ちをツイートにして吐き出した。しない方がいいことなんてわかっていた。ひとつツイートをしてしまったら止まらなくなるのはわかっていた。ゼロか百かでしか物事を考えられない自分が嫌だった。

マシュマロが飛んできた。いつものように心臓が跳ねた。
内容は、ライブ関連のツイートが好きで見ているけれど病んでるツイートを見るのは辛いから控えてほしい、それも含めたあなたなのだとはわかっているけれどそれ以外の言葉が好きだからこそ辛い、というものだった。ものすごくまとめてしまったけれど。
苦しかった。でも、わたしがツイートをすることで、誰かを、この人のことを嫌な気持ちにさせてしまったことは事実だった。確実に誰かを不愉快にさせてしまったことが、しんどかった。そして、わたしの言葉を好いてくれている人であるという事実もまた、苦しい要因の一つになった。全てを受け入れろ、とは言わないつもりだけれど、わたしの言葉を好きなのだとしたら、そこに含まれる暗い部分をも、受け取ってほしかった。勝手にそう思った。でも、病んでるツイートを見て嫌な気持ちになるのは当たり前だ。だから、この人には謝りたいと思った。苦しくて出てきた言葉はたった一つで、それが誠実に伝わったのかはわからない。伝わっていたらいいと思う。

苦しい気持ちを吐き出すとき、この世界に小さな小瓶を流すように、誰にも見つからないようにでも誰かに見つけてもらえるように、そんな思いを乗せて言葉にしている。Twitterにあったサークルという機能、縮小アカウントという概念。そこで呟けばいいじゃないか、と思う人も多いかもしれない。でも、そこにいるのは選ばれたフォロワーさん。そこで呟くという行為は、その選ばれた人間に向けて呟いているのにも近いと思っている。だから、わたしはこんな重たい気持ちを誰か特定の人に向けて突き刺すようなことはできなかった。公開アカウントで、世界に向けて、つまり、誰にも向けずに、吐き出したかった。見たい人がわたしの日常を覗きにきて、興味のない人はスルーできて、そんな風に。

マシュマロがいくつか飛んできた。わたしを支えるように温もりのある言葉と手が差し伸べられた気がした。同時に、最初のマシュマロの人を咎め非難するようにも受け取ってしまった。そんなつもりはないだろうし、もっとフラットに、気にしないで、と伝えてくれているのだとは思う。でもわたしのツイートたちで、この人を不愉快にさせてしまい、その上よかれと思っておそらく送ってくれたであろうマシュマロを、言葉を、ぎゅっと潰してしまった。それがまた、自分のせいであるように感じて、苦しかった。自分がこんな人間ではなかったら、この一連の(タイムラインで見ている人たちも含めて)愉快とは到底言えない流れを生み出すことはなかっただろうに。

言葉にすることは、昇華であるということ。それは、わたしがずっと思っていたことだった。前にも書いたかもしれない。ライブや音楽で生まれた感情も感覚も言葉にすることで自分のものになる。しんどいときにその気持ちを言葉にすることもまたある種の救いになりうる。だからこそ、わたしの言葉が否定されたとき、わたしの居場所はなくなる。言葉は、わたし自身を表す。
言葉にすることは昇華でありそれを人に見せることは強さ、そんな言葉をマシュマロでもらったとき、なぜか涙が溢れた。認めてもらったような気がした。顔も名前もわからない、けれど、そこに存在を感じるその人の言葉に。あなたは強いよ、十分やっているよ、そんな風に優しく抱き締められた気がした。

言葉が、わたしを作る。そしてまた言葉を綴る。その繰り返しで、今の自分がいる。でもその言葉で誰かが嫌な気持ちになる。ならば、やはりわたしはTwitterをやめたほうがいい。ただでさえ何もできない生きていても何にもならない自分なのに綴る言葉が誰かを不愉快にさせるなら、言葉など見えるところで綴らないほうがいい。

Twitterが居場所なんて、嘘だったんだ。

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