見出し画像

結局自分を苦しめてたのは自分だった、かもしれない

生理前、PMS、PMDDのような症状に襲われ、外にいるのに何故か涙が出て止まらないことにはもう慣れてしまった。
※当然、そんなことしているのは側から見て「ヤバいやつ」だから、そういうときはトイレに駆け込む。


なんでこんなに苦しいのか、生きづらいと感じてしまうのか、私は親でも友達でもない誰かに救いを求めて、本棚にしまったままになっていた『ナナメの夕暮れ』(若林正恭著)を手に取った。


結果、彼は私の心を救ってくれた。


大学1年のときに古本屋で手に取った『社会人大学人見知り学部卒業見込み」と出会って以来、私は彼のエッセイを読み漁っている。
私が読む彼の3作目の本作は現状の自分に訴えかけるものがあるように感じた。


ー他人の正解に自分の言動や行動を置きに行くことを続けると、自分の正解がだんだんわからなくなる。

ー自分の正直な意見は、使う当てのないコンドームのように財布にそっと忍ばせておけばいい。

ー外のジャッジに気を取られすぎると、自分のジャッジを蔑ろにしてしまう。
『ナナメの夕暮れ』より



彼の本を読んで、たぶん私の生きづらさは自分の本心の在りかを忘れてしまって、
他人に迎合するのが癖づいているからだ、と思った。


小さい頃から、他人より優れていたい、そして認められたいという気持ちが人一倍強かった。

別に家庭環境が悪かったわけじゃない。親から成績に関して色々言われたことはないし、むしろ非干渉主義な両親だった。

だけど、中学の頃の成績の目標は「学年で10番以内」だったし、本当は嫌いなピアノでも人より目立ちたくて伴奏者に立候補したことがあった。

好きな人いる?と聞かれれば、当時、自分からみて「完璧」に見えた人の名を挙げた。
実際、その人を好きかどうかなんてわからなかった。けれど、LINEでのやりとり、本の貸し借りで”ちょっと高尚なやりとりをしている”優越感に浸ったり、バレンタインなどの行事に参加して一喜一憂するフリをしたりした。

そして高校時代、それが加速した。

理数科で芳しい結果を残せないとわかると、「勉強はできないけど頑張ってる子」として何度も職員室に通って質問をした。
塾では懇意にしてくれる先生のもとに毎日質問に行くために勉強した。

とにかく、私という存在がここにいていいという保証が欲しかった。
理数科では「頭のいい人」が価値ある存在として扱われているような気がしたから、私もそれに準ずる存在として居場所がほしいと思った。


ただがむしゃらに、寂しさを紛らわすために勉強したり質問に行ったりしていたけれど、結局苦手な数学は克服できなくて、数Ⅲまで取ったのに(もちろん質問めちゃくちゃしてたのに)受験で使うことはなかった。
高校卒業後、我に帰った私にとって、母校は「嫌いだった自分が思い出される場所」として近づき難い存在になった。

やがて、大学生になって人生初の彼氏ができた。

彼は私の理想そのものだった。

容姿も、清潔感があるところも、建設的に考えられる大人な思考も、料理したりジム行ったりして日常を楽しんでいるところも、ハリーポッターを一緒にめちゃくちゃ語れるところも、


「人」として尊敬できる部分がありながら、共感できる部分が多かった彼は、私にとっては
彼氏、というより『理想像』だった。
だから、彼女という立場で彼の隣を歩くのを申し訳なく感じては、私は彼と対等にいられない気がした(もちろん”先輩”として関わってきていたからということもあるけれど)。

また、彼が求める「私」に対して苦しさも感じていた。

“スカートよりスキニーのが好き!”
“ピンクっぽい髪色のが似合うよ!”
“今日何食べた?(何作った?)”
“(こっち来て、と広げられる手)🫲 🫱”

勿論、人から彼女としての振る舞い求められて嫌なわけがない。
スキニーのが好きとわかれば買いに行ったし、ピンクの髪が似合うと言われればブリーチしない範囲で最大限ピンクにした。
自分1人で食べる料理も彼に見せるためだけに凝って作ったし、恥ずかしかったけどその胸に飛び込んでみたりもした。

だけど、ずっとそれらに違和感を感じていた。
本当は太りやすい下半身が目立つスキニーなんて履きたくないし、髪色は落ち着いてて大人っぽいオリーブ系の髪色のが好き、
自分で食べる料理なんてカロリーが低くてある程度お腹を満たせればどうでも良いし、世の彼氏彼女がすることは気持ち悪いと思っていた。(自分が当事者になるなら尚更)

手を繋ぐこともキスもハグもそれ以降も、なんか苦しかった。
憧れの人と思いが通じ合うことがゴールだった私にとって、そういう関係になってその人と”する”ということは幻滅に近かった。
友人から「何をそんなプラトニックな恋愛を求めてるんだ」という声が聞こえてきそうだが、私はそもそも性行為を好きになれなかった。


結局、彼とはすぐに別れることになった。



何がいけなかったんだろう。
失敗したとき、いや失敗する前から、正解を他人に求めては自分の考えを蔑ろにした。
他人の意見はやっぱり正しくて、自分の考えが「他人とちがう」のは私が間違っているからだ、と何度も思い込ませた。

他人に対して多様性ある生き方を「いいねそれ」という反面、自分にはそれを許さなかった。

この一貫性のなさこそ”間違っている”というのに。


という感じで、私は『ナナメの夕暮れ』を読みながら過去の自分と今の自分を俯瞰していた。


私は若林正恭という人間に何度ハッとさせられ、勇気づけられたことか。

彼の少し屈折した考えにはとても共感するし、そのワードセンスには笑わされるし、それでいて自分の感情を言語化できているところを本当に尊敬している。


「若林さんみたいに強くなれないかな…」


と、つい今日も願ってしまう、もはや「若林信者」の私なのであった。


この記事が参加している募集

推しの芸人

わたしの本棚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?