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累積KJ法 R2ラウンド 「人間味ある矛盾を芸術や政治経済へ昇華させるには?」(第1章1項1節)/大塚


はじめに

以前の累積KJ法R1ラウンド実例の続きです。今回はR2現状把握ラウンドをやっていきます。

累積KJ法とは

KJ法を行使する一巡工程を一ラウンド(1R)と呼ぶ。最も狭い意味では、それは〔ラベルづくり→グループ編成→A型図解化→B型叙述化〕を指す。(中略)一ラウンドだけKJ法を用いただけでも、実りは豊かである。けれども、課題が少し複雑難解であったり巨大になってくると、一ラウンドだけでは、簡にすぎたり底が浅くて、用が足りなくなる。そこで、何ラウンドをも累積的に行使し、いわばたたみかけるようにして問題を解決する必要に迫られるのである。累積KJ法(Cumulative KJ Method; C-KJ)が生まれたのはこういうわけである。

川喜田二郎1986『KJ法ー渾沌をして語らしめる』中央公論社、pp.365-366

累積KJ法を何回行うかという点では、時間に余裕がある場合は、6回繰り返す六ラウンド累積KJ法が推奨されます。

R2ラウンド(現状把握ラウンド)とは

状況把握ラウンドは、問題提起ラウンドを踏み台にして、はじめて確乎と展開することができる。すなわち、R1がR2の羅針盤になるのだ。しかしR2では、R1の心の姿勢をガラリと一転せねばならない。すなわち、当事者が主観的にどう思っていようと、それとは無関係に、その問題意識をめぐる現実はどうなっているのか、それを冷静に見つめなければならない。このようにして状況を総合的に捉えてみると、目の覚めるような思いをする。

すなわち、漠と思いこんでいたことが鮮明になるばかりではない。「おや!」と思うことが沢山でてくる。そればかりか、思いこんでいた問題意識のイメージを裏切るような現実の姿が展開することも、決して稀ではない。文字通り「認識を新たにする」ことになるのである。

同上、pp.378-379

今回の素材となるデータは、R1問題提起ラウンドを経て調査項目を作成し、それに従って書籍やフィールドワークから得た139枚の元ラベルです。

ピンク色が調査項目。それ以外は集めたデータです。

この色のついていないラベルをKJ法でまとめした。当時は「KJ-GPT」は無いので、全て手作業です。OmniGraffleというソフトウェアを使ってまとめました。

全体のA型図解は次のとおりです。今回は、中央下に位置する①の一部について、文章化したものを載せます。


第1章 陰徳と転生

第1節 労働と慈悲心、相互扶助

第1項 お金を社会還元し、情動をも分配する

日本の相互扶助の歴史を遡ってみると、千体地蔵など作善と功徳を大人数で分け合う宗教共同体の講から、日本庶民の社会連帯の知恵が生まれた。さらに、江戸時代に盛んとなった頼母子講は個人的利益でなく相互扶助という倫理的思想で、地域社会の資金を循環させた。そのように、日本人は宗教の功徳や地域の資金などを融通し合う講によって、道徳的な相互扶助の精神を育んだ。

千体地蔵は鎌倉時代以前からあった信仰である。奈良の元興寺極楽坊にのこった資料や、鎌倉の覚園寺地蔵堂のものなどがそれをしめしている。
いずれも千体を一人で造立寄進するのでなく、大勢の信者で千体をつくろうとする庶民信仰からでている。千部経、千坏供養、千僧供養、万人講、百万遍念仏などというのもこれで、大きな作善を多数人の小善の総和で完成する信仰である。
これは功徳を融通し合うという信仰共同体意識で、もし念仏の功徳を融通し合えば、融通念仏である。わずかな掛金で災害には大きな金を保障する保険や、無尽の観念とおなじだといえる。社会連帯の庶民の知恵は、まず宗教共同体的講からうまれたのである。

五来重1968「円空佛 境涯と作品」
五来重1997『円空と木喰』淡交社、pp.84-85

個人に利益をもたらす銀行とは異なり、頼母子講は相互扶助(「共済」)という倫理的な思想によって、地域社会のなかで資金を循環させた。加入者は頼母子講のために、最大で収入の三分の一を取り分けておくように助言されていた。加入者ごとに率を計算するよりも、単純な入札方式のほうが好まれ、利用する際の費用は商業銀行の利率よりも低く設定された。

テツオ・ナジタ著2009、五十嵐暁郎監訳、福井昌子訳2015
『相互扶助の経済 無尽講・報徳の民衆思想史』みすず書房、pp.96-97

(確かに昔はそうだったかもしれないが、モータリゼーションが急速に発達し一定の場所に代々居住することが減ってきている現代において、地縁のもつ意味は薄れてきている。さらに、価値観が多様化し相手との共通認識を得にくい時代になってきて、互いの合意のもと一箇所にお金を出し合うのは、盗難や詐欺の心配もあってやりにくくなっている。とは言っても、東日本大震災をきっかけに地域や共同体の重要性が見直され、相互扶助が再度注目されてきたのは確かだ。地域通貨や地域資本主義など、これまでの金銭的な豊かさとは違った価値観が追求されるようにもなっている。しかし、他人への寄付や見返りなしの喜捨などの取り組みは、以前の日本に比べると活発ではない印象がある。たとえふるさと納税が活発であっても、ほとんどが「返礼品」というお返しを目的とした地方への歪な寄付である。)

そもそも金銭は、社会に広く流通し、多くの人の生活や生命を支える公共的役目を担っているとの考えは、昔からあった。(「金は天下の回りもの」とも言っている。)それを前提とすると、節制して余った分のお金を自分でなく世のために使ってこそ真の倹約であると言える。お金は世に流通することで公共物の役割を果たすので、本来自分で無く他人のために節約するべきだと言うことである。

江戸時代の思想家で、商業の本質を鋭くついた石田梅岩は、富や金銭の性質について、次のように述べる。

「金銀は天下のお宝なり。銘々は世を互いにし、救い助くる役人なりと知らるると見えたり(金銀は天下の財宝である。その財宝のすべては社会に行き渡って、人々を助ける役人の役割をもっている)」

山岡正義2014『魂の商人 石田梅岩が語ったこと』
株式会社サンマーク出版、pp.21-22

金銭というものは社会に広く流通して、多くの人の生活や生命を支える「公共的」な役目を担っている。だから商売を通じて得た富や財といえども、けっして自分の所有物などではなく、最終的には世のため、人のために役に立てなくてはならない——

同上、p.22

名君と呼ばれる人は民からの年貢なども三石のところを二石に減らし、その減った会計の範囲内で自分たちの生活をまかなうよう配慮するものである。減らした一石分だけ民の暮らしに余裕が生まれ、かりに飢饉があったとしても、その一石が飢えを救うことに役立つからである。このように世間(世界)のために行う節約こそを真の倹約というのである。

同上、p.90

(逆に自分だけのためにお金の出し惜しみをするのは、利己的な行為とされる。しかし、他人のための節約というのはあまりに理想的なキレイゴトではないのか。資本主義と個人主義が加速する現在、自分以外の人の幸せのみを願って自分は苦しい生活を進んで送ったとして、一体報われるのだろうか。もちろん国の福祉制度は発展し、生活保護など貧困者の救済措置を利用すれば曲がりなりにも食っていける。ただ、他人にお金を施して自分は生活保護で生きるのは本末転倒であろう。老後に必要とされる2,000万円を年金もなしに自ら都合つけないとやってけないと脅される現代日本人にとって、お金は自らの預金口座に大切にしまっておく財産としてしか捉えられず、他人に見返りなしに譲ろうなど考えもつかないのではないか。その一方で、利他的な行為は周り回って自らの利益となる究極の利己的な行為でもあると、フランスの経済学者・ジャックアタリはNHK番組「緊急対談 パンデミックが変える世界」で話していた。また、テツオナジタの『相互扶助の経済』によると、江戸時代の商人の心得を記した『町人常の道』にも以下のような記述がある。)

貨幣は人を選り好みせず、単なる物質であって生命あるものではない。人が貨幣を使う特定の方法(「人の為す技」)によって、貨幣は道徳性や活力を獲得するのである。人が富を蓄えることそれ自体を目的とするのは、不道徳ではないにしても、倫理的には劣った行為である。むしろ、富を得る「誠」の方法は、商業がもつ社会的な側面を認識した上でおこなうことであった。この側面を追求する人も貨幣に引き寄せられるが、生命のない物質としての貨幣を生活の過程や社会の流れに変えていけば、商いは「大徳」になる。このような道徳にかなった良識をもって富を獲得することは、自分や家族のためではなく、社会や公共の善のためになる。したがって、商いは単純に富の蓄積と考えられるべきではなく、富が社会に循環する(「世間にまわる」)よう、刺激をあたえるものととらえられるべきである。こうして、貨幣は、社会のある部分から別の部分を行き来し、損を生じさせることも得を生むこともありながらも、移動するあいだに「生命」を獲得していくのである。
貨幣の生命は動くことにあると理解すれば、損をするかもしれないという恐怖を克服し、損は状況に左右されるものであって取り返しのつかない惨事ではないと受けとめることができる。実際、金銭的な損失は壊滅的な事態だとする不安が富の蓄積それ自体を目的とし、その結果として貨幣から生命と活力を奪い、貨幣を実質的に殺して生命のない物体にしてしまうのである。つまり、貨幣には道徳的あるいは感情的な意味も、また本質的に堕落させる力もないのだが、商人が社会の隅々にまで貨幣を流通させるにつれて、生命を得て、その過程で幸福を拡大していく。この貨幣理論の重要な点は、過程そのものを理解することと、その過程が必然的で自然に起きるものであると受身にとらえるのではなく、人間が関与し介入することが必要だと理解することである。

テツオナジタ『相互扶助の経済』、pp.48-49

(つまり、物の売り買いや商いは単純に富の蓄積と考えるのでなく、富が世間に回るために刺激を与えるものと捉えるべきである。貨幣が社会を行き来し、その途中で得も生み損も出すことで、「生命」を獲得する。貨幣の本質が動くことにあると理解すれば、損をするかどうかは状況に左右される相対的なもので、取り返しのつかない惨事では無いとわかり、恐怖を克服することができるというのだ。現代において問題なのは、貨幣を非動態的で硬直した無生物と捉えていることである。お金を生き生きした生命と考え、預金口座の牢屋に閉じ込めず周囲へ流通させるべきと意識を変えることで、他人のために倹約することに納得できるのでは無いだろうか。そうは言っても、貨幣は単なる物であり自らの意思で動くことはない。生き生きとした生命力ある貨幣というのを単なるアナロジーに留めていては、結局何も生まれない。

その具体的な実地の例として、昔の一人旅で受けた恩に感激したおばあちゃんが、大赤字の定食屋を心から楽しんでやっていたのが参考になるかもしれない。この例は、「エコノミー」という言葉はもともとは利潤だけでなく、自然や身体、情動などをいかに配分するかという意味を持つことにも結び付けられる。

「エコノミー」は、もともとギリシャ語の「オイコノモス」という語から来ていますが、それは本来的には「家政」や「家令」を意味していました。要するに家の中にあるものをどう割り振るか、という配分、案配をすることですね。いまでもエコノミーの訳語として「配分」という語が当てられることがあります。いま私たちが理解している「経済」は、そのオイコノモスのほんの一部にすぎないのです。オイコノモスとは、自然やじぶんの身体や情動をどのように配分するかという大きな技術を必要とするのです。DiY的なエコノミーの実践は、金銭的な利益を最大化しようとする狭義の「経済」とまったく別の経済の原理を導入しようとします。それは根源的なひとびとの欲望や、情動に突き動かされたエコノミーなのです。

毛利嘉孝2008『はじめてのDiY 何でもお金で買えると思うなよ!』
ブルース・インターアクションズ、p.101

(それは、金銭のやり取りはただの物体を受け渡ししているのでなく、そこに生まれるコミュニケーションのやり取りでもあると言い換えできる。コミュニケーションの一つの種類として、お金のやり取りがあるのだ。それが現代では、大型スーパーやコンビニ、ネットショップの興隆を受け、お金のやり取り時の交流が形骸化してしまっている。例えば市場での値段交渉の駆け引きなど、店主と客の即興的なコミュニケーションは消滅寸前だ。そんな中で、21年3月9日付の佐賀新聞朝刊に載っていた、APU学生の値段のない八百屋などは意欲的な取り組みだ。)

(形が悪くて廃棄せざるを得ない農作物を地元農家から集め、店頭に並べる。無料で置いては人々が他人の目を気にして持っていかないので、お客さんに自由に値段を決めてもらって心理的ハードルを下げているという。これを社会福祉としてではなく経営として継続するには、実際のところ店主には熟練した接客パフォーマンスやギリギリ赤字にならないようにする長年の勘などスキルが重要だろう。ただ、人工知能の進化により適正な値段を自動で吐き出してくれるシステムなどが確立すると、勘の部分はいくらか容易に習得できるかもしれない。一方、グローバル化による世界規模の物流はしかし完全には否定できない良さもある。文化を超えて流入したモノが、受け入れ先の文化の異質として扱われ、そこがカルチャーの新たな深化のきっかけにもなりうる。近所の商店街で値段の交渉を行うだけでは、客観的に社会を動かすことにはつながりにくい。店主と客の内的なコミュニケーションを、外部へむけて開かなければならない。例えば魚市場などの競りや美術品のオークションなどは、集団に開かれた値段交渉のコミュニケーションである。世界規模の株式売買などは、金銭の価値が一分一秒で動態的に変化する実に生き物的なありようである。仮想通貨のブロックチェーンも継続的に取引台帳を個々のパソコンが互いにチェックしながら存続するという、常に動き続けないと死んでしまう言わば生命のような仕組みともとれる。)

出血大サービスの食堂であっても、お金以外をやり取りするコミュニケーションとしてのやりがいが生まれる。それはつまり、本来ギリシア語に源流を持つ「エコノミー」の言葉のように、利益だけでなく自然や情動を配分する、動態的でアニミズム的な行為である。
(激安価格で定食を提供して金銭的には赤字でも、その分感謝の言葉をもらえれば精神的には収支トントンという。それは古代ギリシア時代からお金のやり取りの基礎として存在していたのだろう。現代でもそれが無くなった訳ではないが忘れ去られつつある。具体的な金銭の受け渡しの場面ではコミュニケーションが乏しくなり、お金の生命的な側面はヴァーチャルな株取引や仮想通貨の世界へと抽象化してしまった。プレゼントや贈り物のやり取りは具体的な物質を通じた交流の例であり今も残っているが、隣近所へのお裾分けやお金の融通などは廃れ、親しい間柄においてのみ行われるのが普通となった。一方でインターネットや情報技術の目覚しい発展を背景として、対面で会ったこともないような人や組織へ寄付をする、クラウドファンディングだったりふるさと納税だったりが人々の心を捉えている。しかし、ネット上で繋がった相手へお金の寄付をすることが、果たして十全なコミュニケーションだと言えるのだろうか。言語化できないノンバーバルな要素も含めてコミュニケーションではないのか。いや、そもそもお金のやりとりがコミュニケーションとして十分であることは絶対必要なのか。重要なのは自分以外の人々が活きるために倹約しお金を社会に流通させることであって、それがネットを通した寄付であっても何も問題はない。課題なのは、貨幣が陳腐化しにくく急激に価値も変動しにくいため、手元に残しておくことに執着しがちになることである。それによって通貨は生命力を失う。)

(つまり、価値の安定した貨幣はコミュニケーションの動脈硬化を引き起こし、社会の生命機能を停止させるのだ。とはいえ、ハイパーインフレなど貨幣価値が乱高下することによって活力ある社会は実現しないのは明らかだ。国の中央銀行が唯一その価値を裏付けするような中央集権的な貨幣だと、国民の貨幣価値への依存と危機への脆弱さが課題となる。ブロックチェーン技術など分散型の仕組みで価値が裏書きされる仮想通貨は、その価値が刻一刻と変化することも考慮すると、通貨の流通を促進して社会を活性化させるお金という議論において理想像に近いように思われる。ただ、そのような仮想世界での貨幣のやり取りに欠けているのを強いてあげるとしたら、具体的な対面コミュニケーションである。そこで、互いに顔見知った仲間内で融通し合う新たな仮想通貨もしくはその口座を作るのは一つの手かもしれない。また、貨幣流動の停滞を解決する身近な方策の一つとして、個々人が毎月少額でも株式に投資することが挙げられる。それは預金口座やタンスに貯金するよりも、よっぽど公共のためになる。昔の日本では頼母子講などが近所の人の共通口座のように働いて、自ら稼いだお金をそこに毎月積み立てておくと入用の時にまとまった金額を引き出すことができ、相互扶助の手段として存在していた。その役割は相互銀行などを経て、今や株式投資が担っているとは言い過ぎだろうか。少なくともその出費したお金が、明確に計れる価値を持って返ってくるのでない、投機的な側面を持つものとして、講と株式投資は似ている。投機という観点では、価値が常に変わり続ける仮想通貨も関連が見出されるであろう。)

このように、公共物であるお金を自ら節約し社会へ還元することで、コミュニケーションが活性化され、エコノミーの語が本来持つ、利益だけでなく情動なども含めた分配を果たせる。
(ただし、現代日本でそのような実践がなされているのは稀である。実際は利己的に預金口座にお金を貯め込み、自分もしくは家族の生活の安寧のみを願っての倹約がほとんどである。日本銀行が唯一の貨幣発行機関として中央集権的に君臨し、国民も盲目的にその絶対的な貨幣価値の不変性を信じる現状では、そのような振る舞いも理解できる。しかし、それでは貨幣は流通せず、江戸時代の商人哲学にあるように貨幣の生命力は衰え、社会自体も萎んでしまい、ゆくゆくは国の経済が破綻し日本円も紙屑と化してしまうだろう。お金が滞ることで人々のコミュニケーションも活発にならず、古代ギリシアから受け継がれた知恵も虚しく、人心は暗く落ち込むことになる。)

この第1章1項1節では、日本人が講で学んだように、資金や功徳などを占有せず社会に還元させることで、利益のみならず情動をも分配するエコノミー本来の語義を体得できると主張した。
(しかし一方で、現代日本では講の仕組み自体が活発ではなく忘れ去れらつつある。講から今につながる制度や仕組みとして、地方信用組合や生活協同組合、宝くじなどはもちろんある。また講の投機的側面に着目すると、株式投資や仮想通貨も関連がありそうだ。しかし、中央集権的な貨幣システムに依存する日本では、お金の価値は安定し続けるものだと信じ切って銀行口座にせっせと貯め込むことが一般的である。それに伴い、例えば多くのふるさと納税が利己的な返礼品を見返りになされ寄付本来の意義が形骸化しているように、社会に還元するような利他的コミュニケーションも活発化しにくい現状がある。お金のやり取りが打算上のものに終始し、保身のために貨幣流通も停滞しては、古代ギリシアで重要視されたお金のやり取りに随伴する身体や感情の交換も実現できず、人々は意気消沈し社会も暗くなる。お金が生き生きと人々の間を行き来しないことで社会の生命機能は停止し遂には国内経済が破滅に至り、結局は口座に貯めていた貨幣価値も無と化してしまう。


本日はここまで!また次回に続きます。


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