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しっかり寝てフルセンシングの毎日を

「弱いつながり」東 浩紀さん 2014年7月発行

今の自分の人間関係、仕事で起きる事象、全てこれらは1日、1秒、一生を違えれば体験できなかった事であり、だからこそかけがえのないものだと感じる事ができる。まさにこの偶然こそ、その時に“感じる何か”こそが、もう二度と同じ事は起きる事はないかもしれない何かであり、弱いつながりから得られる強い何かなんだろうと感じる。
だからこそ、ネットによって情報欲が満たされ、また満たされようと事前計画化してネット検索をしてしまう事が、ひらめきや言葉の強さや連綿とつながる思考などの脳力を貧しくしてしまっている危機感も覚えた。
自ら得たその場のひらめき、その場でしか思い浮かばない何かをより豊富に持つこと、その積み重ねが次の自分を作り、脳内の新しいシナプスを作るまさにイノベーションが起きる瞬間だと感じる。これを量産する仕組み=習慣作りがとても大事、読書、他とのふれあい、そして旅こそが有用な体験装置。
その意味では、娘には体験ファーストで脳幹を鍛えながら言葉を増やしていって欲しいし、他とのつながりやそこから生まれる自分なりの世界観を作って欲しいと思う。なぜなら、それがオリジナリティ、彼女らしさであり、さらに新しい自分を見つけよう高めようという動機になると思う。留学や旅をはじめ、日本列島から出る事の重要性はそこにあると思う。脳内シナプスをたくさん作る、つながる作業によって自分や自分のコミュニティの再発見をする。環境、習慣こそが人を変える。

もう一点考えさせられたものは、リアルなものに対する動物的な直感の重要性だ。言葉による裏の読みあい、説明の重ね合いの様な抽象化・メタ化の繰り返しだけでは、物事を正しく捉えられないのではという事。
例えば戦争反対的なちょっと左臭がしてしまう惨状絵や写真、なんだかどうにかしてセンチメントに訴えかけようととても強い恣意性を感じるお話や写真や情景描写、それに直情的になる事は幼い事、理知的な大人として忌避すべき事の様に思っていた。
例えば老齢の方の戦時中の残酷な体験を聞き感情的な思いに突き動かされ、戦争反対と叫んでみたりといった事はどこか大人ぽくないなと感じてしまう。
ただ、人間が環境、習慣によって形成されている生体だとするならば、その過程の知覚経験の積み重ねでしか自分は出来上がらない。つまり五感通じて得る心のゆさぶりによって自分なりの興味関心が生まれ、行動してみようというのはとても自然な事で人間らしい、高等な反応な気がしてならない。
ただし、大原則としてやはり自ら身体体験を通じて知覚するという事無くしてそれは成り立たない。明治が輝栄たる時代たらしめたその一つである岩倉使節団は、まさに彼らは自らの五感からフルにセンシングし知覚を自ら獲に行ったのであろうし、それなくして、あの時代の法、文化、産業は創成しえなかったと考える。日本の外では何が起きているのかを知るために文献漁読のみではあの様々な発想力は生まれなかったと思う。

よってリアルに触れる事はとても大事。
ただ先述の直情操作を狙ったようなセンチメント系のお話や写真や映像が危うさたっぷりである事は認識しておいた方がいいし、それらは最低限自らの思考フィルターを通して、己事に一瞬でも置き換えてみる事、ちょっとした即席アナロジーくらいはしておかないと、確かに幼稚かつ刹那的な直情行動に留まるだろう。要は何かスキャンダルとかメディアのセンセーショナルな言葉を使ったレトリックお遊びに反応し怒ったり悲しんだり喜んだりという事は避ける。
とにかくあるがままに感じてみて、そして理知的に論理的に思考を深めれば良いと思う。
やはり現実を見る事、そこで自分が何を感じるか、そこから自分のストーリーや見解を作るという体験を大切にしたい。それがオリジナルであり、自分の意見であるとも言える。

その場で感じる何か、必ずローカルの生々しさとか、五感を刺激する何かがあるはずである。それが違いであり、意図的ではなく生み出されたオリジナルだろう。それをメタ化して文化とか民族性とか言うのだろうが、色々な捉え方見る角度やレイヤーの違いはあれど、この淡い弱い感覚こそがオリジナリティだと感じる。(難しいこの感覚の言葉化は..)
ただ言える事は、むしろあまりに違いを露出しようという意図的な試みはしらけたオリジナリティ、単色無色な印象しか残さない。

とにかくコロナ禍こそ万難排して海外に行こう。

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