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[掌編小説]テキサス・キャノン・ボール

近所のコンビニを右に曲がって、暫く真っ直ぐ行くと、10畳程の小さなコインランドリーが見えて来る。
その隣に、同じ位小さな蕎麦屋がある。
2人掛けのテーブルが4つあり、入り口には5.6冊の新聞や雑誌がブックスタンドに並んでいて、厨房には棒切れみたいな腕の大将が、何時も寸胴鍋をかき混ぜている。
メニューは掛け蕎麦、盛り蕎麦の2種類のみと少ないが、喉越しは格別だ。どれだけ口に詰め込んでも、喉が蕎麦に合わせて形作られたかの様にフィットする。
私は学生時代から合わせて6年間通っているが、大将と会話らしい会話をした事が無い。
1度だけ「お嬢ちゃん、お釣り忘れてる」とお釣りを貰い忘れた私を店の外まで追いかけて来てくれた事があるがそれっきり。
それ以外は全く口を開かない、まさにプロトタイプの職人だった。

 日曜日の午後、私は昼食をとりに件の蕎麦屋に行った。午前中降っていた小雨が上がって、太陽が出ている。
ビニールハウスみたいに蒸し暑かったけれど時折吹く5月の風がまだ冷たくて、何故だか私の頭に、水を張った桶に入っているスイカのイメージが浮かんだ。
周りから隔離された雑誌の1ページの様に、スイカの周りだけ冷んやりしている。同じ様に私も、人っ子1人歩いていない路地を行く。

 蕎麦屋の前に着くと、ピシャリと閉まっている扉の中から大きな声が聞こえてきた。
怒鳴り声と怒鳴り声が交互に飛び交っているのが分かる。
私は小さい戸の前で、それよりもより小さくなって聞き耳を立てていたが、どうやら客と大将が何か蕎麦の事で揉めている様子だった。
 しかし、古い癖に妙に立て付けのよい戸が閉まっているせいで、飛び交う声は上手くチャンネルが合わないラジオの様に、大事な所はガーガー聞こえるだけで詳しくはわからない。
 とにかく私はお腹が空いていたし、私が入る事によって一先ず事態が収まるのではと思い、わざとらしく咳払いをしながら戸を開けた。
すると店内の、老けた小太りの客と大将がバッとこちらに視線を向けた。
小太りの客は興奮している様子で少し目が赤かく、フーフーと口で露骨に呼吸を繰り返していたが、特段、普段と変わらない様子ね大将はこちらを見ると「いらっしゃい」と私に呟いた。
それから少しの、皿を割った後の様な静寂があった。
静寂を破ったのは私でも大将でも無く、小太りの客だった。
 「とにかく認めん。客に対して何て態度だ」と小太りの客は吐き捨てると、俺はお客様だぞ、と呟きながら店を出て行く。俺は怒っているんだ、と背中が主張していた。

「どうぞ、座って。すいませんね」
大将が椅子を引いて、暖かいほうじ茶を持って来てくれた。
私は先の張り詰めた空気のせいで口が渇いていて、ほうじ茶を一口でクッと飲み干した。
「何があったんですか?かなり怒ってましたよね」 
私が聞くと大将は、浅いため息をついて答えてくれた。
「新メニューを作ったんだよ、そろそろ夏だからね。あのお客さん、新メニュー注文してこれは蕎麦じゃ無い、こんな物に金は払わんって吐かしてね」
大将は厨房からほうじ茶の入ったボトルを持って来ると、私の殻の湯呑みに注ぎ足した。
「美味しく無かった、とかですか?」
私は訪ねた後、失礼だったかなと少し後悔をした。
小学生とかその位昔からの癖で、気をつけ無ければと日頃思いつつも、言い終わった後に、そう言えばこんな癖だったな、と思い出す。
「いや、一口も食べて無いよ。見た目がダメだったんだろうね」
大将は湯呑みをもう一つ持ってきてほうじ茶を注ぐと、一口飲んだ。
「味は美味いんだよ、ちゃんと試食したからね。美味いだけじゃダメらしいね、ただ俺は、本質は見た目じゃ無いと思うよ。蕎麦が何の為にあるのか、それは腹を満たす為だ。美味ければ尚更いいに越した事は無い」
私は無言で二回頷いた。そして大将が作った新メニューが気になった。
「私も注文していいですか?その新メニュー」
大将はニコッと笑った。
「あいよ、テキサスキャノンボール1つ」

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