ハナ、ツル、セツ (e)

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1936年1月、『少年倶楽部』昭和十一年一月号から、江戸川乱歩(えどがはらんぽ)の『探偵小説(たんていせうせつ) 怪人二十面相(くわいじんにじふめんさう)』の連載が始まった。挿絵は「小林秀恒(こばやしひでつね)畫(えがく)」とある。268ページと269ページの見開きで、左ページに老人、右ページに若い男性、ふたりが目を剥いて見ているのは、右ページの下、小箱の中で光る宝石を、今にもつかみとろうとする何者かの手。

その頃(ころ)、東京中(とうきやうぢやう)の町(まち)といふ町(まち)、家(うち)といふ家(うち)では、二人以上(ふたりいじやう)の人(ひと)が顔(かほ)を合(あ)はせさへすれば、まるでお天氣(てんき)の挨拶(あいさつ)でもするやうに、怪人(くわいじん)『二十面相(めんそう)』の噂(うわさ)をしてゐました。
(『別冊太陽 子どもの昭和史 昭和十年――二十年』、平凡社、1986年、p.58)

USAでは、同1936年2月、チャールズ=チャップリン監督・脚本・主演・作曲、サウンド版の無声映画(サイレント)“Modern Times”が公開された。冒頭、家畜の豚の群れが、職場に急ぐ人々の群れに変わる。工場で、ベルトコンベヤーで運ばれてくる部品のねじをねじ回しで締める、ただそれだけを繰り返すのみ、機械の一部のように働かされる労働者のひとりが、ベルトコンベヤーに乗って機械の中に入ってしまい、歯車の間をぐるりと回って出てくると、ねじ回しを武器に、工場の内外を縦横無尽に大暴れする。歯車にはさまれても死なずに、傷一つ負わずに出て来るという漫画のような表現は、心の病を表わしているのであろう。彼は、”nervous breakdown”, 神経衰弱と診断され、救急車で病院へ送られる。退院してから、道を歩いていて、たまたま、落ちていた旗を拾ったら、労働者のデモに巻き込まれ、警察に逮捕されて、今度は刑務所に。しかし、看守や刑務所長に乱暴を働く脱獄犯たちをつかまえたので、待遇改善、快適な生活に。そのうち、釈放されてしまった。釈放されても、行くところがないのだけれど。

機械労働からはみだした人は、精神病院に入るか、刑務所に入るか、失業者になるか。親を亡くした少女は、孤児院に入るか、浮浪児になるしかない。それでも、少女は道で踊っているところをスカウトされて、レストランのホールの舞姫になる。少女の友達の放浪紳士も、ホールで歌うことになる。でたらめな外国語で、パントマイム付きで、滑稽な歌を。初めて映画で発声された、チャップリンの歌声である。せっかく手に入れた仕事も、警察に追われて失ってしまう。それでも、少女に、放浪紳士は、”Smile”という。そして、”Smile”という曲とともに、放浪紳士と浮浪少女が手に手をたずさえて、まわりに何も建物のない、どこまでも伸びた一本道を歩いて行く。画面のふたりは、始め、映画を見ている観客に向かって歩いてきて、次の画面で、観客は、歩み去って行くふたりの後ろ姿を見送る。

大日本帝國では、同1936年2月26日から2月29日にかけて、陸軍の部隊1500人余りが、総理大臣官邸や警視庁を占拠し、内閣総理大臣秘書官・大蔵大臣・内大臣・陸軍教育総監・警察官5名を殺害した。牧野伸顕は1935年12月に内大臣を辞任し、帝室経済顧問となっていた。彼は湯河原温泉で静養しているところを襲撃された。本人は無事だったが護衛の警官が殺された。襲撃部隊は、投降を呼びかけられて、鎮圧された。

その陸軍叛乱事件のさなか、1936年2月27日、松竹(まつたけ)キネマ製作・配給で、清水宏監督の映画『有りがたうさん』が公開された。原作は川端康成の『有難う』である。全編、伊豆半島で現場撮影された。乗合自動車の運転手で人気者の「ありがとうさん」と、乗客たちや、休憩所の人、途中ですれちがったり追い越したりする、人力車に大八車に馬車、農婦や行商人や旅芸人、ハイキング客、団扇太鼓を叩いて歩く巡礼、坊さんなどとの、人情味のあるやりとりが続く。乗客のなかには、金持ちそうで、自動車を急がせたり娘に色目を使ったりする嫌味な男もいる。そんな嫌味な男を毒舌で制する娼婦もいる。海に山、峠に谷川、漁港、棚田、沿道の美しい景色。ありがとうさんと乗客たちの会話はどこまでものんびりしているが、都市も農村もおおう不景気や、富と貧しさ、幸福と不幸とが、あらわになる。

大勢の子供を連れて両手に一杯荷物を持って歩く人々。「あの人たちも失業して帰ってきたんですよ、きっと。この頃は毎日失業者が、村へ帰ってきますからねえ」
休憩所で、反対方向へ行く乗合自動車の、東京見物から帰って来た父と娘との会話。「ターキーを見たわよ。発声映画も見たわよ」
お産に駆けつける医者が、赤ん坊はたくさん生まれるが、男はルンペン、女は一束幾らで売られて行く、うっかり、おめでとうも言えない、と言う。
弊衣蓬髪の男が歩いているのとすれ違う。「あの人は気の毒に、好きな娘が売られていってから気が変になって、毎日、この街道を行ったり来たり、探しているんですよ」

ありがとうさんの乗合自動車にも、東京に売られて行く娘とそれを送って行く母親が乗っている。母娘と、娼婦、3人の女の会話が、旅が進むとともに、いやがうえにもサスペンスを高めていく。娘の涙に気を取られた「ありがとうさん」の運転する車が、今にも崖から落ちそうになったところで、急停止。「いやあ、とんだ軽業をやってしまいましたよ」

荷物を一杯持った朝鮮の人々の一団を追い越すと、ひとりの娘が追いかけて来る。踝まで届く裾の長い、白いチマチョゴリを着た娘。トンネルの手前で乗合自動車を停めて休憩していると、娘が追いつく。娘は、父親のお墓の近くを通ったら、お水をまいてお花を供えてあげてと、「ありがとうさん」に頼む。朝鮮の人々は道路工夫で、工事が終わって、信州の工事現場へ移動していくのである。
「あたし、あそこの道ができあがったら、一度、日本の着物を着て、ありがとうさんの自動車に乗って通ってみたかったわ。でも、あたしたちは、自分達でこしらえた道、一度も歩かずに、また、道のない山に行って、道をこしらえるんだわ」

乗合自動車は再び出発し、トンネルを抜ける。
東京へ売られて行く娘が言う。「峠を越えると、もう、遠くの国へ来たような気がするわ」
「この秋になって、もう8人の娘が、この峠を越えたんだ。製糸工場へ、紡績工場へ、それから、それから方々へ。おれは葬儀自動車の運転手になったほうが、よっぽどいいと思うときがあるよ」

もしや、軍隊にも、よっぽど、葬儀屋に雇われた方がいいと思った人がいたかもしれない。「ありがとうさん」を、「ありがとうさん」のままでいられるように、絶望の淵から救ったのは、東京に売られて行く娘の未来の姿に違いない、娼婦のささやきだった。

ヨーロッパでは、同1936年3月7日、ドイツ軍がラインラントに進駐した。ラインラントは、1919年6月28日のヴェルサイユ条約、および、1925年12月1日のロカルノ条約で非武装地帯と定められている。国際連盟総会は、ドイツ軍進駐を条約違反であると宣言した。しかし、制裁に賛成したのはUSSRだけだった。同1936年3月29日、ドイツ政府は、ラインラント進駐について国民投票を実施、98パーセント以上の賛成を得た。

ドイツは大日本帝國と同盟を結ぼうとしていた。ドイツ政府の宣伝映画の撮影陣が日本に来た。監督は、山岳映画という分野を確立したアーノルト=ファンクである。F監督は、日本女性の魅力をドイツ国民にアピールできる俳優を探し求めた。日本の映画業界は、こぞって綺羅星の如き女優たちを推薦したが、いずれも御眼鏡にかなわなかった。

その頃、ハナとツルは、宇良田唯(うらた=ただ)という、実在の女性を主人公とする映画を企画していた。

宇良田唯(うらた=ただ)は、まさしく、あの女子師範学校の校長の中村正直(なかむら=まさなお)が奨励したような、日本をしょって立った女性である。1873年に熊本県の天草で生まれ、熊本薬学校で学び、薬剤師になって薬局を開いたが、やがて店を閉じて東京に行き、済生学舎で学んで医師免許を取った。そして、同じ熊本県出身の北里柴三郎(きたざと=しばさぶろう)博士の伝染病研究所に入る。北里柴三郎(きたざと=しばさぶろう)は1880年代にドイツに留学し、ベルリン大学でロベルト=コッホ博士の許で学び、破傷風菌を発見し、医学博士号を授与されて帰国、1891年に伝染病研究所を設立したのだった。

その後、宇良田唯(うらた=ただ)は、一旦、熊本に帰って医院を開いたが、やがてまた東京に行き、ドイツ語と英語を学んだ。そして、1903年、北里柴三郎(きたざと=しばさぶろう)博士の紹介状を持ってマールブルク大学に留学する。1905年、マールブルク大学から医学博士号を授与される。帰国後、故郷に戻って医院を開く。しかし今度は、学習院から請われて東京に行き、教師と医師を兼業する。1910年、北里柴三郎(きたざと=しばさぶろう)博士の世話で伝染病研究所の薬剤師・中村常三郎(なかむら=つねさぶろう)と結婚する。1912年、夫婦で中華民國に渡り、天津で同仁病院を開業する。1931年、滿洲事変が起きる。この年、唯(ただ)の夫が病気で亡くなった。1932年、滿洲國ができる。1933年、唯(ただ)は、日本に帰り、熊本、ついで、東京で医院を開業した。

ハナとツルは、女子師範学校の映画で架空の15歳の少女成瀬節(なるせ=せつ)を演じたセツを、宇良田唯(うらた=ただ)役に据えた。青山千世(あおやま=ちせ)役のチセ、古着屋の娘は、前の映画の撮影が終わるや結婚し、すぐに妊娠したので、今回は休みである。ハナとツルとセツは、宇良田唯(うらた=ただ)本人に会って長時間の聴き取りを行い、映画化の許可を得た。巷間伝わるところでは、19歳のとき、学問への志を置き手紙に認め、婚礼の席から逃げ出したとも、結婚して3箇月後に逃げ出したともいわれるが、真実はどちらかと尋ねると、本人は笑って答えなかった。しかし、夫が嫌いなのではなく学問がしたいのですと書いたことは真実だと語った。留学時代の写真や同仁病院開業の記念写真も見せて貰った。清の王朝が倒れ、新生まもない中華民國で撮った写真には、辮髪の人の姿はない。

今度も、芝居の稽古を繰り返して、舞台に上げることができるぐらいになってから、撮影に入る予定だった。芝居の稽古の仕上げの日に、日本の魅力をドイツ国民にアピールできる俳優を探し求めて探しあぐねたF監督が、見学に来た。通訳付きで最初から最後まで見たF監督は、ハナとツルに近寄って、この芝居を映画化するに当たって、是非、自分たちに協力させていただきたい、主人公のドイツ留学時代は、せりふのなかだけで表現されているが、そこの部分を脚本に書き加えて、ドイツに来て撮影していただきたい、と申し出た。

宇良田唯(うらた=ただ)が留学したときは、ちょうどあの『制服の処女』の原作者クリスタ=ヴィンスローエが寄宿学校に入学したときと重なる。ハナとツルは、それをまさかドイツで撮影できるとは、企画段階では想像もしていなかった。しかし、一転、現場撮影が可能になった。そこで、映画は宇良田唯(うらた=ただ)がマールブルク大学で医学博士号を授与される場面から始め、彼女が過去を回想し、婚礼から脱走、薬学・医学を学んで、再び、医学博士号授与の場面まで戻る。続いて帰国後の数年間をたどり、天津で開業した病院の前で記念写真を撮る場面で終わることとした。天津の場面は初めから日本のセットで撮ることにしていた。追加することになったドイツの場面は、製作の最後に回す。

ハナとツルは、セツひとりにドイツ語を覚えることを押しつけた。それは悪夢のような地獄のような特訓の日々夜々で、台本の夢は見ずとも芝居の夢は見ずとも格変化の夢を見、物を見れば男性か女性か中性かと迷い思い出し確かめ覚え、寝言か譫言かわからないが、arbeite, arbeitest, arbeitet, arbeiten, arbeitet, arbeitenと際限もなくうなされつづけた。

その昔、寺田寅彦は、日本の鷗に送られて4月1日に上海の港に入り、香港、シンガポール、コロンボ、スエズ運河を経て、5月にナポリに着き、ジェノヴァから列車でミラノ、スイスを通過して、スイス・フランス・ドイツ三国の国境の町バーゼルを経て、カールスルーエ、フランクフルト、そして、ベルリンへと向かう旅を、『旅日記から(明治四十二年)』の題で雑誌『渋柿』に載せている。ハナ、ツル、セツたちも、その通りの旅路を辿った。

日本では、同1936年5月1日から5月31日まで、寶塚少女歌劇團花組が寶塚大劇場で、『レヴュウ アルペンローゼ』(全十六場)・『レヴュウ 少年航空兵』(全八景)・『歌劇 鷹ヶ峯拾遺』(全二場)を公演した。題字はすべて縦書きで、『アルペンローゼ』が一番左に一番大きな字で書いてある。ポスターの絵は、右手に花束を抱えた若い女性が牧場かどこかの柵にもたれてこちらを向いている姿である。その花束で咲いているのが、アルペンローゼなのであろう。夏の間、アルプスに咲く、釣鐘型でピンクがかった赤い花だという。彼女は、蕗谷虹児の絵のように、ほっそりしている。帽子を顔の右上にかかるように斜めにかぶり、口許を閉じ、そのまなざしは、思わしげである。ブラウスの襟元に大きなリボンを結び、ウエストのバンドは細く、からだにぴったりしたスカートは、やわらかな、しなやかな感じである。『少年航空兵』の題字は、彼女の顔の左上、一番下の字が帽子にまさに触れなんとするかのように書かれている。『鷹ヶ峯拾遺』の題字はさらにその左側である。

*「ポスター宝塚少女歌劇1936年5月大劇場」
http://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=493&data_id=100029

同1936年5月、エチオピアの皇帝がUKに亡命し、イタリアが戦争に勝利して、エチオピア併合を宣言した。同1936年5月9日、エチオピアと、エチオピアの北東で紅海に面したイタリア領エリトリア、エチオピアの南東でインド洋に面したイタリア領南ソマリアとを全部合わせて、イタリア領東アフリカ帝国を樹立し、イタリア国王が皇帝に即位した。イタリア領東アフリカ帝国は、紅海沿岸から内陸のエチオピアを経てインド洋沿岸までつながっている。紅海とインド洋の境目になるフランス領ジブチ、ジブチからアラビア半島に沿うように東に突き出した角の北岸のUK領北ソマリアは、イタリア領東アフリカ帝国に、ぐるっと取り囲まれた。もっとも、イタリア領東アフリカ帝国もまた、北のスーダンから南の東アフリカまで、北・西・南を、UK領に取り囲まれている。

ヨーロッパの政治家が、「ベルリンとローマとは枢軸の両端を成している」と言ったらしいが、ハナ、ツル、セツは、その1200キロメートル弱の枢軸の左側を、半円を描くように移動しているのであった。この1936年8月に、ベルリンでオリンピックが開催される。ちょうど今は準備の真っ最中である。バーゼルを過ぎると、ドイツの国旗、「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」の党旗、「鉤十字(ハーケンクロイツ)」が至る所に掲げられていたが、1933年以来、ドイツ中に溢れていたユダヤ差別の看板や標語は、すっかり、しまいこまれていた。ユダヤ迫害は緩和されていた。ハナ、ツル、セツたち、日本の撮影陣と、F監督率いるドイツの撮影陣は、フランクフルトから北東430キロメートルのベルリンではなく、列車を乗り換えて、北へ80キロメートルのマールブルクへ向かった。

マールブルクで撮影する許可を得たハナとツルは、ユダヤ教徒のおじいさんを探し出して、通行人を演じて貰った。学生が、「コーへン教授、おはようございます」と話しかけると、うなずきかえすという、ただそれだけの役である。日本の映画会社の製作だから、ドイツの映画業界の「アーリア人条項」には縛られない、ということにした。

マールブルクはヘッセン州の都市で、ベルリンの南西約370キロメートルにある。町の北西の山中から流れてきたラーン川が、市中を南北に貫流し、約100キロメートル南西でライン川に合流する。マールブルク大学は16世紀に設立された。大学の建物は町のあちこちにあり、町そのものが大学でもっている。ここに、19世紀後半から20世紀前半にかけて、マールブルク学派と呼ばれる哲学の一派があった。マールブルク学派はまた、新カント派と呼ばれるグループのなかの一派であった。

日本では、高等学校や大学の学生たちが、俗に「デカンショ、デカンショで半年暮らす」と歌う、その「デカンショ」とはデカルト、カント、ショーペンハウエルのことだという。イマヌエル=カントは、自身のユダヤ教徒に対する偏見、憎悪を著作に残しているが、人種差別以前の宗教の違いによる差別である。

ユダヤ教徒のヘルマン=コーヘンはイマヌエル=カントを研究し、1876年にマールブルク大学の教授になり、パウル=ナトルプらと新カント派の一翼を担った。宇良田唯(うらた=ただ)がマールブルク大学に留学したとき、そこに彼、ヘルマン=コーヘンもいたのである。しかし、宇良田唯(うらた=ただ)が天津に行った頃、1912年、ヘルマン=コーヘンはユダヤ差別主義者によってマールブルクを追われ、ベルリンに移った。その後はユダヤ教の学校で研究を続け、1918年に亡くなった。

京都帝国大学の哲学教授の田邊元は、ヘルマン=コーヘンを研究した。田邊元は1922年にドイツに留学し、マルティン=ハイデッガーと知り合った。マルティン=ハイデッガーは新カント派とは異なる独自の哲学を打ち立てており、田邊元もヘルマン=コーヘンから離れていった。田邊元の弟子の相原信作が、パウル=ナトルプによるヘルマン=コーヘンの評伝を翻訳し、1928年、『人、教師及び学者としてのヘルマン・コーヘン』を岩波書店から出版した。

ヘルマン=コーヘンが生きていた頃は、一つの大学、一つの都市、一つの州を追われても、別の大学、別の都市、別の州で、研究や生活を続けることができた。しかし、1933年1月30日、「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」党首”Führer”がドイツ連邦政府の首相になってからは、そして、1934年8月2日、”Führer”がドイツの元首になってからは、一つの大学、一つの都市、一つの州を追われたら、もはや、どこの大学、どこの都市、どこの州に移っても、研究も生活もできなくなった。

マルティン=ハイデッガーは、1916年から1918年まで、フライブルク大学でエトムント=フッサールに学んでいた。同じくエトムント=フッサールのもとで1913年から学んでいたエーディト=シュタインは、1916年に哲学博士号を取って教授陣に加わっていた。ユダヤ系のエトムント=フッサールは、1886年、キリスト教に改宗していたが、1933年、教授資格を剥奪され、大学構内への立入を禁止され、国内での全著作を発禁にされた。同じくユダヤ系のエーディト=シュタインは、1922年にキリスト教に改宗していたが、1933年に教職を追われた。エーディト=シュタインは1934年に修道女になり、やはりキリスト教に改宗した姉とともに、オランダに亡命した。マルティン=ハイデッガーは、1933年、「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」に入党し、フライブルク大学総長に就任した。

1933年、マールブルク大学から、ユダヤ系あるいは「ナチス」に親和的でないとして、20人の教授が追放された。教員全体の10分の1以上だった。追放されたうちのひとり、ユダヤ教徒の言語学者ヘルマン=ヤコブソンは、1933年4月27日、自殺した。

ユダヤ系のカール=レーヴィットは、1923年から1928年までマールブルク大学でマルティン=ハイデッガーに学び、哲学の講師になった。1933年、大学での講義と著書の出版を禁止されたが、イタリアに留学し、1934年まで身の安全は保たれた。1935年、「ドイツ国公民法」によって公民権を剥奪された。そのため、イタリアに留まり続けた。その後、伝手を得て日本に来て、本1936年より、東北帝国大学の教授となって哲学と文学の講義をおこなっている。

ハナ、ツル、セツの映画は日本より先にドイツで公開された。評判は上々で、セツは、一躍、人気者になった。ハナ、ツル、セツの三人とも大日本帝國大使館の晩餐会に招かれ、ドイツ政府の要人たちに紹介された。彼らはヴァイマル共和国以前の帝国時代のドイツがみごとに再現されていることを絶賛した。それはハナとツルの研究心に、ドイツの撮影陣が協力した成果だった。ドイツ政府要人たちは映画に出て来る日本の風物にも非常な興味を示したが、風景の多くをF監督が撮影していた。ドイツの撮影陣が日本の魅力を引き出し、日本の撮影陣がドイツの魅力を引き出したのだった。ドイツ政府の要人たちはまた、セツが、ごく自然にドイツ語を話すので驚いていた。セツを特訓したのは、ドイツ人の語学の教師と声楽の教師のふたりで、実にその甲斐あったというものである。ハナ、ツル、セツは毎晩のようにドイツ政府要人たちの晩餐会や舞踏会に招かれ、そのたびに日本の貴婦人として称賛され、脚光を浴び、報道された。ハナ、ツル、セツは、これをひそかに「夜のおつとめ」と呼んで、いつも3人一緒に出かけていった。昼間は、ドイツ映画研究のために、映画業界の様々な職種の人々に会った。

この時期、「ユダヤ人」と交友を保っている映画人は、リリアン=ハーヴェイぐらいだった。去る1931年、オペレッタ映画”Der Kongreß tanzt”で主演し、”Das gibt's nur einmal”と歌って世界中を虜にした可愛い娘である。彼女は可愛いだけではなかった。ゲシュタポの監視を受けつつ、映画に出演し続けた。そして、成功し続けている。人気は揺るがなかった。

ハナ、ツル、セツは、特に、ある映画人と親しくなった。若い頃に映写技師を務め、その後、脚本家・監督になった人である。彼は膨大なフィルムのコレクションを持っていた。ハナ、ツル、セツは、毎日、昼間は映画三昧に浸った。かつて日本で活動写真弁士付きで公開されていた無声映画(サイレント)もあれば、日本では未公開のものもあった。原作者の遺族の申し立てによって上映禁止になり、フィルムが回収されたはずのものもあった。無声(サイレント)・発声(トーキー)を問わず、検閲や、あるいは配給会社の都合によって、カットされた映画の完全版もあった。ドイツ政府によって上映禁止にされた作品もあった。ハナとツルは、あの『カリガリ博士』、”Das Cabinet des Doktor Caligari”を含め、「表現主義」の映画をたっぷり見ることができた。日本に帰ったら、絶対、お化けの出てくる映画を撮ろう、と思った。セツにとっては、ほとんど初めて見る映画ばかりだった。ドイツ語を覚えたことが役に立った。弁士も字幕もなくても理解できた。ハナ、ツル、セツの三人とも、米川正夫の翻訳によるドストエーフスキイの小説を愛読していたので、カール=フレーリッヒ監督の無声映画(サイレント)、『カラマゾフの兄弟』(1921年)と『白痴』(1921年)とを見ることができてうれしかった。そして、オリンピックが始まる前に帰国した。ヘルマン=コーヘン教授を演じたおじいさんも一緒にドイツを出た。彼はスイスに行った。

ハナ、ツル、セツの帰国後、宇良田唯(うらた=ただ)の映画が日本でも公開された。日本の観客は、あたかも女子師範学校に入学した少女が中村正直(なかむら=まさなお)の叱咤激励に発奮、ついに医学博士になったかのようにみなして、大喜びした。朝鮮や台湾でも、セツが演じる宇良田唯(うらた=ただ)の活躍は歓呼喝采拍手を浴びた。

しかし、同時に、この映画は、大日本帝國が清やロシアと戦争し、朝鮮を併合した時代を描いている。ヒロインは、天草から熊本へ出るときも、熊本から東京へ出るときも、日本からドイツへ渡るときも、船を使う。だが、最後に、1912年、夫と共に天津へ向かうときは、鉄道を使うのである。一枚の切符で、東京から下関まで東海道本線・山陽本線、下関から釜山まで関釜連絡船、釜山から京城まで京釜線、京城から新義州まで京義線、新義州から奉天を経由して大連まで南滿洲鐵道と乗り継いでいく。そして、映画の主人公たちは、大連から船で対岸の天津へと向かう。天津は1912年も1936年現在も、中華民國の都市である。

朝鮮半島と遼東半島、二つの半島の境目に流れているのが鴨緑江である。新義州は鴨緑江の河口にある。奉天は、遼東半島の北側を流れて遼東湾に注ぐ渾河の河口から上流約160キロメートルの沿岸にある。新義州と奉天の距離は約200キロメートルである。大連は遼東半島の先端にある。奉天と大連の距離は約360キロメートルである。大連から天津までは、渤海湾上を直進すると約380キロメートルである。

映画の観客のなかには、一枚の切符で東京から大連までつながるのを見て、宇良田唯(うらた=ただ)の成長と大日本帝國の拡大とを重ね、感慨を覚える人もいただろう。しかしまた、そのために、どれだけ多くの人々が戦争で殺されたことかと、思った人もいただろう。大日本帝國への御奉公で命やからだの一部を失った兵隊、あるいは、戦場となった朝鮮半島で、王朝への反乱者として、また、大日本帝國への抵抗者として、殺された人々のことを思わざるを得なかった人もいただろう。

1914年7月28日から1918年11月11日まで続いた大戦が終わったとき、USAの大統領ウッドロウ=ウィルソンと、USSRの人民委員会議議長ウラジーミル=レーニンが、講和会議が開かれる前から、「民族自決」の理念を講和の原則とすることを唱えていた。
USSRのウラジーミル=レーニン主唱の民族自決とは、
ヨーロッパ・非ヨーロッパの区別なく植民地を含めた領土・民族の強制的「併合」を否定して民族自決を全面的承認する、
USAのウッドロウ=ウィルソン主唱の民族自決とは、
関係住民(=属領・植民地住民)の利害が、法的権利を受けようとしている政府(=支配国・本国政府)の正当な請求と同等の重要性を有する、その具体的な適用範囲は、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国に限定する、というものだった。

USSRは1918年3月3日に、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国・ブルガリア王国と講和した。その後、USSR以外の国々が、1919年1月18日から1919年6月28日まで、パリで講和会議を開いた。たとえ限定的なものであっても、USAのウッドロウ=ウィルソン大統領の唱える民族自決の理念が講和原則に盛り込まれることを期待して、植民地からの解放・独立を求めてパリに代表を送った人々がいた。そのなかに朝鮮の人々もいた。そして、朝鮮では、1919年3月1日、独立万歳運動が起こった。この運動は、初めは非暴力の示威運動だったのが、長期化し全国化するにつれて暴動になった。朝鮮総督府が武力鎮圧したが、非暴力の示威運動に参加した人々に対して非人道的な弾圧をおこなっている。独立運動に参加して投獄され、釈放後、日本女子大学に留学した朴順天の体験談が伝わっている。

朴さんは故国でその運動に参加し、日本の警察官にとらわれて、留置場に男女老若ごちゃまぜに多勢、穴のような狭い一室にぶちこまれ、すわることも寝ることもできず、その中から若い娘をひきずり出して裸にして衆人の前で見るに忍びぬ侮辱を加えるというような虐待をうけたということでした。その中には日本の女子医専の二年になっていた留学生もあり、一時精神異常をきたし、のち小康をえて三年の刑を終えたのち、改めて米国に留学したが、病気が再発して遂に亡くなったそうです。さすがに日本本国ではあえてしない暴虐な行為を、植民地では人目をはじずにやるのは、どこの国にも共通の支配者根性のようです。
(『おんな二代の記』山川菊栄著、平凡社、ワイド版東洋文庫、2004年、p.316)

朴順天と同じく、日本女子大学に留学した黄信徳は、1920年3月1日、日比谷公園で、前年の独立万歳記念デモンストレーションに参加したところ、警察に逮捕され、半年以上、留置場に入れられた。出所後、日本でも朝鮮でも警察の尾行が付いた。黄信徳は、日本女子大学卒業後、朝鮮の新聞社に入社したが、数年後、退社して、女学校を設立した。

『東亜日報』は、1920年4月1日に朝鮮で創刊された日刊新聞である。朝鮮総督府により、それからの9年間で、300回の販売禁止処分、延べ280日の停刊処分を受けた。

1936年8月25日付『東亜日報』が、朝鮮総督府によって発禁処分にされ、差し押さえられた。今回は、ベルリンオリンピックのマラソン競技で金メダルを取った孫基禎の写真が問題とされた。表彰式で月桂冠を被り、月桂樹の苗木の鉢植えを両手で抱えている。その月桂樹の陰に、シャツに付けられた日の丸があるのだが、それが黒く塗りつぶされていた。同紙は9箇月の停刊処分にされた。孫基禎は帰国後、特別高等警察に監視されるようになった。明治大学に留学したが、陸上部に入ることは認められなかった。何たる宝の持ち腐れか。

ドイツでは、ベルリンオリンピックの2週間前から、”Zigeuner”と呼ばれる人々が強制収容所に連行されていた。そこでは「労働忌避者」「常習犯罪者」「反社会的分子」などに分類されて、印となるリボンを付けられた。そうして分類された人々に、“Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses”, 日本の国会議員が「劣性人絶種法」と翻訳した法律が適用された。”Zigeuner”は、ヨーロッパ各国にいる。日本では、ドイツのシューマンの歌曲『流浪の民(Zigeunerleben)』や、スペインのサラサーテのヴァイオリン独奏曲『ツィゴイネルワイゼン(Zigeunerweisen)』で知られる人々である。ツィゴイネルはアーリア人だがセム人との混血が進んだために劣っている、とする学説があった。そうした学説を述べる「人種衛生学」や「人類遺伝学」の専門家と医師が、「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」を支持し、「ナチス」政権のもとで、学説に従って断種政策を実行するようになったのである。

1936年9月15日、小津安二郎監督の発声映画(トーキー)『一人息子』が公開された。スティーブン=フォスター作詞作曲の”Old Black Joe”の曲で始まり、終わる。信州の製糸工場で始まり、終わる。始まったときは1923年で、終わったときは1936年である。

あの1936年2月27日公開、清水宏監督の映画『有りがたうさん』で、伊豆の乗合自動車の運転手が言っていた、「この秋になって、もう8人の娘が、この峠を越えたんだ。製糸工場へ、紡績工場へ」と言っていた、製糸工場である。乗合自動車が休憩しているときに追いついてきた、朝鮮の娘が、自分達は伊豆の道路工事を終えたので、今度は信州へ行って道を作るという、その信州である。朝鮮の人々は徒歩で旅して行くのである。

「1923年」には、小さな髷を結って、湯気を立てる釜で糸を繰っていた中年の女工のおつねさんが、「1935年」には、束髪の白髪で、同じ女工だった人と長屋で雑巾を縫っている。工場では若い女工たちが束髪で白い割烹着で、機械で糸を繰っている。

「1936年」、おつねさんは、何年ぶりかで息子に会いに、東京まで出かけていった。

駅に蒸気機関車が入ってくる。おつねさんは、一人息子に迎えられて、タクシーで、東京を見物しながら、運ばれて行く。

画面は、タクシーの窓から見上げる視点になる。立派な鉄橋や、高いビルディング。

一人息子の家は、貧しい家々が長屋のように立て込んでいるところにあった。息子は夜学の先生になっていた。優しい妻と赤ちゃんがいた。貧しい暮らしである。それでも、息子は、あちこち、見物につれていってくれる。

一人息子が、ほら、これがトーキーですよ、といって母親に見せているのは、あの『未完成交響楽』である。ハンガリーの伯爵令嬢が、チャールダーシュで、フランツ=シューベルトに向かって歌っている。しかし、おつねさんは居眠りしている。

一人息子は、母親に苦労をかけたのに、貧しい暮らしでいることを恥じていた。母親を東京見物に連れていくのにも、職場の同僚に頭を下げてお金を借りるほどなのである。この13年間に、おつねさんは家も畑も売り、一人息子を東京の学校に進学させた。今は製糸女工の長屋に住んでいる。それほどの苦労が一向に報われない。しかし、同じように貧しい隣人のこどもが大怪我をして入院した時に、なけなしのお金を隣人に渡す。そんなことができる息子を、おつねさんは誇りに思う。

信州へ帰ったおつねさんは、長屋のぞうきんがけを終えて、桶を持って、製糸工場の白壁の建物をまわって裏手に来て、桶を置いて、壁の下の盛り土のところに腰掛ける。ささやかな腰掛け、ささやかな休憩である。疲れた、厳しい表情である。製糸工場の門が閉まっている。両扉に閂がかかっている。

映画『一人息子』は、”Old Black Joe”の曲で始まり、終わる。スティーブン=フォスターはこの曲を、自分を育ててくれた黒人奴隷のために作ったのだというひとがいる。おまえのために、歌を作ってやるよ、いつか、いい歌を作ってやるよ、と言っていたのに、果たせぬうちに、優しい黒人奴隷は年老いて死んでしまった。苦労だけの人生で。そのことを歌ったのだと、いうひともいる。製糸工場の、閂のかかった扉は、製糸女工たちの人生に出口がないことをあらわしているのだろうか。労働争議を起こしても、警察に弾圧される。おとなしく働き、なけなしのお金で子供に学歴を付けても、貧しいままである。それでも、子供に学歴を付けなければ、子供の将来はもっと希望のないものになっていたのだろうか。映画では、親子ともども、人柄の美しさを失わないままなのが、救いである。

一人息子が母親を家まで案内する間、移動するタクシーの窓から、下から見上げる視点で東京の町を見せていく手法は、1935年公開のレニ=リーフェンシュタールの「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」の党大会の記録映画”Triumph des Willens”で用いられていた技法を連想させる。

1936年11月25日、大日本帝國とドイツとは、『共産「インターナショナル」ニ対スル協定及附属議定書(Abkommen gegen die Kommunistische Internationale)』、いわゆる『日獨防共協定(Antikominternpakt)』に調印した。国際共産主義運動コミンテルンに対する共同防衛を目的としている。というのは表向きで、事実はUSSRを仮想敵としていた。

同1936年12月、講談社から、江戸川乱歩著『怪人二十面相』の単行本が出版された。装丁・挿絵は、『少年倶楽部』と同じ、小林秀恒である。連載終了と同時の出版であった。黒いシルクハット、黒いマント、黒い仮面の男が、こっちをにらみつけている。その男の足許に見える、ビル群。いかにも、都会の怪人であり、かつ、紳士である。

ただ、せめてもの仕合(しあは)せは、この盗賊(とうぞく)は、寶石(ほうせき)だとか、美術品(びじゅつひん)だとか、美(うつく)しくて珍(めずら)しくて、非常(ひじやう)に高価(かうか)な品物(しなもの)を盗(ぬす)むばかりで、現金(げんきん)にはあまり興味(きやうみ)を持(も)たないやうですし、それに、人(ひと)を傷(きず)つけたり殺(ころ)したりする、残酷(ざんこく)な振舞(ふるまひ)は、一度(ど)もしたことがありません。血(ち)が嫌(きら)ひなのです。
(『怪人二十面相』江戸川乱歩著、大日本雄弁会講談社、1936年、財団法人大阪国際児童文学館「日本の子どもの本100選 戦前編 1868年~1945年」
http://www.iiclo.or.jp/100books/1868/htm/frame078.htm)

2020年1月26日

(10)

1937年1月、講談社の雑誌『少年倶楽部』昭和十二年一月号から、江戸川乱歩の探偵小説『少年探偵團』の連載が始まった。絵は梁川剛一である。

同1937年3月、小津安二郎監督の発声映画(トーキー)『淑女は何を忘れたか』が公開された。最初の「松竹映畫」のロゴが映る画面で、ロンドンのウェストミンスター宮殿の鐘、いわゆるビッグベンと同じメロディが流れる。三越百貨店で買い物や食事をし、煙草を嗜む淑女たち。お互い、毒舌である。舌だけではない。癪なことを言った相手が席を立った隙に煙草の灰を落としておくぐらいのことはする。そのうちのひとりの姪のセツコが大阪から遊びに来る。さっぱりした気性で勝気で利口で元気な娘である。帽子の被り方など、粋である。東京の芸者を見物したいとおじさんにせがんで連れていってもらう。お座敷で煙草をくゆらしながらまたたきもせずに踊りを見つめる。ふたりの芸者の踊りもみごとである。女性陣の堂々とした煙草の吸い方に比べると、男性の煙草の吸い方は、いささか、わびしげである。おじと姪とが帽子に外套で並んで歩く姿、バーのカウンターに並んですわっている姿、粋である。このおじさんが新聞紙を畳んで立てて片手に載せて軽々とドアを開けて書斎に入る場面は、飄逸である。新聞紙を置いて椅子にすわってからも、にやけている。姪に叱られるのも当然である。しかし、おじさんは、うまくやったのである。姪も夫婦の機微というものを理解する。姪が大阪に帰ったあと、また、おじさんは、ひとり、にやけている。妻がコーヒーを淹れに行く。ウェストミンスターの鐘のメロディが小さく聞こえて来る。時報とともに、家の明かりが、一つ、一つ、消えていく。おじさんは、一つ、明かりの残った部屋を、行ったり来たりする。妻がコーヒーを運んでくる。夫婦が同じ部屋に入り、ウェストミンスターのメロディが大きくなり、大団円になる。

同じく1937年3月、「大阪市立電氣科學館」が開館した。8階建てで、6階に天象館の入口がある。この天象館こそは、日本最初のプラネタリウムである。案内の絵葉書では、6階から8階まで吹き抜けの丸屋根に星座が描かれている。この丸屋根の下に、ドイツのカール=ツァイス=イェーナ社製の投影機があって、星空を映し出すのである。カール=ツァイス=イェーナ社が世界最初のプラネタリウム投影機を製作したのは1923年であった。

ハナとツルは、女子師範学校の第一回生の物語の続編を作りたいと考えた。まだ清やロシアと戦争をしていない日本では、このあいだの戦争といえば戊辰戦争で、こんどの戦争といえば西南戦争だった。成瀬節(なるせ=せつ)が、青山千世(あおやま=ちせ)と切磋琢磨しながら、ときには学校の外まで出て、西南戦争や自由民権運動に湧く世の中を冒険する話にしたかった。その企画は会社に認められた。1年に2本、春夏の回と秋冬の回とが製作・公開された。青山千世(あおやま=ちせ)役のチセも出産を終えて、復帰した。

女子師範学校には附属の幼稚園ができた。裁縫の成績が特に良い生徒はその授業を免除して実習生に選ばれ、青山千世(あおやま=ちせ)はそのひとりになる。そもそも青山千世は女子師範学校に入学するよりも前、「御一新」の1868年から一家が1872年に東京に出て来るまで、故郷の水戸で、裁縫のお師匠さんに、一通り、仕込んで貰っていたのである。武家の娘も町家の娘も、十二、三歳になるとお縫子になるしきたりであった。お師匠さんの家は貧乏で、夫と息子は傘張りの内職、嫁は機織りをしていた。着物が一枚仕上がると、お師匠さんが、おじいさんのところへ持っていらっしゃい、と言う。おじいさん、すなわち、お師匠さんの夫は、毎日、傘を張っては霧を吹くので、霧吹きがうまい。お縫子が持って来た着物を、仔細らしく、どれどれと見た後、「結構です、よく出来ました、おめでとう。それでは私が霧を吹いてあげよう」と言って、大柄で禿頭のおじいさんが大きな口にいっぱい、水をふくんで、パーッと吐くと、
「ほの白く透きとおる薄絹をサッと拡げたようにきれいな霧が」
立ったと、青山千世(あおやま=ちせ)は言う。ときには、お師匠さん夫婦に連れられて、お縫子たちがお弁当を持って那珂川の土手に摘み草などに行くときもあった。青山千世(あおやま=ちせ)がお縫子だったときは、一家の受難時代、逆境の時期だった。

水戸では、戊辰戦争の前に、「子年のお騒ぎ」と呼ばれる戦乱があった。天狗党の乱である。乱は水戸藩に鎮圧され、天狗党は家族共々、処刑された。幼い子供まで首を斬られた。殺されなくとも、何年も牢獄に入れられた。衛生状態も栄養状態も悪く、多くの人が病死した。赤ちゃんのときに投獄された人は、兄や姉が犬や馬の話をしても、見たことがないのでわからなかった。他藩お預けとなった人、行方不明になった人もいた。青山千世(あおやま=ちせ)がお縫子になる前に通った手習い塾のお師匠さんの息子も、16歳で行方不明になっていた。御一新後、天狗党の生き残りが釈放された。お師匠さんの息子も20歳になって戻った。釈放された人々は水戸藩の政権を握り、連日、復讐をした。生き残った娘が、今日、おもしろい見世物がある、というと、それは、かつて親兄弟を殺した奉行の首が角材に釘で打ち付けられて、水戸の町を練り歩く行列だった。首切り役人まで殺された。

青山千世(あおやま=ちせ)の父親は学者であり教育者であり、教え子は双方の側にいたのである。御一新後、蟄居を命ぜられ、学舎も兼ねていた邸宅を追われて、場末の小さな家に移った。それでも、その小さな家で、親戚の青年を復讐から匿い通した。その小さな家には、件の生き残った娘の妹が、毎日、青山千世(あおやま=ちせ)と遊びに来ていたのである。青山千世(あおやま=ちせ)は、青年が匿われていたことを、ずっと後になって知ったのであった。復讐の対象になった人々は、実際のところ、何か積極的な攻撃を天狗党に加えたわけではない人が多かった。青山千世(あおやま=ちせ)の家に匿われた青年は、天狗党の家族が投獄されたり困窮していたりするのを見て、救援運動をした人であった。

女子師範学校の生徒たちは、「西郷さんに勝ってもらわなければ」「西郷さんが負けたらどうしよう」などと言い合い、月岡芳年の西南戦争錦絵を奪い合って見た。しかし、西郷さんが勝ったとして、世の中がどう変わるのか、西郷さんならどんな政治をするというのか、誰もわかっていなかったのである。

西南戦争は1877年2月15日に始まり、9月24日に終わった。戦乱は熊本・宮崎・大分・鹿児島に広がった。西南戦争の前にも、1874年2月1日から3月1日まで佐賀で、1876年10月24日から10月26日まで熊本で、10月27日から11月24日まで福岡で戦乱が起こっている。関門海峡の対岸の山口でも戦乱が起こり、10月28日から12月8日まで続いた。1868年1月27日から1869年6月27日まで続いた、鳥羽・伏見に始まり、甲斐・宇都宮・陸奥・出羽・越後・函館で起こった戦乱を戊辰戦争というのにならえば、1876年10月24日から1877年9月24日まで九州で起こった戦乱をまとめて、丁丑戦争と言うこともできるだろう。戊辰は東日本、丁丑は西日本の内戦である。九州の西南戦争の一方で、1874年に四国の土佐の板垣退助や後藤象二郎らが、民選議院設立建白書を政府に提出し、自由民権運動が始まっていた。政府は、1875年に讒謗律と新聞紙条例を制定して、政府を批判する人々を逮捕、投獄した。

女子師範学校では1877年に英文科が開設され、青山千世(あおやま=ちせ)と成瀬節(なるせ=せつ)はミセス=カクランの英語塾に通うのをやめたが、カクラン牧師のクリスマスパーティーには参加した。例のUSAの女性が、”barn dance”というものを教えてくれた。田舎の大きな納屋で老若男女が踊るのである。日本の盆踊りと同じで、誰でも踊れる簡単なものである。”Pop Goes the Weasel”という、これもUSAの人なら誰でも知っている歌に合わせて踊った。この日はオルガンだけでなく、フィドルやバンジョーやアコーディオンやハーモニカで参加した面々がいた。成瀬節(なるせ=せつ)は、アコーディオンを弾いていた若者と親しくなる。彼は、別に頭にハゲがあるわけでもないのに、ハゲというあだなで呼ばれていた。それというのも、彼の一家は土佐のハゲの出身なのであった。土佐には西のハゲと東のハゲがあって字が違い、西のハゲは土佐の西の端で、東のハゲも、土佐のまんなかよりは西にある。東のハゲはハゲ川のそばだと言う。自分は西のハゲだと言う。

西のハゲ君はお化けが大好きな学生で、町の角に、隅に、空き地に、窪地に、橋のたもとに、土手に、木陰に、梢に、耳に聞こえるかのように、暗闇に姿が見えるかのように、手や足に触れるかのように、お化けを出現させた。ハゲの声音と言葉につれて、なにやら、家並みや塀や草や木や橋がゆらめき、ゆがんだり、ゆらゆらしたものが見えたり、するのである。成瀬節(なるせ=せつ)は、土佐の西のハゲ君と町に出て、お化けを見たり、自由民権運動を支持する新聞を発行している人々が逮捕されるところを目撃したりする。

映画では第一作以来、授業に大きな地球儀が登場する。その地球儀の、1877年の日本は、北は千島列島から南は沖縄までが領土で、北側の海を挟んで対岸の、北西のサハリン島と北東のカムチャツカ半島はロシア帝国の領土で、東側は太平洋、その向こうのアメリカ大陸との間に日付変更線がある。南側の海を挟んで対岸の臺灣は清の領土、西側の海を挟んで対岸の大陸に南から北へ清・朝鮮・ロシア帝国があった。

同じ地球儀の、1877年の清は、陸の国境を時計回りに、北をロシア帝国、東を朝鮮と接し、朝鮮の南、海を挟んで東に日本、海を挟んで臺灣よりも南東にスペイン領フィリピン、南にボルネオ島のスールー王国・ブルネイ・サラワク王国、ネーデルラント領東インド、再び陸の国境を、南にベトナム、タイ、ビルマ、UK領インド、ネパール王国、ブータン王国、西をロシア帝国と接していた。清とロシアとはお互いに最も長く国境を接していた。

1937年現在の大日本帝國は、北は千島列島から南は臺灣までが領土で、北側の海を挟んで対岸の、北西のサハリン島南部も大日本帝國領南樺太、北東のカムチャツカ半島はUSSRの領土で、東側は太平洋、その向こうのアメリカ大陸との間に日付変更線がある。海を挟んで臺灣よりも南東にUSA領フィリピン、西側の海を挟んで対岸の大陸に中華民國があり、中華民國の北東の滿洲國では元首は滿洲國皇帝だが統治権は大日本帝國の南滿洲鐵道株式会社と關東軍が掌握しており、滿洲國南東の朝鮮半島は大日本帝國領、滿洲國は西をモンゴル人民共和国、北をUSSRと接していた。

1937年現在の中華民國は、陸の国境を時計回りに、北をモンゴル人民共和国、北東を滿洲國、東は海を挟んで大日本帝國と大日本帝國領臺灣、南東に海を挟んでUSA領フィリピン、UK領ボルネオ、再び陸の国境を、南東部をフランス領インドシナ、南をUK領インド、ネパール王国、ブータン王国、西をUSSRと接していた。

1937年7月7日、中華民國の北平付近で、大日本帝國軍と中華民國軍の戦争が始まった。7月11日、近衛文麿首相の「北支派兵に関する政府声明」により、この戦争は、「北支事変」と呼ばれた。当時、中華民國南部揚子江沿岸地方に約3万人の日本人が在住していた。7月28日、大日本帝國政府は、日本人居留民に、揚子江河口近くの都市上海に引き揚げるように訓令を出した。7月31日、大日本帝國軍は北平と天津とを占領した。8月9日までに、上海に約3万人の日本人が集まった。そのうち、2万人は、8月13日から8月19日までに日本に帰国した。8月13日、上海で大日本帝國軍と中華民國軍との戦闘が始まった。去る1932年1月28日に始まった上海の戦闘では、「爆弾三勇士」「肉弾三勇士」がもてはやされた。その時は2箇月で終結した。今回、2回目の上海での戦闘である。

同1937年8月15日、近衛文麿首相は「暴支膺懲し南京政府の反省を促す」との声明を出した。8月15日から8月16日にかけて、海軍航空隊が南京・杭州・南昌を爆撃した。航空隊は長崎と台湾から発進した。戦闘は、上海からさらに南の地方へと拡大した。
上海は北平の南東約1050キロメートルである。揚子江の河口近くの支流、黄浦江沿岸の都市である。
南京は上海の北西約260キロメートル、長崎の西約1050キロメートルである。揚子江の河口から約300キロメートル上流の沿岸の都市である。
杭州は上海の南西約170キロメートル、長崎の南西約960キロメートル、南京の南東約240キロメートルである。上海の南の杭州湾に注ぐ銭塘江の河口近くの沿岸都市である。
南昌は上海の南西約600キロメートル、長崎の南西約1400キロメートル、南京の南西約470キロメートル、杭州の南西約450キロメートルである。揚子江上流の支流の沿岸都市である。南昌は台湾北西岸の航空基地からは北西約660キロメートルである。

同1937年8月17日、東京寶塚劇場が、寶塚少女歌劇團花組公演『愛國少年航空兵』の新聞広告を出した。花組は昨1936年5月に寶塚大劇場で、『アルペンローゼ』『少年航空兵』『鷹ヶ峯拾遺』を公演した。そのときのポスターは、『アルペンローゼ』の絵で、題字も『アルペンローゼ』が最も大きかった。

東京寶塚劇場『愛國少年航空兵』の新聞広告は、右端に縦書きで大きく「北支事変に際し、銃後に捧ぐる此催し!!」と宣伝している。その左側の広告は上下二段に分かれている。上が「寶塚少女歌劇花組公演『愛國少年航空兵』」、下が「愛国航空展」である。上の段には、大きな黒い戦闘機の影絵がある。戦闘機は左上に向かって飛び、両翼が斜めに、上段全体を二つに分けるように横切り、『愛國少年航空兵』の白抜きの文字が右上から左下へと、大きく目立つように書きこまれている。広告左上端の、ちょうど戦闘機の頭の先に当たる部分に、横書きで「東京寶塚劇場」、その右横に小さく縦書き2行で「完全冷房」とある。この頃から劇場が冷房を設備し始めた。「東京寶塚劇場」の字の下に航空兵の扮装をしたふたりのスターの写真がある。このふたりがいるところは、大きな黒い戦闘機の左翼の上になっている。戦闘機の胴体と翼とが、ちょうど交差した対角線のようになって、上段の広告を二分している。『愛國少年航空兵』の翼の右下に、華やかな衣装を着たスターふたりの写真があり、さらにその右に縦書きで、「寶塚少女歌劇花組公演」、『グランド・レビュウ メキシコの花』(廿二場)、『歌劇 火吹竹参内』(一場)の題字が縦書きで3行並んでいる。字の大きさの順は、『メキシコの花』、『火吹竹参内』「寶塚少女歌劇花組公演」である。本来なら、昨年の『アルペンローゼ』同様、『メキシコの花』が、一番大きな字で、写真も華やかな衣装のふたりだけになるのだろう。しかし、「北支事変に際し、銃後に捧ぐる此催し!!」なので、『少年航空兵』に『愛國』を付けて最も大きな字にしたのだろう。

一方、下の段は、右上に横書きで「愛國航空展」、中央に横書きで『東寶へ千五百名様御招待』、下に横書きで「ライオン齒磨き」とある。右側の横書き「愛國航空展」の下に縦書きで「後援 海軍軍事普及部」とある。同じく縦書きで三行、同じ大きさの字で「主催 大日本飛行少年團 大日本航空婦人会」「協賛 ライオン歯磨本舗」。「ライオン齒磨き」は黒字に白抜きで、広告全体の中で一番大きな活字である。『愛國少年航空兵』よりも大きい。その「ライオン齒磨き」の上に小さく白抜きで、「武運長久を祈つて慰問袋に」とある。

この頃から百貨店が、調整した慰問袋や、中身入りの詰め合わせ慰問袋を売り出した。

同1937年8月17日に東京寶塚劇場が「北支事変に際し、銃後に捧ぐる此催し!!」の広告を出してから2週間後、9月2日、近衛文麿内閣により、「北支事変」は「支那事変」と改称された。

同1937年9月15日から9月24日にかけて、海軍航空隊が広東・南昌・漢口を爆撃した。広東は上海の南西約1210キロメートル、南京の南西約1130キロメートル、杭州の南西約1050キロメートル、南昌の南西約670キロメートル、台湾北西岸の航空基地から南西約780キロメートルである。

漢口は、揚子江中流域の支流との合流地点の、湖の多い地域に、互いに川で隔てられた三つの都市、漢口・漢陽・武昌、合わせて武漢三鎮、また、武漢とも呼ばれる都市の一つである。武漢は「江城」とも「百湖の市」とも言われる。上海の西約680キロメートル、南京の南西約460キロメートル、南昌の北西約260キロメートル、杭州の北西約570キロメートル、長崎の西約1500キロメートル、台湾北西岸から北西約930キロメートルである。

同1937年9月24日、小津安二郎が陸軍に召集された。

同1937年11月6日、大日本帝國とドイツとイタリアとは、『日本国独逸国間ニ締結セラレタル共産「インターナショナル」ニ対スル協定ヘノ伊太利国ノ参加ニ関スル議定書』、いわゆる『日獨伊防共協定』に調印した。

同1937年11月11日、松竹(まつたけ)キネマ改め松竹(しょうちく)製作・配給で、清水宏監督の映画『風の中の子供』が公開された。原作は坪田譲治の同名の児童文学である。大勢のこどもが駆けていく場面で始まり、大勢のこどもが駆けていく場面で終わる。映画は、横長の画面で、中央の一本道を人物が遠ざかって行ったり近づいて来たりする動きを繰り返し撮っている。両側で大きな樹木が枝を広げる並木道を、小学二年生の三平と父親とが、手前から徐々に遠ざかって行き、点景となって消えていく場面が、非常に印象的である。

腕白坊主の三平と、優等生の兄の善太が、近所のこどもたちと遊んだり喧嘩したりの日々。三平はターザンごっこが大好きである。善太が、ターザンなんか、けものと人間のあいのこだぞ、と言うと、三平は、今度のオリンピックにターザンが出るんだぞ、と言って、善太に、ばか、と言われる。

原作が昨1936年に東京朝日新聞に連載されていたので、せりふが「今度のオリンピックに」となっている。もっとも、連載は、オリンピックが終わった後の9月から始まっている。

善太と三平の父親が、会社の経理で不正を働いた容疑で逮捕される。近所の金太郎が三平を仲間外れにする。三平は、兄の善太や母親と離れて、ひとりで親戚の家に預けられるが、腕白坊主の本領を発揮して大暴れする。家出して、曲馬団の少年と友達になる。だが、いかに三平でも、曲馬団には加われない。高い木に登っても、盥に乗って川を下っても、池に飛び込んで河童に会いに行っても、軽業はできないのである。

映画の終わり近くで善太と三平が並んで道を駆ける場面は、チャップリンの”Modern Times”のラストシーンを思わせる。画面のまんなかの一本道を、ふたりの少年が観客の方に向かって走ってくる。次に、観客は彼らの後ろ姿を見ることになる。彼らが走って行く先には希望がある。善太と三平は、橋を越えて、父親が親戚のおじさんと共に乗ってきた車を迎える。車が行き過ぎると、善太と三平は向きを変えて、元来た道を駆け戻って行く。

三平は、元通り、近所のこどもたちと遊んでいる。金太郎が、今はひとりぼっち。曲馬団がやってくる。三平は金太郎も誘って、曲馬団を見に行く。こどもたちが駆けていく。

1937年11月20日、大日本帝國は大本営を設置した。中華民國政府は首都を南京から重慶に移転すると発表した。重慶は、揚子江上流で嘉陵江が合流する地点にある。武漢の西約750キロメートル、南京の南西約1200キロメートル、上海の西約1420キロメートルである。

同1937年11月27日、東京朝日新聞が1500円の懸賞金で「皇軍大捷の歌」の歌詞の募集広告を出した。

同1937年12月、USAで、ウォルト=ディズニー製作の長編漫画映画”Snow White and the Seven Dwarfs”が公開された。ミッキーマウスなどの短編漫画映画を作ってきた多くの人々が参加している。この作品の後世への影響の大きさは、測り知れない。

大日本帝國では、同1937年12月1日、大本営陸軍部が南京攻略を命令した。

大陸命第八號

中支那方面軍司令官ハ、海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ
(『「南京事件」を調査せよ』清水潔著、文春文庫、2017年、p.46)

蒋介石率いる国民党政府は、既に南京を脱出していた。逃げ遅れた民間人を救済するために、USA人宣教師・UK人・ドイツ人などの15人で組織された南京安全区国際委員会が、城郭都市南京の北西部の一部を「国際安全区」と指定していた。

同1937年12月11日午前1時、大本営陸軍部が次のように発表した。

「軍の一部は十二月十日午後五時南京城光華門を占領し城壁高く日章旗を翻へせり」
(『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』辻田真佐憲著、幻冬舎新書、2016年、p.36)

同1937年12月11日の朝刊は、「首都陥落」「南京占領」と報じた。東京の市民は南京陥落を祝って提灯行列をした。政府は国会議事堂に電飾を点灯した。昨1936年11月に完成した新議事堂である。1920年に着工してから完成まで17年かかった。1890年の第一回帝国議会以来、仮議事堂の建設・焼失・再建を繰り返してきたのだった。

同1937年12月11日、1箇月前に日獨伊防共協定を結んだイタリアが、国際連盟に脱退を表明した。脱退は2年の猶予期間を経て1939年12月11日に発効となる。

同1937年12月13日午後11時20分、大本営陸軍部は次のように発表した。

「昭和十二年十二月十三日夕刻敵の首都南京を攻略せり」
(『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』辻田真佐憲著、幻冬舎新書、2016年、p.20)

同1937年12月14日、種田山頭火は、次のように日記に書いた。

日本の人々は、これで戦争が終わると思ったのである。万歳を唱え、旗行列や提灯行列でお祝いしたのである。しかし、南京では、新たな戦争が始まっていた。大日本帝國陸軍が、降伏した人々を殺し始めた。

同1937年12月16日、南京にいる陸軍の「山砲兵第十九聯隊」の兵隊は日記に次のように書いた。

拾二月拾六日 晴

午后一時我ガ段列ヨリ二十名ハ残兵掃蕩ノ目的ニテ馬風山方面ニ向フ、二三日前捕虜セシ支那兵ノ一部五千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ后銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス、自分モ此ノ時バカリト憎キ支那兵ヲ三十人モ突刺シタ事デアロウ。
山となって居ル死人ノ上をアガツテ突刺ス気持ハ鬼ヲモヒゝガン勇気ガ出テ力一ぱいニ突刺シタリ、ウーンウーントウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル、一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ツテ見タ、コンナ事ハ今マデ中ニナイ珍シイ出来事デアツタ、
(『「南京事件」を調査せよ』清水潔著、文春文庫、2017年、p.57)

同1937年12月17日、大日本帝國軍は南京入城式をおこなった。日本の新聞は挙って「皇軍戰史に不滅の光輝」「萬歳の嵐。けふ南京入城式の壮観」などと称えた。しかし、南京駐在のUKやUSAの新聞記者たちは、大日本帝國軍が、戦闘終了後に軍の命令で捕虜を虐殺しただけでなく、兵隊が南京市民に対する暴行殺人を繰り返していることを報道した。

同1937年12月18日付New York Timesに次の記事がある。

“ALL CAPTIVES SLAIN; Civilians Also Killed as the Japanese Spread Terror in Nanking”, By F. Tillman Durdin, Dec. 18, 1937.

Through wholesale atrocities and vandalism at Nanking the Japanese Army has thrown arway a rare opportunity to gain the respect and confidence of the Chinese inhabitants and of foreign opinion there.
(https://www.nytimes.com/1937/12/18/archives/all-captives-slain-civilians-also-killed-as-the-japanese-spread.html)

記事の内容は、次のようなものであった。

中国人による統治と軍事力が崩壊し、南京の中国人の多くは日本軍の入城を期待し、その後に生まれる秩序と統治を受け入れるつもりだった。
2日間の日本支配が大きく見方を変えた。無差別に略奪し、女性を凌辱し、市民を殺戮し、中国人市民を家から立ち退かせ、戦争捕虜を大量処刑し、成年男子を強制連行した。南京を恐怖の街に一変させた。
多くの中国人は妻や娘が誘拐され、強姦されたと外国人に訴えた。中国人は必死に助けを求めたが、外国人はなすすべもなかった。
(『「南京事件」を調査せよ』清水潔著、文春文庫、2017年、pp.52-53)

南京安全区国際委員John Rabeの、1937年12月17日の日記にも同様の記述がある。

Two Japanese soldiers have climbed over the garden wall and are about to break into our house. When I appear they give the excuse that they saw two Chinese soldiers climb over the wall. When I show them my party badge, they return the same way. In one of the houses in the narrow street behind my garden wall, a woman was raped, and then wounded in the neck with a bayonet. I managed to get an ambulance so we can take her to Kulou Hospital ... Last night up to 1,000 women and girls are said to have been raped, about 100 girls at Ginling College ... alone. You hear nothing but rape. If husbands or brothers intervene, they're shot. What you hear and see on all sides is the brutality and bestiality of the Japanese soldiers.
(Woods, John E. 1998, “The Good Man of Nanking, the Diaries of John Rabe”, p. 77, Nanjing Massacre, From Wikipedia, the free encyclopedia, This page was last edited on 7 November 2019, at 20:16 (UTC).)

USAの管理する安全区の大学病院の医師Robert O. Wilsonは、1937年12月15日と12月18日、次のように日記に書いている。

The slaughter of civilians is appalling. I could go on for pages telling of cases of rape and brutality almost beyond belief. Two bayoneted corpses are the only survivors of seven street cleaners who were sitting in their headquarters when Japanese soldiers came in without warning or reason and killed five of their number and wounded the two that found their way to the hospital.
Let me recount some instances occurring in the last two days. Last night the house of one of the Chinese staff members of the university was broken into and two of the women, his relatives, were raped. Two girls, about 16, were raped to death in one of the refugee camps. In the University Middle School where there are 8,000 people the Japs came in ten times last night, over the wall, stole food, clothing, and raped until they were satisfied. They bayoneted one little boy of eight (以下略)
(Zhang, Kaiyuan, 2001, “Eyewitness to Massacre: American Missionaries Bear Witness to Japanese Atrocities in Nanjing”, Nanjing Massacre, From Wikipedia, the free encyclopedia, This page was last edited on 7 November 2019, at 20:16 (UTC).)

大日本帝國陸軍において、大日本帝國大本営において、大日本帝國政府において、大日本帝國議会において、ここで戦争を終わらせようという方針が定まっていれば、ここで戦争を終わらせるという国家意思が貫徹されていれば、捕虜の虐殺はおこなわれなかったはずである。軍規によって兵隊を統率し、暴行殺人をさせなかったはずである。

同1937年12月19日、朝日新聞が『皇軍大捷の歌』の歌詞募集の結果を公表した。福田米三郎の作詞が採用された。堀内敬三が作曲し、灰田勝彦が歌い、ビクターからレコードが発売された。

首都南京は遂に陥つ
焼けた砲銃の手をとめて
につこり笑めば隊長も
莞爾と見やる城壁に
御稜威かがやく朝日影
皇軍大捷 万万歳

翌1938年1月7日付朝日新聞に、「至る處で愛唱『皇軍大捷の歌』」の記事が載った。

至る處で愛唱「皇軍大捷の歌」
慰問隊のお土産に戰地へ
全國に響く 豪快な歌聲
(中略)
華やかに幕開けした正月各座の興行にこの歌を逸早く上演、錦上更に華を添へて居る
卽ち國際劇場の松竹少女歌劇ではグランド・レヴュー「松竹桜祭り」のフイナーレに軍服姿颯爽たるターキー水の江瀧子が之を獨唱、東京寶塚劇場の寶塚少女歌劇では開演最初に、小夜福子外月組生徒が黒の紋付緑の袴で舞台に整列」、之を合唱する
(『宝塚歌劇 華麗なる100年』朝日新聞出版、2014年、p.61, キャプション≪「至る處で愛唱『皇軍大捷の歌』」の記事=1938(昭和13)年1月7日付紙面より≫)

当時、『少女倶楽部』に、西条八十が、須藤重の挿絵で、『天使の翼』を連載していた。主人公の真弓は、「寶山」少女歌劇の「月夜福子」によく似た、歌の上手な少女である。自分をかわいがってくれない母親も優しい父親も、実の親ではないと知って、家出する。苦労の末に、酒場でフランツ=シューベルトの『野薔薇』を歌って、「野薔薇の君」と呼ばれるようになる。ある蒸し暑い夏の夜、何か涼しい歌を歌ってくれ、と注文を受ける。真弓は、幼い頃に、ばあやから教えられて、決して忘れてはいけないと言われた『白い船の歌』を歌う。

『お星(ほし)がちらちらゆうかりの
葉音がさらさら鳴(な)る濱(はま)で、
いとし母(かあ)さん泣きながら
白いお船(ふね)で波の上……』
真弓の紅い葩(はなびら)のやうな唇から、爽やかに流れ出したこの歌は、外國の童謡(どうえう)のやうな珍しい、しかも、なんとも言へぬ懐(なつ)かしいメロディーを持つた歌でした。
『こどもは乳母(うば)に背負(おんぶ)して
お船の汽笛(きてき)を聴きました
いとし母(かあ)さん泣いたとて
落ちる涙(なみだ)も波の上……』
(中略)
それはちやうど、大晦日(おおみそか)の夜、遠い外國の植民地の人たちが、あの『螢の光』の懐かしい曲を聴いて、涙を流して幼ごころにかへる、――それとまつたくおなじやうな感動を人々に與へました。
(『天使の翼』西条八十著、須藤重装幀、壮年社、1941年、pp.120-121, 国立国会図書館デジタルコレクション、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170018)

「大晦日(おおみそか)の夜、遠い外國の植民地の人たちが、あの『螢の光』の懐かしい曲を聴いて、涙を流して幼ごころにかへる」という、その曲は、もとは、スコットランド民謡”Auld Lang Syne”である。UK, つまり、”The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland”は、イングランド・ウェールズ・スコットランド・北部アイルランドの連合王国である。そのひとつのスコットランドの民謡”Auld Lang Syne”が、UK中で、さらに多くの国々で、愛唱されている。香港では、『友誼萬歳』と訳して歌われている。その一節を、日本語・スコットランド語・英語・中国語で並べると、次のようになる。

何時しか年も、すぎの戸を、
開けてぞ今朝は、別れ行く。

For auld lang syne, my jo,
For auld lang syne,
We'll tak a cup o' kindness yet,
For auld lang syne.

For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll take a cup of kindness yet,
for auld lang syne.

友誼萬歳,朋友,
友誼萬歳!
挙杯痛飲,同声歌頌,
友誼地久天長!

(11)

1938年1月16日、近衛文麿首相は「爾後國民政府ヲ對手トセズ」という声明を出した。昨1937年12月に南京が陥落したとき、国民党政府は武漢に移っている。

1938年2月1日、亀井文夫監督の記録映画『上海 支那事変後方記録』が公開された。昨1937年7月に北京郊外で始まった戦争は、始め、「北支事変」と呼ばれ、8月に戦闘が上海へ、さらにその南へと広がってからは、「支那事変」と呼ばれるようになった。その「支那事変」の、上海での戦闘が終わった直後の記録映画である。

クレジットに「編輯 亀井文夫」とある。すなわち、亀井文夫自身が上海で撮影したのではなく、軍から提供された映像を編輯したものである。クレジットのあとに次の表示が出る。

「この映畫は
陸軍省
海軍省
並びに 現地に於ける
陸海軍将士達の
絶大なる後援のもとに
完成された」

画面が変わると、大きな時計台が12時を告げている。この時計台は、ロンドンのウェストミンスター宮殿の時計の鐘、いわゆるビッグベンのメロディを奏でるのだが、メロディの後の時報から始まっている。映画は何も説明しないが、これこそ上海の象徴ともいうべき、税関の大時計である。揚子江に河口近くで合流する黄浦江の沿岸に、上海はある。揚子江の河口は、たとえば東京湾のような湾ではなく、銚子の利根川河口のように海に突き出している。だから、少し遡ったところで合流する黄浦江の沿岸の上海が、ちょうどいい、港湾都市であり、貿易都市になった。なお、突き出した河口の南に杭州湾がある。杭州湾の北岸の上海、湾奥の杭州、杭州湾南岸の寧波は、いずれも古代から繁栄した商業都市である。上海に税関の建物が建築されたのは1927年だが、税関そのものが初めて設立されたのは1684年である。江蘇省税関所、略して江税関、あるいは江海關と呼ばれた。20世紀の江海関の隣には、香港上海銀行の上海支店もあり、二つ並んで上海の繁栄を象徴する建築である。

映画は、続いて、大都市上海の町並み。高層ビルなどが見える。
再び、大時計、時報を告げている。
再び、上海の町並み。こちらは、屋根がなくなった廃屋が無数にある。
次に簡略な地図が映る。黄浦江が地図の右側から横へと矩形に曲がっており、軍工路がそれに沿うように上から下に延びてきて、横に折れ曲がった黄浦江に至る。租界の集まっている地域より上で戦闘を表わす火花が散る。そのあたりが閘北(ザホク)である。

解説は、松井翆声である。
「黄浦江に沿うて、国際都市の上海があります。共同租界にある、英国、佛(フランス)、支那人町の『城内・南市』が、ガーデンブリッジを境にして、日本人のいる、虹口(ホンキュウ)方面に対しています。ですから、この橋は、各国の、政治的、経済的、末梢神経のあつまりどころであります。この上海の背面には、閘北(ザホク)方面の激戦地や、黄浦江岸には、軍工路の第一回敵前上陸地があります」

再び、国際都市上海の繁栄のようす。画面は河を移動する船から、沿岸を見上げる視点になる。ホンキュウ(虹口)のブロードウェイマンション、ガーデンブリッジ、アスターハウスオテル、ソヴィエト領事館、日本領事館。巨大な大日本帝國海軍の軍艦。

画面の視点は上海の街路に変わる。支那服を着た人が大勢、歩いている。支那の打楽器の音楽。

上海の心臓部、英国租界。江海関や香港上海銀行上海支店などのりっぱな建物が並び、「バンド」と呼ばれる外灘地区。洋服の人も支那服の人も歩いている。市街電車も二階建てバスも走っている。「大世界」「新世界」等の娯楽場がある。

画面は、走る自動車の窓からのまっすぐ見る視点になり、支那街を映す。人々が行き交う賑やかな町だが、繁栄の裏側として、中華民國の抗日運動の激しさが紹介される。蒋介石が演説する「抗日映画」や、戦闘機や戦車の絵のある抗日のポスターやビラ。「親日」とみなされた人が「漢奸」と呼ばれて処刑されるようす。
松井翆声「かくて、暴支膺懲の鉄槌を下す日が、我々の時代に課せられたのであります」

虹口(ホンキュウ)の日本人町。三本並んだ白木の墓標を割烹着の女の人が掃除している。
松井翆声「町角や、電車通りの、お墓が目を引きます。我が忠勇なる兵士が戦死した、その場所にまつられたものであります」

日本人小学校。登校するこどもたちが警備の兵隊に頭を下げていく。校庭に整列して朝礼。皇居の奉公に向かって遥拝。平時なら3000人以上のこどもがいるが、今は50人だという。あちこち、戦闘の傷跡のある、広大な校舎。その一部は兵舎に当てられている。教室で女の子が内地の小学校に宛てた感謝の手紙を読み上げる。
「支那事変で、上海にいるわたくしどもに対して、お見舞いをいただいて、ありがたく存じます。忠勇な皇軍のおかげで、敵軍をうちはらい、すっかり平穏になりましたので、わたくしどもも、学校に集まって勉強しておりますから、どうかご安心ください」
校庭で集まっているこどもたちに、教師が質問する。
「飛行機の爆撃、こわかったか」
「こわくないよ。おもしろかったよ。高射砲撃つから、おもしろいよ」
こどもたちや犬と遊ぶ兵士たち。兵器をさわってみるこどもたち。

捕虜が整列している。
松井翆声「捕虜収容所における、蒋介石直系、勇士の面々。なかには、60歳ぐらいの老兵もいれば、14、15歳ぐらいの正規兵もいます」
捕虜の健康状態や、待遇が人道的かどうか、上官が点検する。まだほんのこどもの兵士に日本の兵隊が中国語で話しかける。こどもは、日本の兵隊はお菓子をくれるから好きだという。

軍の病院。傷を癒し、寛ぐ兵士たち。こどもが描いた絵を見て喜ぶ兵士。兵舎の庭で、軍歌『露営の歌』をアップライトピアノで弾く兵士。そのタッチはジャズかなんぞのように軽い。みんなが集まって聴いている。犬と遊ぶ兵士。馬の世話をする兵士。戦車を洗う兵士たち。

激しい戦闘で戦死者が出た場所で、軍人が戦闘経過を説明する。白木の墓標が映る。戦死者の娘が、父の戦闘日誌を読む。読み終えて最後に血に染まった白紙のページを開く。

軍人が従軍記者に、地図を広げて、戦闘経過を発表し、「大成功でした」と述べる。

戦闘機の並ぶ場所で、バレーボールでくつろぐ兵士たち。
松井翆声「胸のすく空爆を敢行して、敵軍をふるえあがらせた、海の荒鷲」
戦闘機乗りたちの会話。
「君は南京空襲のオーソリティーだが、何回ぐらい、やったですか」
「二十回ぐらいですか」
「君は汽車ねらいの名人だね」
「いやあ、汽車はむずかしいですよ」

別の場所で、軍人による、従軍記者への発表。メモを取る記者たち。

画面は市街で激しい戦闘がおこなわれたあとの廃墟に移る。一つ一つが要塞と化している建物を攻略するむずかしさを、語り手が伝える。一つの小路、一つの部屋、一つの壁を抑えれば機関銃で100人の敵を殺せるのである。瓦礫の山と廃墟をなめるように映していく。

一本の線路を、10人ほどの兵隊が乗った台車が走って来る。2人がかりで、シーソーのようにバーを押して進んでいく台車である。

画面は、台車の上から線路の両側を見下ろす視点になる。線路の両側に続く、破壊され、廃墟と化した建物、廃墟、廃墟。

さらに郊外の戦闘の跡地へと移動していく。
松井翆声「クリークは、細い川、または溝というような意味で、上海を中心に四通八達、網の目のように通っています。人工的のものや、自然のものがあって、形状はさまざまであります。平時は、農業に利用され、一朝、ことあるときは、りっぱにこれが、防御の役目を発揮します。黄浦江、揚子江から水を引いているこのクリークは、満潮と干潮の差がはなはだしく、3メートルにもおよび、まことに、やっかい千万であります。しかも、敵は、地雷で橋をこわしていきました」

中華民國軍の捨てた陣地が次々と紹介される。大規模な掩蔽壕。「お墓陣地」、土葬の土饅頭も陣地となった。壁の厚さ数フィート、鉄筋コンクリート造りの頑丈なトーチカ。「皇軍将兵戰死病歿之諸精霊追善菩提」と書いた墓標がある。揚子江とその支流の沿岸、クリーク、どこへいっても兵士の白木の墓標があり、花が供えられている。兵士たちがおまいりする。

市街戦では、中華民國軍にUKが物資を供給したことが明らかであることが、解説される。抗日軍や便衣兵を守る外国は信頼できない、と述べる。

大日本帝國海軍の軍艦に、整列し敬礼する海軍士官たち。水兵たちのらっぱの吹奏とともに、旭日旗が掲げられる。

日の丸が画面に映る。

松井翆声「昭和十二年十二月三日、日本軍は、従来の慣習を正して、堂々、ガーデンブリッジを越え、共同租界に堂々の行進を敢行いたしました。上海の黎明を意味する、画期的なことでありました」

らっぱを吹奏しながら行進する日本軍。日本軍の行列を見守る上海市民。

画面は日本軍の行列から沿道を見下ろす視点と、道路から行軍をまっすぐ見る視点とを、交互に繰り返す。

沿道の洋服の人々が日の丸を振って、喜び、万歳、万歳、万歳と、限りなく、叫ぶ。支那服の人々が黙ってみつめている顔、顔、顔。どこまでも続く、日本人の「万歳」の声、どこまでも続く、黙って見つめる支那服の人々。

ガーデンブリッジの検問を日本軍がおこなうようになる。

ラ=マルセイエーズの曲とフランス国旗の掲揚。戦闘のあった「南市」からフランス租界に逃げてきた避難民に、何の救済措置もなく、飢えているとの解説。路地で暮らす避難民。

自分の背丈ぐらいの棒に通した袋をかついで歩くこどもの後ろ姿。
松井翆声「これは、乞食の子ですが、かっぱらいが専門で、肩にかついだ袋は、その、かっぱらった物を入れるものです」

ただ、ひとりの牧師が避難民救済活動をしている。

再び、郊外の戦闘の跡へ移る。「爆弾三勇士」の墓が再建されている。新しい、いくつもの、兵士の墓標。花が供えられている。ときには弁当箱や鉄兜や水筒も。クリークに落ちた傘。工兵部隊長が、兵士たちがどのように戦い、どのように死んだか、説明する。決死隊は、身に寸鉄を帯びず、泥濘を渡り、道を開いた。水路を進めば見える、壊れた橋。三本並んで建つ兵士の墓標。おじぎをする兵士。

周辺に移動する。松井翆声「愛國女塾で抗日教育に明け暮れした支那女学生たちの夢のあと」
ぼろぼろになった校舎とバスケットボールのゴールが映る。床にちらばった教科書。漢字ばかりの文章のなかに「抗日戰争」の文字。校舎のそばに白木の墓標、「愛國女塾抗日中華民國勇女之墓」。花が供えられている。

再び、上海市街。日本人避難民が帰還し、町が復興し始める。電気の復旧工事、水道の復旧。

画面は道路を移動する自動車からまっすぐ見る視点になる。
松井翆声「支那町も復興を急いでおります」
バケツを持って並ぶ、支那服の人々の列。

画面は移動を止め、一箇所に視点を据える。支那事変の避難民に食糧を配給する日本軍兵士。喜ぶ、支那服の老若男女。支那服のこどもたちが自治会の公民館のような建物の敷地に集められ、支那の楽器の演奏が聞こえるなか、日本軍兵士と遊ぶ。

難民救援活動をしている牧師が日本人と握手し、感謝を述べる。最後に支那服のこどもたちが、日本語で、大きな声で、みんなで、「おててつないで」を歌う。もっとも、歌っている子も、歌っていない子もいる。泣きそうな顔の子もいる。

画面かわって、兵隊の足許に子犬がいる。兵士は、こどもたちの前に立っているのだろうか。映画が終わる。映画を見終わっても、自分の背丈ぐらいの棒に通した袋をかついで歩くこどもの後ろ姿が目に焼き付き、袋はかっぱらったものを入れるもの、という声が耳について離れない人も、いたのではないだろうか。

映画のポスターには、日本軍の兵器をさわって喜ぶ、日本人小学校のこどもの写真がある。
「上海 敵前撮影 現地同時録音」「我々はこの映畫を、……(中略)……忠魂碑に捧げる」

亀井文夫監督の記録映画『上海 支那事変後方記録』は、『南京』『北京』と合わせて三部作になっており、『南京』は『上海』と同じ2月に公開された。『北京』の公開は8月である。亀井文夫はUSSRで映画の技法を学んできたのだが、画面が、動く船で下から沿岸のりっぱな建物や軍艦を見上げる視点を取るのは、1936年公開の小津安二郎の『一人息子』を連想させるし、画面がレール上を動く台車からの視点で沿線の廃墟を見せたり、行軍する日本軍の上からの視点で、上海の町に入ってくる日本軍を、日の丸を掲げて歓呼の声を挙げて迎える日本人居留民と、沈黙している地元の人々とを見せたりするのは、1935年公開のレニ=リーフェンシュタールの「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」の党大会の記録映画”Triumph des Willens”で用いられていた技法を思わせる。

同1938年2月18日、『中央公論』昭和十三年三月号が、「新聞紙法」に触れて発禁処分になった。1月に中央公論社特派員として南京で取材して、小説『生きてゐる兵隊』を同誌に発表した石川達三と、編集長雨宮庸蔵と発行者牧野武夫が起訴された。

「新聞紙法」は1909年に制定されたが、昨1937年、新たに「新聞掲載禁止事項の標準」(陸軍省令)が加えられ、「新聞(雑誌)掲載事項許否判定要領」(海軍省令)で詳細な事項が示されていた。「掲載を許可せず」とされた事項に次のようなものがあった。

6、支那兵又は支那人逮捕訊問等の記事写真中虐待の感を与ふる惧あるもの
7、惨虐なる写真、但し支那兵の惨虐なる行為に関する記事は差支なし
(『空気の検閲 大日本帝国の表現規制』辻田真佐憲著、光文社新書、2018年、p.199)

同1938年2月24日、第73回帝国議会衆議院本会議において、齋藤隆夫議員が『国家総動員法案に関する質問演説』をおこなった。

私の見る所に依りますると、此立法は嘗て独逸の「ナチス」政府が採った所の立法と稍々類似して居る所がある、殆ど兄弟分ではないかと思わるるのであります。御承知の通りに、一九三三年の三月の二十四日、「ナチス」政府は議会の協賛を経て、国家及び国民の危険を除去する法律、世に所謂授権法なるものをば制定したのであります。此法律を見ますると、法律は議会に於て作ることも出来れば、又政府自身に於ても作ることが出来る。即ち政府に向って政府単独に法律を制定する権力を与えて居る。「ナチス」政府は此授権法を握って以来、勝手自由に数多の法律を製造した結果、事実に於て独逸の憲法は変更せられて居るのであります。それと是とは全く趣は違いまするけれども、最前申しましたように、憲法上に於ける極めて大切なる要項、日本臣民の権利自由をば、法律に依らずして政府が自由に左右することが出来ると云うことは、憲法の一部変更、憲法の中止と何等選ぶ所はない。
(草柳大蔵著『齋藤隆夫 かく戦えり』、文春文庫315-2, 1984年、p.288-298)

「国家総動員法」は、「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」の「授権法」と「兄弟分」ではないかと指摘している。「ナチス」と兄弟分といえば、前にもあった。去る1934年、第65回帝国議会衆議院本会議で荒川五郎議員が提出した、「民族優生保護法案」である。荒川五郎議員は、その前年の1933年にドイツで制定された、”Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses”を「劣性人絶種法」と翻訳・紹介し、類似のものは各国にあるので我が国でも是非、と提案した。そのときは審議未了。その後、1935年の第67回帝国議会に再提出、再び審議未了、1937年、第70回帝国議会で三たび提出、ただし、対象者の限定、断種の申請・認定機関、関係者の守秘義務などの修正があったが、院議に上がらず。そして、本1938年、この第73回帝国議会に、八木逸郎議員がほぼ同じ内容の民族優生保護法案を提出している。政府提出「国家総動員法案」と議員提出「民族優生保護法案」、どちらも、「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」が1933年に制定した「授権法」「劣性人絶種法」と「兄弟分」である。

同1938年2月、チャールズ=チャップリン監督・脚本・主演・作曲、サウンド版の無声映画(サイレント)”Modern Times”が、邦題『モダン・タイムス』として公開された。少女が、放浪紳士のカフスにカンニングペーパーを仕込んで、客の前に送り出す。しかし、放浪紳士は踊っているうちにカフスを飛ばしてしまい、もうなんでもいいからでたらめに歌う。いんちき外国語で、パントマイム付きで、チャールズ=チャップリンの歌声で。弁士ではなく、録音で。

同1938年3月、江戸川乱歩著『少年探偵團』の単行本が講談社から出版された。挿絵は、『少年倶楽部』と同じ、梁川剛一である。連載終了3箇月後の単行本発行である。『少年倶楽部』では、『妖怪博士』が一月号から十二月号まで連載されている。これも挿絵は梁川剛一である。梁川剛一は、去る1935年、講談社から、絵本『リンカーン』を出版した。油絵で描き、たいへんな人気を博し、評判になった。文は池田宣政だった。

ヨーロッパでは、同1938年3月、ドイツ軍がオーストリアに進駐したが、戦闘は起こらなかった。かつてのラインラントと同じように、オーストリアでも、「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」の勢力が広がっていた。しかし、4年前の1934年にクーデターを起こして失敗している。そのときはまた、イタリアが国境に軍を駐留させて、ドイツの「ナチス」政権が介入しないように牽制した。そのイタリアも、昨1937年11月に日独伊防共協定に調印して以来、干渉しなくなった。ドイツ軍は、オーストリア国民に歓呼の声で迎えられた。総統も軍に続いてオーストリアに入り、ウィーンでドイツとの併合を宣言した。

1920年代から1930年代にかけて、アーノルト=ファンク、ゼップ=アルガイアーと協力して、”Das Wunder des Schneeschuhs”(邦題『スキーの驚異』)を始め、多数の山岳映画を製作し、世界中にスキー技術「アールベルク・テクニック」を広めたハンネス=シュナイダーが逮捕された。「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」に対して、ユダヤの友人を擁護し、スキー学校の「ナチス」協力者を解雇したことによって。ハンネス=シュナイダーは、レニ=リーフェンシュタールとも、1931年に、“Der weiße Rausch”(邦題『白銀の乱舞』)で共演した。しかし、今や、アーノルト=ファンク、ゼップ=アルガイアー、レニ=リーフェンシュタールは「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」の宣伝映画を撮っている。特にレニ=リーフェンシュタールは、ニュルンベルクの「ナチス」の党大会の記録映画の監督として名声を得ていた。同1938年4月、ハンネス=シュナイダーは釈放されたが、スキー教師の資格を剥奪された。

大日本帝國では、第73回帝国議会で、八木逸郎議員の民族優生保護法案は審議未了、「国家総動員法」は成立、同1938年4月1日、官報で公布された。

ヨーロッパでは、同1938年4月10日、ドイツとオーストリアで国民投票がおこなわれた。99パーセント以上の賛成により、オーストリアはドイツに併合されてオーストリア州になった。オーストリアには、約18万人のユダヤ教徒・ユダヤ系の人々が住んでいたが、そのうちの約17万人がウィーン在住だった。彼らは路上で暴行され、街路を磨かされた。

同1938年4月、レニ=リーフェンシュタール監督による映画”Olympia”が、公開された。古代のオリンピックの浮き彫り壁面にはめこまれた石板の”OLYMPIA”の題字で始まる。続いて次々と替わる石板の文字は、1936年第11回ベルリン大会、オリンピックの創立者クーベルタン男爵への奉呈、世界の若者の栄光と誉れ、監督レニ=リーフェンシュタール、音楽ヘルベルト=ヴィント。監督も音楽も党大会の映画と同じである。なお、撮影には40人のカメラマンが参加しているが、ゼップ=アルガイアーはいない。

“DER FILM VON DEN XI OLYMPISCHEN SPIELEN BERLIN 1936”
“GEWIDMET DEM WIEDER BEGRUNDER DER OLYMPISCHEN SPIELE BARON PIERRE DE COUBERTIN”
“ZUR EHRE UND ZUM RUHME DER JUGEND DER WELT”
“GESTALTET VON LENI RIEFENSTAHL”
“MUSIK HERBERT WINDT”

最後に、石板ではなく、石の壁にじかに彫られた、五輪のマーク。画面は古代ギリシャの遺跡に変わる。大理石の神殿、彫刻の数々。円盤投げの彫刻が映ると、それが生きている男の円盤投げになる。砲丸投げ、槍投げ、古代オリンピックと同様、彼らは何も着ていない。砲丸で遊ぶ男の手から、女たちの手に。ボールや縄や輪で体操をする女たち。

聖火リレー。オリンピアをかけおりる第一走者、波打ち際を走る第二走者。町並みが映り、第三走者の待つ地点では、人々が沿道に並んで声援を送っている。ここからは、皆、現代の服装である。画面は、地図を、聖火がたどる国々の地名、首都名、首都の映像、国旗を映す。

“BULGARIEN”
“SOFIA”
“JUGOSAVIEN”
“BELGRAD”
“UNGARN”
“BUDAPEST”
“ÖSTERREICH”
“WIEN”
“TSCHECHO-SLOWAKEI”
“PRAG”
“DEUTSCHLAND”

“ÖSTERREICH”は、この映画が公開されたときには、”Land Österreich”になっている。けれども、1936年8月のベルリンオリンピックのときは”Republik Österreich”であった。そして、ベルリンの大競技場である。大観衆、開会式、国旗を掲げての入場行進、誇らしげな選手たち、女性選手たちも堂々の人数である。聖火の到着。

放送席、各国のアナウンサーが各国の言葉で中継を始める。NHKも。
「オリンピック競技が開始されました。大競技場をうずめつくしている、十数万の観衆のなかには、日の丸の小旗が、あちらこちらにひらめいております」
落ち着いた声で話しているのは、眼鏡をかけた、ほっそりした、端正な顔の男性である。生涯最高の晴れ姿に違いない。

観客席の各国の老若男女が、応援し、心配し、期待し、失望し、立ち上がり、声援を送り、歓呼の声を挙げ、拍手をし、帽子を振り、旗を振り、手を振り、足を振る。競技場の観客と同様、映画の観客も、手に汗握り、固唾を飲み、目を凝らす。観客席でメモを取る男女の記者たち。表彰式と国旗掲揚と成績掲示板は、ほぼ、毎回、映る。

オリンピアの饗宴そのままに、男子円盤投げから始まる。USAのケン=カーペンター、ドイツのヴィリー=シュレーダー、ノルウェーのレイダル=セルリエ、ギリシャのニコラオス=シラス、スウェーデンのステン=グンナル=ベルグ、中華民國の郭洁、フランスのジュレ=ノエル、イタリアのジョルジョ=オーベルゲル。

女子円盤投げでポーランドのヤドヴィガ=ワイスが、非常に印象的な、力強い投擲をして、銀メダルを獲得する。日本の児島フミと峰島秀も頑張る。

女子槍投げでポーランドのマリア=ヤドヴィガ=クファシニェフスカが大活躍。日本の山本定子も頑張る。

女子80メートル障害物競走。イタリアのトレビソンダ=ヴァッラ、優勝、イタリアの観客、歓喜。

男子ハンマー投げ。ドイツのカール=ハイン、優勝。総統、歓喜。表彰式、「鉤十字(ハーケンクロイツ)」掲揚。

男子100メートル走。USAのジェシー=オーエンスの、スタート前の若々しく美しい真剣な表情が映る。笑顔、金メダル。USAのラルフ=メトカフ、銀メダル。

このあと何度も登場する、スターターの男性も、選手と同じぐらい、強い印象を残す。合図の前に飛び出してしまう選手がいたときの、がっかりしたという、大きな身振り。

女子走り高跳び。ハンガリーのイボリア=チャク、ドイツのエルフリーデ=カウン、イギリスのドロシー=オダムの接戦で、ハンガリーのイボリア=チャクが優勝。

男子砲丸投げ。ドイツのハンス=ヴェルケ、フィンランドのスロ=ベルルンドの接戦。砲丸投げのまねをする観客。心配から歓喜の表情に変わる総統。

男子三段跳び。日本の田島直人、原田正夫、大島鎌吉、オーストラリアのジャック=メトカフ、ドイツのハインツ=ヴェルナー。応援席の日本人たちには、日の丸を持ち、静かな落ち着いた表情の中年の男性もいれば、はしゃぐ少女たち、騒ぐ若者たちも、拍手をし、笑顔の中年男性たちも、大騒ぎするおっさんもいる。16メートルの世界記録を出し、金メダルを取り、月桂冠を被る田島直人の顔が大きく映る。ハンサムである。日の丸が掲揚され、君が代が流れる。

男子走り幅跳び。3回跳んで、上位6人が更に3回跳ぶ。上位6人は、USAのジェシー=オーエンス、ボブ=クラーク、ドイツのルッツ=ロング、ヴィルヘルム=ライクム、イタリアのアルツロ=マフェイ、日本の田島直人。ジェシー=オーエンスとルッツ=ロングのジャンプを交互に映す。自分の番でないときの選手は地面にすわって見ている。最後のスタートの前、体を屈め、何度も両手で顔や脇をさする、ジェシー=オーエンス。音が消える。ボブ=クラークが顔の向きを変えていく。ジェシー=オーエンスのジャンプ、8.06メートル、世界新記録、笑顔、表彰式。ジェシー=オーエンス、金メダル、ルッツ=ロング、銀メダル、田島直人、銅メダル。

男子1500メートル走。何度も順位が入れ替わる。1週ごとに先頭が入れ替わる。実況の声はクレッシェンド、観客の声もクレッシェンド、響いていた選手たちの足音が、いつしか聞こえなくなっている。ニュージーランドのラブロックの名を呼んで実況が叫ぶ。「誰も彼を止められない!」世界新記録、圧倒的強さで金メダルを取った。

男子走り高跳び。フィリピンのシメオン=トリビオ、フィンランドのカレヴィ=コッカス、ラウリ=カリマ、ドイツのグスタフ=ヴァインケッツなどが、1.9メートルに挑む。朝隈善郎、田中弘が1.97メートルで失敗したあと、スタートの前に両手を軽くこぶしを握ってたたずみ、腹をなで、両足の付け根をなでる、矢田喜美雄。コーネリウス=ジョンソン、デイブ=アルブリットン、デロス=サーバー、カレヴィ=コッカスが2メートルを跳ぶ。コーネリウス=ジョンソンだけが、2.03メートルを跳んだ。USA、金・銀・銅を取る。

男子槍投げ。ドイツのゲルハルト=シュテックが71.84メートル、金メダルである。フィンランドのユルヨ=ニッカネンが70.77メートル、銀メダル、カレルヴォ=トイヴォネンが70.72メートル、銅メダルである。マッティ=ヤルヴィネンが69.18メートルだった。

男子10000メートル走。400メートルトラック25周である。日本の村社講平がリードを取る。ポーランドのユセフ=ノジも強い。そして、フィンランド勢が強い。後半は、ムラコソ、サルミネン、アシュコラ、ボルマリが、他を引き離して走る。日本人も日本人以外の観客も「ムラコソ、ムラコソ」と大声援を送る。膝をさすり、上体を揺する総統。ムラコソはフィンランド勢に追い抜かれても4位を保つ。フィンランドの3人の選手、最終周は圧倒的な強さで勝つ。イルマリ=サルミネン、金、アルボ=アシュコラ、銀、ボルマリ=イソホロ、銅。三本のフィンランド国旗が掲揚された。

男子棒高跳び。競技は5時間におよび、日が暮れて、USAと日本との戦いになる。安達清、大江季雄、西田修平、ビル=グラバー、ビル=セフトン、アール=メドウズ。最後に優勝したメドウズが西田と握手をする。敬礼するメドウズの顔が大写しになる。やさしげである。USA国歌「星条旗」が演奏され、USA国旗「星条旗」が掲揚される。

女子400メートルリレー。ドイツのチームが先頭で走っている。乗り出して応援する総統。4人目でバトンを落とした。がっかりしてすわりこむ総統。1位、USA、2位、UK、3位、カナダと、実況は告げる。この映画は、この競技だけ、桂冠とメダルの授与を映さない、国旗掲揚も見せない、国歌も流さない。成績掲示板も見せない。

男子400メートルリレー。USAとUKのデッドヒートに競技場全体が沸きに沸いた。

オリンピックの最後の競技、男子マラソン。マラソンこそは、オリンピックの華であろう。スタート、実況が始まる。
「競技選手にとって最も過酷な試練、マラソン。42キロメートルのゴールまで、56人の走者の戦いである。おのれのすべての力と名誉と、そして、祖国の勝利をかけて。アルゼンチンのサバラはロスアンゼルスの勝者。タイムは彼に譲るが手強いライバルが日本から来ている、ナンは好敵手だが、ソンもまた強い。そしてフィンランドの走者は日本人を打ち負かすことができるだろうか? サバラのリードで選手たちは競技場を出て行きます」

フィンランドのエルッキ=タミラ、ヴァイノ=ムイノネン、マウノ=タルキアイネンは縦に並んで走っている。10000メートル走の3人のフィンランド選手たちを思い出させる。

8キロメートル地点。
アナウンサー「こちらはドイツラジオです。我々はマラソンコースの8キロメートル地点にいます。リードは1932年大会の世界記録保持の勝者、アルゼンチンのサバラです。2位はポルトガルのディアスです。ソン、ヤッパナー、ハーパー、グロースブリターニアン、が3位です」

並んで走る孫基禎とハーパーが映る。ハーパーが水の入ったコップを受け取り、孫基禎に渡す。ハーパー自身はコップを受け取らない。走っているときは水を飲まない主義なのである。

折り返し地点。
アナウンサー「折り返し地点です。相変わらずサバラがリードしています。サバラの後を、ヤッパーナー、キータイ、ソン、そして、ハーパーが並んでいます。ポルトガルのディアスが3位です。スウェーデンのエノクソン、南アフリカのコールマンが続いています。フィンランドのチームが一緒になって追いつこうとしています。3人の走者が、一つの国から、一つの意志で。彼らにはまだ21キロメートルあります」

医療団が待ち構え、選手に水を渡す。疲れて歩く選手。水を飲み、まだ何かものほしそうに見ている選手、おなかがすいたのだろう。

カイザーヴィルヘルム門。
アナウンサー「こちらはカイザーヴィルヘルム門です。走者たちは35キロメートルを走ってきました。ロサンゼルスの勝者、サバラがつぶれました。彼は前半に飛ばし過ぎました。ソン、ヤーパン、リードをとりました」

沿道の草、汗の光る、ナン選手の横顔、沿道の樹木、軽くこぶしを握る腕、地を踏む脚、爪先から伸びる影、走る影。ソン選手、ナン選手に振られる、沿道の日の丸。光のなかのソン選手のシャツの胸には日の丸がある。脚、影、脚、影、脚……。

「あたし、あそこの道ができあがったら、一度、日本の着物を着て、ありがとうさんの自動車に乗って通ってみたかったわ。でも、あたしたちは、自分達でこしらえた道、一度も歩かずに、また、道のない山に行って、道をこしらえるんだわ」

1936年2月に日本で公開された映画『有りがたうさん』では、伊豆の乗合自動車の運転手に、朝鮮の娘が、そう言っていた。その1936年の8月、ベルリンの、光るアスファルトの道を、朝鮮の若者が、トップランナーとなって駆け抜ける。国籍は、ヤッパン、日本だが、故郷は、朝鮮である。孫基禎、新義州出身。南昇竜、順天出身。

競技場。ソンの独走、圧倒的勝利。アナウンサーが告げる。
「勝者、キータイ・ソン、ヤーパン。2位、ハーパー、イングランド。3位、ヤパーナー、ナン。4位、タミラ、フィンランド。5位、ムイノネン、フィンランド。6位、南アフリカ」

次々と到着する選手たち。君が代の演奏、桂冠とメダルを授けられるソン、ハーパー、国旗掲揚、二つの日の丸、一つのユニオンジャック。

北里柴三郎はベルリン大学のロベルト=コッホ博士の許で研究したから、破傷風菌を発見することができた。ドイツに留学しなければ、彼には、その年、その月、その日に、破傷風菌を発見することはできなかっただろう。それと同じ意味においてなら、南昇竜は日本の明治大学で陸上競技をしたから、1936年のベルリンオリンピックで銀メダルを取れたと言えるのかもしれない。

あるいは、孫基禎は京城の養正高等普通学校でマラソンを始めて、明治神宮体育大会で世界最高記録を出した。1932年のロサンゼルスオリンピックに大日本帝國の代表としてマラソンに出場した金恩培も、養正高等普通学校で陸上競技を始め、明治神宮体育大会で2位になった。同じくロサンゼルスオリンピックでマラソンに出場した権泰夏は、明治大学で箱根駅伝に出場したあと、養正高等普通学校でトレーニングをした。金恩培と権泰夏を指導したのは、日本体育会体操学校を卒業して赴任した体育教師峰岸昌太郎だった。

北里柴三郎が破傷風菌を発見したのは、ドイツのロベルト=コッホ博士と研究所のたまものだが、北里柴三郎その人であったからこそ、その年、その月、その日に発見できたのだ。同じように、南昇竜や孫基禎がベルリンオリンピックでメダルを取ったのは、朝鮮・台湾・日本の全国からスポーツマンが集う明治神宮体育大会を開催することができた大日本帝國の力でもあろうが、南昇竜や孫基禎であったからこそ、というのも、まぎれもない真実であろう。南昇竜と孫基禎の人となりを作ったのは朝鮮である。西暦1936年を大日本帝國は皇紀2596年というが、2570年の間、朝鮮と日本とは別の国だったのだ。

大日本帝國は、スポーツの大会には、朝鮮からも臺灣からも選手を募った。しかし、帝国議会には、朝鮮からも臺灣からも議員を送らせない。朝鮮や臺灣に、帝国議会相当の立法権を持った議会はない。朝鮮では朝鮮總督府が立法権・行政権・司法権を持っている。臺灣では臺灣總督府が立法権・行政権・司法権を持っている。日露戦争後、大日本帝國に併合されて以来、朝鮮は植民地状態なのである。日清戦争後、大日本帝國に領有されて以来、臺灣は植民地状態なのである。

ベルリンオリンピックのドイツのアナウンサーは、孫基禎の名を「キータイ、ソン」と呼んだ。漢字の「孫基禎」を日本語の音読みで、”Kitei Son”と書いていたのだろう。”ei”はドイツ語読みでは「アイ」になる。朝鮮の発音だと、「孫」は”Sohn”で、「基禎」は”Kii-chung”で、「孫基禎」を続けて読むと、”Son Gijeong”になる。

ベルリンオリンピック、閉会式。荘厳な大合唱。参加51箇国の選手たちが、国旗を振る。アフガニスタン王国、アルゼンチン共和国、UK連邦オーストラリア、オーストリア共和国、ベルギー王国、UK領バミューダ、ボリビア共和国、ブラジル合衆国、ブルガリア王国、UK連邦カナダ、チリ共和国、中華民國、コロンビア共和国、コスタリカ共和国、チェコスロバキア共和国、デンマーク王国、エジプト王国、エストニア共和国、フィンランド共和国、フランス共和国、ドイツ、UK、ギリシャ共和国、ハンガリー王国、アイスランド王国、UK領インド帝国、イタリア王国、大日本帝國、ラトビア共和国、リヒテンシュタイン公国、ルクセンブルク大公国、UK直轄植民地マルタ、メキシコ合衆国、モナコ公国、ネーデルラント王国、UK連邦ニュージーランド、ノルウェー王国、ペルー共和国、USA自治連邦区フィリピン、ポーランド共和国、ポルトガル共和国、ルーマニア王国、UK連邦王国南アフリカ連邦、スウェーデン王国、スイス連邦、トルコ共和国、USA、ウルグアイ東方共和国、ユーゴスラビア王国。

『上海 支那事変後方記録』を編輯した亀井文夫監督も、”Olympia”を撮影したレニ=リーフェンシュタール監督も、「記録」を「映画」にするとき、言葉の代わりにフィルムを使って、現実を詩に変えた。彼らは、自らが信じる美の神に仕えている。

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