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形容詞は自分以外に意味が無い



朝目が覚めて、カーテンを開けるとなんだか空が綺麗だった。


この「綺麗さ」を共有出来る環境があればそれは素晴らしいことと思います。
ですが、基本的にその「綺麗さ」は自分だけのものでしかありません。


「美味しい」「楽しい」「面白い」「美しい」などなどなど、

世の中はこれでもかというほど形容詞に溢れています。
形容詞というのは物事を自分なりに言い表す際に使うものであり、
言い表す際には必ず感情や狙いが乗っかっているものです。

例えば私はとある女優さんが好きなので
その女優さんのことは綺麗だとかこのシーンの笑顔が可愛いだとかそういった言葉で形容しますが
タイプでない人から見れば全く同じシーンを見てもそうは思わないでしょう。
それどころか妬ましい感情を持っている人から見れば真逆の可愛くない、あざとい、ブスと言った形容詞さえ出てきます。

人が何にどんな感情を抱くかというのは正に千差万別であり
全員が同じ感情を抱くということはあり得ません。
さっき見た空の綺麗さも、興味の無い人には全く刺さらない。
それどころかただの空を綺麗と形容する人をおかしいとさえ思うかもしれない。
しかしその人達にもそれぞれが考える「綺麗さ」は存在している訳です。
そしてその「綺麗さ」は当然私達が思っているものとは違うポイントになってきます。そしてそれはそれでもちろん構わないわけです。
ただ、そうなると「綺麗さ」について語ろうとするとどうしたって齟齬は発生してしまいます。

このように、一つ一つの形容詞についての詳細な定義というのはあくまで個人個人の中でしか完結することが出来ず、
形容詞を軸にして話をするというのは基本的に不可能です。
基本的に不可能ではありますが、
仮に似たような感覚を持っている人がおり、形容詞を軸に話が出来るならばそれは素晴らしいことではないかと思います。


さて、形容詞というのはあくまで個人の中でだけ正しいものとなります。
これが外界が関わっている際に使用する形容詞というのは感情や狙いが混ざるわけで、はっきり言えば何の参考にもなりません。

「ツイッターを中心に〇〇のカレーパンが美味し過ぎると話題に!まさかのトレンド入り!」

個人が言う「美味しい」はその人の中ではそれが美味しかったんだろうなということになりますが、
公的な場合は更にその意味合いが変わり、何かの目的の為(この場合は商品を購入させるため)に
「美味しい」といったポジティブな意味を持ちやすい形容詞を使うことが多々あります。
本来形容詞を軸に話をするのは不可能なのですが、それっぽく話を合わせることは可能です。
そして好感を持っている相手の言葉はなるべく意図を汲み取ろうとする人は多くいるので
「あの〇〇さんが美味しいって言ってるなら買ってみよう」ということに繋がってきます。あの〇〇さんの"美味しい"なら信用出来るということです。
実際の味がどうであれ、購入させれば目的通りとなりますので、こういった形容詞の使い方で物事が上手くいくのであればいくらでもそういった形容詞の使い方をする人間が増えます。

これは本来の形容詞の目的の一つでもある
物事を自身のフィルターを通した価値観で表現するということを放棄しています。
そのフリをして、目的の達成の為に言葉を使っているということになります。

「大学生の頃にハワイに行ったんだけど海がすっごく綺麗だったの!!」
誰かと話す時、自分を良く見せるために形容詞を利用することもあります。
実際は「まぁまぁ」と自身で感じていたとしても相手にはこの経験をより良いものとしてアピールしたいので「すっごく綺麗」という表現にすり替わる訳です。
このように形容詞というのは外界で使用する際はどうしてもすぐに姿形を変えやすいものです。感情や狙いがどうしても顔を出してしまう。
なので、全く参考にならないのです。
「あー、きっとこういうことを伝えたいんだろうな」という部分を汲み取って、その感情に合わせて話に付き合ってあげるのが優しさかもしれません。

何度も言うように形容詞というのは自分自身以外には正しい意味を持たないのですが、
オンライン上のテキストでは、誰かが言った形容詞も自分自身の形容詞の意味と混同して同一に解釈をしやすいこともあり、
揺らぎまくりブレまくりの形容詞を何か共通の概念であるかのように感じてしまうことも多いようです。


物事の評判を下げる際にも形容詞は使用されます。
「〇〇さんがした△△の件はちょっと酷いと思います。気分が悪くなりました。」
お前の言う"酷い"の定義なんて知ったこっちゃねーよという話ではあるのですが
ネガティブな形容詞はある程度共通の概念が育ちやすい部分があり、(悪いことは良くない程度のもの)
何かを攻撃するための動機付けに使用されることも多いです。
本当に深く語れば「ここまではセーフだけどここからはアウト」のボーダーは人によって結構違ったりするものですが、
一先ず対象を攻撃するために団結するというような時によく使われます。
とりあえず何かを攻撃している時は気分が良くなれるという人は多くいますし、その時には詳細な理由など実はいらなかったりもします。(あくまで攻撃が目的なので)

それでもなるべく誤解無きように自分の形容詞を説明したい場合、
そんな場合はせめて、動機付けの説明があると解釈のブレは減ります。
「〇〇さんがした△△の件は□□□の部分が×××と感じたのでそこが酷いなと思いました。」
というような具合です。自分が何をどう酷いと感じたかという説明を入れることで
ただ"酷い"と書くよりは具体性が増します。
具体的に書くことで賛同者の数は減る方向にはなりますが、
ぼんやりとした概念で何かを漠然と持ち上げたり攻撃したりということに加担することは減るかと思います。

近年は特に「良い」「悪い」に関する考え方が散見されます。
良いものだから〇〇する、悪いものだから〇〇する、といった考え方です。
この"良い""悪い"も当然形容詞であり、何が良いか悪いかなど本当は自身の中でしか正確に定義は出来ません。
自分自身で考えた「良いから〇〇する」であれば筋が通っているわけで問題無いのですが、
上にも書いた通り、オンライン上では特にですがテキストで表現された形容詞は自身の形容詞の定義と同一の解釈をしてしまいやすく、
どこかで見かけた「良いから〇〇する」「悪いから〇〇する」という漠然なものに賛同してしまうことも多いようです。

何がどう良いのか、何故そう思ってその形容詞を使用しているのか。
その疑問を常に少し持っておくことで、相手の感情や狙いを汲み取りやすくなれるかもしれません。


形容詞は自分自身にとってだけ正しい表現となります。
詳細な定義など出来るわけもないのです。

よって、形容詞を多様し、その形容詞を軸に相手に行動を求めてくることが頻発する界隈はクソです。
自分の形容詞(感情)をそのまま相手が理解出来るという驕りや勘違いがあり、その不正確なものを根拠に相手に行動を求めてくるという神経が最高にクソです。
もしそうでなければ何か狙いがあって形容詞を利用し発しているわけでそれも当然ながらクソです。

「noteってすごく酷いサイトだから見ない方がいいよ」と言われたとしても、
お前の"酷い"がどんな定義かなんて知ったこっちゃないし、
見るか見ないかはこっちが決めるんだから黙っとけという話です。

何事もそうですが、外界の情報を取り込みつつも、最後は自分自身で考え結論することです。


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