見出し画像

バカ真面目な家族論

普段、子どもたちにはバカ話をして、笑って、若干呆れられ、おかしな父親だなと思われているんじゃないかと思い、逆にどんな風に接してほしいかを聞いてみた。


結果は今のままでいいらしい。


子どもにとっては、

他の親がどうなのか?あまり比較する機会も少ない中で、
自分の親が結局は基準となり、それで我慢というか、あきらめなければやっていけないところはあると思う。


私も一時は、
良い親になってみたくて、
いろいろな教育本や、親とは?といったセミナーなどに通ったりしてみた。


でも、
結局、私は私以上の親にはなれないし、

それで、子どもや妻が笑って、今日一日なにごともなく過ごしてくれるなら、
変わらなくてもいいのかなと。

私は父親が10歳の頃からいなかったので、
随分と、父親像を描くのには苦労した。


だから、結婚して子どもができてしばらくは
「父親とは!!!」とものすごく、父親フレームを意識していた気がする。


でもそれは「誰か他の人が「良い」と言っている父親像」であって、
僕自身が考えた、うちの家族のための父ではなかった。


それからは、
自分で考えてみた。
妻と一緒に話し合ってみた。
時には直接子どもたちに「どんな親でいてほしい?」なんて聞いてみた。


結論は、
僕が僕らしく、妻や子どもも自分らしく、
みんな「素」でいられればいいね。ということになった。


だからうちは、家族という名の
シェアハウスになった。

それぞれの考え方・生き方・プライバシーを尊重しつつ、
一つの家に過ごす者同士協力しあいましょって感じ。


家族、、、
父、、、
親、、、
という役割にこだわると、どうしても妻を、子どもをコントロールしようとしていた自分。

でも、
互いに血のつながった同居人。
シェアハウス、
シェアファミリー、
として考えると、
自分のことは自分でするし、
変に相手の領分に入ろうとは思わなくなった。

だから誰かをコントロールする必要もないし、
子どもを常に見張るようなこともなくなった。

ある意味、一般的な親業を放棄しているのかもしれない。
でも、それは一般的な親像から開放された、
我が家オリジナルの親像になれたのかな。

そして、コントロールも、見張りも必要なくなった結果、
私は父親らしくない父となり、
私はより私でいられるようになった。

十人十色というけれど、
父親像も
十父十色(なんて呼べばいいんでしょう?)
でいいんじゃないかな。

家族と子どもを大切にするという土台さえあれば、
だらしない父親、
バカ親、
良父、
賢父、

いろいろな父がいていいのでは。


子どもたちの意見は違うかもしれないけれど、

僕は僕にしかなれないし、

僕は僕にしかなれない父にはなれる。

結局、父も夫も一つの役割で、その役割を果たす責任はあるけれど、
人格までは変えられない。


だから、僕は周りで言うような良い父にもなれないし、
今日もバカ話ばかりするけれど、
でも素直にウチの家族、一人ひとりが大好きだ。

だから、これでいいのだ!?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?