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帰省の時だけ会う彼女との8年間の話

 ──いつの頃から、帰省が億劫になったのだろう。

 大学受験を機に上京して、はや10年近く。俺の記憶が正しければ、就活が始まったあたりで一気に腰が重くなった覚えがある。

 決して安くはない、東京・福岡間の往復運賃、そして移動時間。「せっかく帰ってきたっちゃけん」と強制的に催される親戚回り。行く先々で大量に供される、仕出し料理と親戚たちの近況報告。

 去年は特に気疲れした。恋人を連れて帰省したからだ。そもそも両親だけに顔見せする予定だったのに、翌日には親戚たちが大挙してウチにやって来て、瞬く間に宴会とあいなった。

「ミツルもようやく『一人前』ってわけやな」──。

 赤ら顔の叔父たち、そして微笑を浮かべる両親が、脳裏に浮かんでは消えていく。仕事終わりの電車の中、俺はスマホで航空券の予約を済ませた。次いで、即座にLINEを立ち上げる。

 ──何年前から、真っ先にミカへ連絡を入れるようになったのだろう。

 振り返ってみれば、なんのことはない。結局はそれもまた、帰省を面倒に感じ始めた頃と同時期だったように思う。同棲中の恋人よりも、実家の両親よりも、まず先に思い浮かべるのは決まって地元の幼馴染のことだった。

 ミカに会いにいく。

 そのためだけに、俺は今年も帰省する。

***

 きっかけは、地元で催された成人式だった。

 8年ぶりに足を運んだ小学校は、やけに小さく見えたものだ。母校の校庭はこんなにも狭かっただろうか。そのくせ、ウチの学年にはこんなにも人がいたのだっけか。

 1クラスだいたい40人、それが8クラス──よって、1学年あたり300人ちょっと。シンプルな掛け算の結果に、今更ながら気後れする。目にも鮮やかな振袖姿、いかつい紋付袴、かっちりとしたスーツで武装した面々。そこにきて、ダウンジャケットにチノパンという普段着でのこのこ出向いてきた自分なんざ、ほとんど丸腰も同然だった。

 傍から見れば、俺の私服姿はよほど目立っていたらしい。式場であるところの体育館へとさっさと潜り込んでしまおうと決意したそばから、

「みっちゃん! みっちゃんやろ!?」

 ほど遠くの集団からバカでかい声が響いたかと思うと、10秒後にはもう周りをぐるりと取り囲まれていた。

「オレんこつ憶えとう?」「僕は?」「俺は俺は!?」

 口々に問われて──俺は精一杯の作り笑いを浮かべつつ、彼らの顔を見渡した。

「憶えとる憶えとる、みんな久しぶりやん!」

 見覚えは、ある。
 面影も確かに残っている。
 それでも、名前はとんと思い出せなかった。

 仕方ないといえば仕方ない。中学受験で県外の中高一貫校に進んでからこのかた、小学校の同級生との接点は皆無とくる。卒業アルバムでも眺めて予習すべきだったのかもしれない、と思う一方で、そんなヒマなんて無かっただろう、と誰にともなく言い訳している自分がいた。

 実家に帰り着いたのはほんの数時間前、キャリーケースだけとりあえず置いてやってきたような有様だったから。

「今どこおっとね? みっちゃん、ここらへんで全然見んけんが」
「いま、東京におってさ」

 言ったそばから、しまった、と後悔する。けれども、時すでに遅かった。

「えっマジね、どこの大学? ワセダ? ケイオー? ていうか東大?」
「いや……まだ大学生やないとって」

 揃って訝しげな表情を浮かべる彼らを前に、俺は言葉を継ぎ足した。

「予備校が東京にあって、そこで寮生活しとるったい」

 2浪目でさ──そう付け加えようとして、やめておいた。

 すべてを察したと言わんばかりに、湿気を帯びた沈黙。細められた目には、そこはかとない困惑が見て取れる。この2年間、親戚の会合でさんざん口にした空気の味。

 成人式それ自体は、ほとんど印象に残っていない。当時を振り返って蘇るのはむしろ、式の前後で遭遇した同級生たちとのやり取りばかりだ。交わされる会話は、いずれも因数分解してしまえば「元気にしてる?」と「いま何してる?」の掛け合わせに過ぎなかった。

「なぁん、同窓会いかんとね?」

 式典が終わった後、卒業クラスで固まっている一団に運悪く出くわした。夕方まで時間をどう潰そうか、わいわいと話していた彼らの双眸が一斉にこちらへと向く。せっかくだからと勧められるままに、その場で5、6人と連絡先を交換したりもして。

「成人式くらい出んといかんばい」

 帰省にあたって、両親からはそう言われた。三度目の受験を支援してもらっている以上、スポンサーの意向は絶対であって、こちらに拒否権などない。彼らの思惑は色々とあっただろうが、万が一にも俺が発奮すると考えたのならば、それは完全なる見込み違いというものだった。

 みっちゃん、と誰もが当時の仇名で呼んでくれた。俺がクラスの中で上手く立ち回っていた、あの頃と同じように。どれだけの時が流れようとも、自分たちは変わらず友人のままなのだと言わんばかりに。その配慮が、生温かさが、どうしようもなく煩わしかった。

 来なけりゃよかった──心の底から、そう感じた。

 そんな調子だったから、人混みでごった返す正門から帰る気には到底なれず、人目を避けるように裏門へと回った。目論見どおり、裏門側へと通じるルートは静寂に満ちていた。想定外だったのは、そこにも「同級生」がいたことだ。
 
「……あれ、タナカじゃん?」

 裏門そばの駐輪場にて、出し抜けに声をかけられた。

 ゴツめのバイクを傍らに、ヘルメットを抱えた長髪の女。ライダースジャケットにジーンズという出で立ちは──俺が言えたものではなかったが──こうしたハレの場にはひどく場違いに見える。どこか不機嫌そうな面持ち、しかしそれが素の表情であることを、かつての俺は知っていた。

 小学校の6年間で、ずっと一緒のクラスだった女子。それでいて、話したことはほとんどない。だからこそ逆に印象的で、かろうじて記憶に残っていた。

「……ミカ?」

 名字が思い出せなかったから、下の名前で呼ぶほかなかった。せめて「ちゃん」付けするべきだったかと遅まきながら思う。それでも、彼女はまんざらでもなさそうに口元を緩めた。

「よう憶えとるやん……ねぇ、タナカ」

 続く言葉の気配に、おのずと身構える。この数時間に幾度となく繰り返したやり取りが、またもや再現されるものと思って。けれども、そんな俺の予想はあっさりと外れた。

「うちと、友達になってくれんやか?」

 ──友達じゃない、って自覚はあったんだな。

 最初に訪れたのは、そんな感慨だった。別に、気分を害したわけではない。さっきの「級友」たちに比べればむしろ誠実とすら感じたものだ。その潔さが、逆に気恥ずかしくもあったのだけれど。

 気付けば俺は、ひとつ咳払いをして──「いいけど」と頷いていた。

***

 ミカから電話がかかってきたのは、翌日の昼下がりのことだった。

 その日の受験勉強スケジュールとしては「完全オフの日」で、存分に惰眠を貪っていたのだけれど──寝相の悪さが災いしてか、スマホを枕にする形で横になっていたものだから、着信バイブであえなく叩き起こされる羽目になった。

「ミツル、今から遊ばん?」
「遊ぶっておまえ……何すっと」

 寝ぼけ眼をこすりつつ、選択肢を想像する。

 ここら一帯において豊富なのは緑ばかりで、遊びの手段は実に乏しいのだ。きのう会った同級生たちは、同窓会までの空き時間を潰すのに「カラオケかゲーセンか」と一様に話していた。その二択にしても、最寄駅まで出ないことには始まらないし、駅までは自転車で30分とくる。

 付け加えると、治安が良いとはお世辞にも言いがたい土地柄である。嘘か真か「自転車盗難件数が県下ワースト」というショボさ極まるものだけれど、わざわざ駅まで出向いて盗まれでもしたら帰路は悲惨なことになる。

「……駅前やったら遠慮しとくばい」
「大丈夫、けっこう近かよ」
「そんで、ドコなん」
「最初にパチ屋、そんでファミレス」

 そうきたか、と思った。確かに、パチンコもファミレスも駅よりは近場にある。とはいえ、こちらも自転車で10分ほどかかるのだけれど、そこは問題ではなかった。駅とは真反対の方角に位置する、とりわけ寂れたエリア。小学校の同級生たちはまず寄り付かないであろうことは容易に想像できる。おまけに俺は、パチンコへの興味もそれなりにあった。

 結局のところ、俺は息抜きを求めていたのだろう。机に向かうか、あるいは寝るか、そんな日々に飽き飽きしていたのだとも思う。そこにきて、地元の大人たちの遊びを嗜んでみることは、いかにも「成人」といった風情があって魅力的に映ったのだ。

 ──そうして、俺はミカの誘いに乗った。

 自動ドアが開くと同時、音の洪水が顔面をびりりと震わせた。果たして、場末のパチンコ店は想像以上に閑散としていた。ミカは慣れた足取りですたすたと歩いていき、ほど近くの台に腰を下ろす。一人ぶんの間隔を空けて、俺もまた隣に座る。

「予算は3,000円ってことで」

 紙幣の投入口やハンドル調整の仕方などを一通り俺にレクチャーしたあとで、ミカは言った。それから「吸うー?」とタバコをこちらに差し出してきた。断る理由も特にない気がして、ありがたく受け取る。俺に喫煙経験が無いことはお見通しだったようで「息吸いながら火ィ付けんと燃えんけん」とこれまた助言を頂く。一吸いしたそばから俺は思いっきりムセて、彼女は盛大に爆笑した。

 じゃらじゃらと流れ落ちていく、無数の銀玉。その奥で流れる、画素の粗いアニメーション。時折思い出したように演出が入り、また沈黙。

 楽しいかどうかは分からない。ただ、心地よくはある。鼓膜を突き破りそうな轟音のなか、無心に玉の行方を眺めるのは不思議と心が落ち着いた。なんだか滝行みたいだなと、経験もないのに思った。

 大した当たりもないままに、1時間もしたところで3,000円が尽き、俺たちはファミレスへと移動して──そこからは、ミカの独壇場だった。

「いま、付き合っとる彼氏がおってね」

 その一言を皮切りに、彼女は延々と喋り続けた。なんでも1ヶ月前にバイト先の先輩に告り、念願かなって交際を始めたらしい。それでいて、語られる内容のうちノロケは2割くらいのもので、残りはすべて愚痴である。やれ金遣いが荒いだの、やれすぐにキレるだの。その語り口に暗さは欠片もなく、むしろ嬉々としたものだった。

「こういうの、話せる友達がおらんくてさ」

 なるほど、と俺は頷く。ミカにとっては、こちらが本題だったらしい。「友達になろう」と唐突に持ちかけてきた理由も、今なら分かる気がした。

「ミツルはどんなタイプが好きなん?」

 彼女が話を振ってきたのは、その一度だけだったと記憶している。俺が「清楚でおしとやかでミニスカが似合う子」と即答したら「童貞くっさ」とばっさり斬り捨てられたものだ。そして何事もなかったかのように、ミカはまた彼氏の話に戻っていった。

 ドリンクバーと自席をどれだけ往復したことだろう。最初に頼んだ料理皿はとっくに下げられ、テーブル上には長居の言い訳とばかりにフライドポテトの大皿が乗っていた。しかしそれも、お互い手をつけないものだから一向に減らず、グラスの水溜りばかりが増えていって──結局、ポテトを食べ終えたのはファミレスの閉店時刻が差し迫ってからのことだった。

 時間にして、だいたい4、5時間は居たことになる。その事実に、我ながら驚いていた。

 退店したそばから「楽しかったなー」とミカが言って、俺は「そりゃよかった」と返した。

「ミツルはどげんやった?」
「悪くなかった」

 よかった、とはにかんで、彼女はつづけた。

「ねっ、次いつ会えるやか?」
「んー……俺、あした東京に戻るけんが」
「は? トーキョー!?」

 素っ頓狂な声を上げるミカだった。そういえば、彼女はこちらの境遇について何も訊こうとはしなかったのだ。気遣ったのか、単に興味がなかったのか、おそらくは後者だろうけれど。

「遠かやんね……」

 悩ましげに眉根を寄せていた彼女は、バイクに跨りながら「じゃあさ」と続けた。

「帰ってくるときは、連絡してよ」

***

 その年、俺は晴れて大学生となった。

 2浪の末に、ワセダ。その成果を、他人がどう受け取るかは分からない。ただ、父親は素直に喜べなかっただろう。あのひとの要望は「国立・私立問わず医学部への進学」であり、ひいては俺を医院の後継ぎにすることだったから。

 でも、俺は医者の道を諦めた。浪人中に自分には不向きだと分かって、だからこそ「地元の医者」である父親とは違う土俵で、ゆくゆくは「東京のサラリーマン」として自立できるようになりたかった。

 ともあれ、俺は念願の大学生活を謳歌していた。

「彼女ができました」

 夏休みの帰省の折、パチンコを早々に終えて行き着いた先のファミレスで、俺は告げた。

「彼氏と別れました」

 運ばれてきたドリアを突つきながら、ミカはしかめっ面で言った。

 俺はここぞとばかりにノロケて、彼女は浮気された恨みつらみを怒涛の如くまくし立てた。お互い、気の済むまで喋り倒した。その副産物として、ミカが実家住まいでフリーター生活を満喫していることも知った。

 年に2回。盆休みと年末年始に帰省しては、互いの近況を語るのが恒例となっていった。決まって片方は恋人と別れ、また片方は新しい恋人ができている。そのサイクルは、俺の肩書が大学生からサラリーマンになり、ミカがフリーターから派遣社員になってからも変わらないままだった。

「恋人を見る目が無かよね」

 そんなふうに、互い違いに自嘲めいて笑うことも多くなった。交際相手が絶えないことと、長続きさせることは別だ。経験が増える誇らしさよりもずっと、関係を保てなかった反省のほうが先立つようになった。

 恋人への愚痴を、ひいては己の無様さを、どれだけ嘆いたか分からない。ただ、それも年を追うごとに減ってきた気がする。いつからかノロケが愚痴を上回り、交際期間も長くなってきたように思うのだ。

 ──そこにきて、去年は「快挙」と言えた。

「彼氏と1年つづいております」
「偉かやん」
「そんで? ミツルは?」
「今年で2年目になります」
「うちの2倍偉かやん」

 歴代恋人との交際期間、その最長記録の更新。彼女は「10ヶ月の壁」を破り、俺は「1年半のハードル」を越えた。例の寂れたファミレスで、ミカはしみじみと天井を仰いだものだ。

「ウチら、ちゃんと成長しとる気がするやんね……」

***

 成人式を機に、にわかに復活した小学校時代の縁。とはいえ、それだけならばミカに限った話ではなかった。大学生になってからは、式の際に交換した連絡先も手伝って、かつての同級生たちと改めて集まったことが何度かある。

 ただ、長くは続かなかった。就職や結婚を境にして、自然消滅するのが常だった。なかには怪しげな宗教や商材の勧誘をしてくる奴もいて、こちらから明確に遠ざけたことだってある。

 結果として、地元の友人関係でいまだに繋がっているのは、ミカひとりだけだった。

 ふだんは通話はおろか、メールすら送ることのない間柄。帰省すれば一緒にパチンコを気怠げに打って、ファミレスで近況報告に興じるのみ。改めて言葉にしてみれば、ただそれだけの「友人」だった。

 この関係も、もう10年近くになる。
 なんなんだろう、と我ながら疑問に思ったことも一度や二度ではない。

 ──同棲して2年目になる恋人は、こう言っていた。
「君とは何を話そうかなって悩むことがないのね。話しても話し足りなくてさ」

 ──このまえ結婚した友人夫婦は、こう語っていた。
「話したいと思ったときに、そばに居ないことが辛かったから、結婚を決めたってわけ」

 もしも「話し足りない」ことこそが恋人や夫婦の要件なのだとしたら、俺とミカの関係性はそこから程遠いことは間違いない。普段から連絡を取り合っているのならば、会いに行く必要はないわけで。たかだか1日ぶんの会話のために、1年かけて話題をちまちまと蓄えているのはどういうわけか──。

>>> 盆休みには帰ってくるけん


 例によって必要最低限のLINEを送り終えると、覚えず溜息が漏れた。

 ミカに会いにいく。
 そのためだけに、俺は今年も帰省する。
 ただ、それも今回で最後になるかもしれなくて。

 29歳になりたての、春のことだった。

***

 そうして迎えた、真夏の近況報告。

 その前哨戦であるパチンコは、いつにも増して早々と終了した。1パチ甘デジとは思えないほどのヒキの悪さに、30分そこらで軍資金が尽きたのだ。それはミカも同じだったらしく、季節外れなロンTの襟ぐりをぱたぱたとやりながら、「終わったばい」と渋い顔で言ったのだった。

「報告があるっちゃけど」

 ファミレスで注文を終え、俺は開口一番にそう告げた。「台本」は前もって頭の中に用意していた。帰省を決めた数ヶ月前から、さんざんこねくり回してきたものだ。


 実は、彼女と結婚することになったったい。式は東京でやる予定でさ。たぶん来年の春あたりやか。俺はミカのこと大事な友達やと思っとるけん、よかったら式に招待したいっちゃけど、どげんね?


 ──そう、言うはずだったのだ、本当は。


「彼女と、別れた」


 恋人の浮気が発覚したのは、1ヶ月前のことだった。

 俺のスマホには、いまだに証拠写真が残っている。ソファへ無造作に放置されたスマホ、そのロック画面に表示されたプッシュ通知。そこに、知らない男の名前で「愛してる」やら「いつ別れてくれんの」やらとベタな言葉が並んでいれば、嫌でも気付くというものだ。

 叩けば埃はいくらでも出てきた。相手が、学生時代の元彼であること。1年ほど前からヨリを戻していたこと。よりにもよって浮気相手のために、共用で積み立てていた結婚資金を切り崩していたこと──。

「今にして思えば、予感はあったけど」

 彼女がめっきり手を繋がなくなったこと、帰宅してすぐにシャワーを浴びるようになったこと、こちらのスケジュールをつぶさに確認してくるようになったこと──そうした些細な事実の組み合わせに、過去の経験が黄色信号を発していた。それでも目を背けていたのは、結婚の二文字が眼前にまで迫っていたためかもしれない。

 問わず語りに、一連の流れを話し終えた後で──
 ミカは、応じるようにふっと目を細めた。


「うちもね、別れたとって」


 言うなり、長袖をまくる。
 露わになった右の前腕には、包帯が幾重にも巻き付けられていた。
 絶句するこちらをよそに、彼女はつづけた。

「これねー、元彼に切られたとって……ウケるやろ」

 見た目はこんなんやけど、別に大したことないんよ。傷の範囲はデカかけど、うすーく切れただけやし。

 いやもう凄かったとよ? 相手の家でね、うちが別れてって言ったそばからアイツ台所いってさぁ、包丁握って戻ってきたとって。うちも逃げればよかったっちゃけどさ、色々あってフライパンで応戦したけんこのザマよ。

 まぁタコ殴りにしたっちゃけど──ていうか元々うちのほうがボコられてばっかやったけんね、酒ばっか呑んでめっちゃ暴れるったい、髪とか掴まれてホント最悪やった……。


「……なんで、」

 やっとのことで、俺は口を開いた。

「なんで、俺に言わんやったと」

「なんでって──」

 苦笑を浮かべながら、ミカはお冷やを手にとる。

「言ったらミツル、帰ってきてくれんごつなるやん?」

 言わんかったのは、お互い様やろ。

 止めを刺すようにそう付け足して、彼女はグラスをあおった。
 何も、言い返せはしなかった。
 彼女の目がうっすらと赤みを帯びていることに気付いてしまえば、なおのこと。

 ふいに降りかけた沈黙は──
 しかし、すぐさま別の大声によって破られた。

「みっちゃん! みっちゃんやろ!? ていうかナカムラも!」

 反射的に、伏せていた視線を上げる。

 数メートル離れた、斜向かいの卓には一組の家族連れがいた。父親と思われる男の顔には見覚えがあった。成人式の時、いの一番に声をかけてきたヤツだ。それに、よくよく見れば母親のほうも、あの場に居たうちの一人ではなかったか。

 母親の傍らにいた、幼稚園児くらいの男の子が「だれー?」と間延びした声を上げ、父親が「おともだちだよ」と自慢げに微笑んだ。「ほら、あいさつせんね」「こんちは!」「こんばんは、やろ?」「こんばんは!」

「……こんばんは」

 俺とミカの声が重なる。お互い、上手く笑えていたかどうかは自信がない。ほどなくしてミカはこちらに向き直り、小声でつぶやいた。

「そろそろ、出よっか」

***

「うっそやろぉ……」

 ファミレスの駐輪場で、俺は間抜けなつぶやきを漏らしていた。自転車を停めていたはずの場所にその姿はなく──切断されたワイヤーロックが地面に転がっているばかりだ。さすがは自転車盗難・県下ワーストの町、その称号はダテではなかった。

「マジどんまいやね」

 言って、ミカは俺の胸にヘルメットを押し付けた。一拍遅れて、グローブ一式も手渡される。シート部分を開け、別のヘルメットを取り出しながら、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。

「後ろ、乗せちゃるけんが」

 ライダーの腰を手で掴み、それから膝でもホールドすべし。その言いつけに従って、後部座席におずおずと乗ってみる。「太ももめっちゃ震えすぎやん」と即座にツッコミが入り、俺は「うっさいわ」と返した。

 どぅるん、と盛大な地響きを鳴らして、バイクはおもむろに走り出す。目に映る人が、モノが、一瞬で後方に追いやられていく。思っていた以上の風圧に、俺は慌てて彼女の腰を掴み直す。あっという間に市街地を抜け、俺たちは田園地帯を貫く一本道へと差し掛かった。

「ねー、二人乗りってしたことある?」
「ありませんけど!」
「だっさいな! うちも無いけどね!」

 なんなんおまえ、と俺はひとしきり笑う。少しは余裕も出てきた気がして、視界を左右へと巡らせる。見渡す限り一面の田畑、この一帯に足を運んだ記憶はほとんどない。そりゃそうだ、通っていた小学校とは真反対の方角なのだから。ただ──学区の中学と高校はいずれもこちら側の方面にある。中学受験で地元を出ていなかったならば、この田舎道は間違いなく中高の「通学路」になっていただろう。

「いまが中学や高校やったら、確実に付き合っとったね」

 さも愉快そうにミカは笑い声を上げて、そう言った。

「何もかも手探りだった頃やったら、勢いでどうにかなったんにね」

 そうだな、と俺はつぶやいた。

 彼女の見立てに、あえて付け加えるなら──その手の機会なんて、この8年間でそれなりにあったはずだ。

 たとえば最初に、ミカから好みのタイプを訊かれた時のこと。「お喋りで長髪でジーンズが似合う子」と素直に答えていたならば。

 あるいは、ミカが彼氏を切らした時々のこと。「俺なんかどう?」と自薦する気概が少しでも自分にあったならば。

 変わっただろうな、とは思っていた。
 変わってたまるか、とも感じていた。
 ・・・・・・・・

 だって俺たちは、恋人を見る目がない者同士なのだ。

 仮に付き合ったとして、九分九厘、上手くいかなかったはずだ。言わなかったからこそ、友人としての今がある。いつ切れてもおかしくないような、頼りない細さの縁がある。

 見る目がないのはお互い様で、それは今しがたも痛感したことで。直に会う口実を、近況報告にかこつける小狡さを共に抱えていて。それでも──互いにようやく知った今なら、変えられるだろうか。

 よりよい友人となるために。
 あるいは、その先を望むために。

 田園地帯を抜け終えて、バイクは国道へと躍り出る。

「提案なんやけど」と前置きして、俺は告げた。

「冬に帰省した時は、どっか行こうか」
「よかけど──どこに?」
「スペースワールド、とか」
「もう無いやろが!」
「じゃあアレだ、グリーンランド」
「遠かやん! よかけど!」

「よかったらなんやけど」とミカが言葉を重ねた。

「秋、東京に遊びにいってよか?」
「別によかけど──どこに?」
「ミツルのオススメの場所」
「めっちゃぶん投げるやん?」
「あるやろ、一つ二つくらい。10年もおってさ」
「わかったよ……」

 溜息をひとつついて、俺は釘を刺しておく。

「向こうに戻ったら、見繕ってメールか電話するけん──ちゃんと出ろよ」「そっちもね?」

 してやったり、と言わんばかりにミカが笑う。夜闇に包まれたアスファルトの向こう──程遠くに見える丘のうえ、我が家の灯りが微かに瞬いていた。


<了>

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