Angel-Doll1-ヘッダー

act6 : Fri. Dec. 22th

第1話 act1 : Sun. Dec. 17th から読む



朝の電車はがらりと空いていた。時刻は早朝五時を過ぎたところ。
乗る時間をいつもより四時間も早めたのだから、
空いているのは当然だった。
乗客はみな、一様にくたびれた雰囲気をまといつつ、背をシートに預けていた。
それは俺にしても同じことで、慣れない早起きがたたったのか、
爽やかな朝とはお世辞にも言えやしない。
重力が何割か増したように思えるほどの、気だるさ。
全身にまとわりつく倦怠感は、いまだ消えてくれないままだ。

ほどなくして、大学から最寄りの駅に到着し、俺はふらふらと降車した。
閑散とした歩道を歩きつつ、ほっとする。
さすがに、この時間帯に登校するような酔狂な学生はいないだろう。
面倒くさい試験のために、
好き好んで貴重な睡眠時間を削りたいとは誰しも思わない。

それに、今は冬なのだ。
なるべくならば、遅刻ぎりぎりまで布団やコタツで
温もっていたいと思うのが人情ってものだろう。
こんな朝早くに、大学が開くのを待ち構えているような変人は俺だけでいい。

「おーい、哲ぅー!」

前言撤回。変人が、もう一人いた。

いまだ閉ざされた大学正門の前。
ダウンジャケットに身を包み、大きく手を振る人影。
屈託のない笑みを浮かべた口元から、
もうもうと白い息を漂わせているのは。

「鈴木……」

「なんだよ奇遇だな、哲!」

唖然とする俺を尻目に、
鈴木は飛び跳ねるようにしてこちらに駆け寄ってくる。

「お前、なんでこんな時間に……」

「ああ、アルミが大学を見てみたいって言うからさ、
 散歩がてら連れてきてたんだよ。
 脚のパーツを変えてから、『世界が変わった!』って言ってさ。
 最近はよく外に出たがるんだ」

しかし、当のアルミはここにはいない。
そもそも、大学を見にいくために早朝の時間帯を選ぶ理由が分からなかった。

「アルミならもう先に帰ったけどな。
 あんまり俺の知り合いに見られたくないんだと」

「……そうか」

「あー違う違う。哲は別にいいんだ。
 あいつが避けてんのは、別の知り合いのやつらなんだよ」

鈴木は、小さく手を振って、寂しそうに笑った。

「前もな、アルミが俺の通ってる大学を見てみたいって言ったことがあってな。
 その時は、普通に真っ昼間から連れ出したんだ。
 その時に偶然知り合いに会ってさ……」

鈴木いわく、彼らは最初、アルミに対して好意的だったのだという。

「カワイイだのなんだの褒めてたんだけどな、
 アルミが自分のことを律義にドールだって言った途端に反応を変えたわけよ」

──なんだ、「人形」かよ。

そう苦々しげに言い捨てて、彼らは去っていったのだという。

「アルミにとってはきつかったらしくてさ。
 だから、大学周辺を通る時は、いつも人気のない時間帯を選んでるのさ」

俺は、言葉を返せずにいた。
そんな俺の様子を察してか、鈴木は「湿っぽい話だったな」と笑い、
眠そうにあくびをした。

「お前こそ、どうしてこんな早くに?」

「変に早起きしたから、二度寝したらまずいと思って」

「早起きするなんざ元気ってことだな。安心したよ」

そう言ったそばから、ぶぇっくしょん、と豪勢なくしゃみが鳴った。
思わず、俺は吹き出してしまう。

「俺はお前の方が心配だよ」

ここで待ってろ、とだけ言い置いて、
俺は近くに設置してある自販機へと向かった。
ホットの缶コーヒーを買って、鈴木に差し出す。

「え? くれんの?」

「おととい、アルミに服を選んでもらったお礼だよ」

「待て待て、だったら俺がもらう理由はないだろ」

「間接的なお返しだよ。お前が風邪引いたらアルミが悲しむだろ。
 ……ほら、飲めよ」

微妙にややこしいお礼の仕方だな、と鈴木が笑った。

「サンキュ、ありがたくもらうわ。実は財布を家に忘れてきちゃってさ」

「感謝するんだな」

「しっかし、安いお礼だな」

「手持ちが少ないんだよ、我慢しろ」

そんなやり取りを交わしつつ、
鈴木がコーヒーを飲み終えた頃にタイミング良く門が開いた。
結局、それまでに他の学生がやってくることはなく──
俺たちは受験番号1、2を独占することとなったのだった。

指示されて入った教室は、小ぢんまりとしていた。
この広さでは、多くてもせいぜい30人ぐらいしか入らないだろう。
てっきり大講堂のような広々とした教室で
受けるものと思っていたから、意外だった。

「ああそうか、お前の場合、普通日程で受けるのは初めてなのか」

去年は堂崎家の葬儀に出席していたため、
公欠扱いとして別日程で試験を受けたのだった。
その時は確か、もっと広い教室に数百人規模で詰め込まれたはずだった。

「普通日程ならこんなもんだよ。全教室をフルに使うから、
 こんな狭い教室に詰め込まれることもあるのさ」

そういうものか、と納得する。ともあれ、俺にとっては幸運だった。
大教室にすし詰めにされて、
試験終了後の大混雑に巻き込まれるよりはよっぽどマシだ。

「昨日も言ったけど、試験が終わったら裏門から抜けるからな」

「はいはい、了解。
 確かに、この教室からなら裏門の方が近いからな」

その後は、特に何をするでもなく時間が過ぎていった。
鈴木は一〇分もした頃には机に突っ伏して寝息を立てていた。
何だかんだで寝不足だったらしい。俺も彼にならって、机に顔を伏せた。
浅い眠りから覚めた頃には、教室は学生たちで埋まっていた。
壇上では、監督官が問題冊子を念入りにチェックしている。
時計を見れば、もうすぐ一〇時をまわろうかというところだ。
ほどなくして冊子と回答用紙が配布され、簡単な注意事項の説明がなされた。
それも終わると、教室が静寂に包まれる。

「では、始めてください」

教室に、監督官の低い声が響き渡った。

……終わってみれば、当初に心配していたようなことは何ひとつ起きなかった。
少ないとはいえ、それなりの人数が押し込まれた教室。
その閉鎖空間で過ごす三時間。
あの「発作」が試験中に表れやしないかと内心ひやひやしていたが、
そうした気配もなく、拍子抜けするほど順調に試験は済んだのだった。

「うっしゃあ、終わったぁああ!」

教室棟から出るなり、鈴木が天に向かって大仰に叫ぶ。

「うるさいよ、鈴木」

「いや、だってテンション上がるだろ!
 今日から冬休みだぜ? ふ・ゆ・や・す・み!」

「お前は小学生か」

そう突っ込みながら、俺は彼女との「残り時間」を思い返していた。
凛と過ごすようになって、すでに五日が経っていた。
約束の日曜日まで、今日を含めてあと二日。
残されたわずかな時間を、なるべく一緒に過ごしたいと思った。
外に出る必要はない。あの部屋で、リンと寄り添っていれば十分だった。

「哲、せっかくだからどこか行こうぜ!」

俺の心境とは反対に、鈴木はアクティブな提案をぶつけてくる。

「なんだよ、あからさまに嫌そうな顔すんなよ。
 この前約束したばかりじゃんか、Wデートするってさ」

ああ、確かに鈴木はそんなことを言っていた。

「でも、約束はしてないだろ」

「なんだよノリ悪いな。せっかく服や靴を買ったんだ、
 外に出て日の目を見せてやるのは当然だろ?」

「家で眺めてりゃ十分だよ。だるくて、外に出る気にならないし」

「お前、最近ほんとに『ダルい』しか言ってねえよなぁ。
 若さが足りんよ、若さが。もっとアクティブになれよ」

「人混みの多い場所は好きじゃないんだよ。
 移動するのも疲れるし、できるだけ歩きたくない」

「だったらさ、ドライブしようぜ! レンタカー借りてさ。
 好きなところに連れてってやるよ!」

お節介というか世話焼きというか。
これが鈴木の長所であり、同時に短所でもあるのだが。

「ああ……気が向いたらな」

気のない返事をしつつ、大学の正門に向かう。
一刻も早く帰宅したかった。リンの顔が見たかった。
はやる気持ちを抑えながら、足早に歩いていると──
突然、人だかりにぶつかった。

「なんだ、すげぇ混んでるな」

近くで、何やら大きな声がする。
裏門に続く階段を降りきったところで、その原因がわかった。
門の近くで、一団が集会を開いていたのだ。

『エンジェルドールの生産を、即刻中止すべきなのです!
 彼らは社会を蝕んでいるのですから!』

拡声器を使って話しているリーダーらしき女学生。
その周りでは、十数人ほどの学生たちが
「ドール撲滅」と書かれた横断幕を掲げていた。

裏門付近は道幅が狭い。
それに、今は試験が終了した直後なのだ。
こんなところで集会を開けば、混雑するのは当たり前のことだった。
方々からは、盛大にブーイングが飛んでいる。
しかし、演説を打っている学生たちは意に介した様子もなく、
あちらはあちらでドール批判を斉唱していた。
騒音めいた声の応酬に被さるように、
拡声器から割れんばかりの大音声が響き渡る。


『皆さんご存知のように、我が国の出生率は、年々低下しています。
 二十一世紀初頭になって顕在化してきたこの問題は、
 当初から国家の基盤を揺るがしかねない重要問題として認識されてきました」


『ただでさえ低い出生率。それが、ここ十年の間に、ますます低下してきているのです。これがどういう事実を示すかお分かりでしょうか!?』


『そうです、かの悪しきエンジェルドールの登場が、
 この十年の低下率の原因なのです!
 これはドールの普及によって、
 配偶者を持とうとしない若者が増加しており、
 ひいては晩婚化を助長する結果になっているのです!』


リーダーらしき学生は、舌鋒鋭くドール批判をまくし立てていた。

「ドールの登場によって、初婚年齢が遅くなった」
という言説はしばしば耳にする。
大学の講義においても、現代社会系の講義であれば、
ドールの存在が取り上げられることは多い。
そこで語られる内容は、えてしてドールに否定的なものだ。
なかでも少子化問題などと絡められる手法はオーソドックスなものと言えた。
そういえば、離婚経験者のドール所有率が高いというデータもあると聞く。
理想の恋人像を自らの手でカスタマイズできるのだから、
「性格の不一致」など起こるわけもない。
言ってしまえば「人間と付き合うより、よっぽど楽」ということなのか。

「まーた、あいつらかよ……最近多いんだよな。
 この手の集会はウンザリだ」

苦々しげに顔をゆがめ、鈴木は吐き捨てるように言った。
エンジェルドールを所有している身としては、
当然ながら聞いていて気持ちの良いものではないだろう。

「ったく、『アクマ』なんて余計なモンが出てくるから、
 ああいう奴らが調子づくんだよな」

「……『アクマ』? なんだそりゃ」

聞き慣れない単語を耳にして、思わず聞き返す。
鈴木はこちらを振り向き、逆に驚いたような顔つきになった。

「知らないのか? ここ最近、マスコミで大きく報道されてるじゃないか」

「うちは新聞もとってないし、テレビも滅多に見ないからな」

「……世情に疎いというのは感心しないね、哲くん」

やけに勿体ぶった口調で、やれやれと肩をすくめる鈴木。
「お前にも無関係な話じゃないんだぜ」と前置きして、言葉を続けた。

「ドールユーザーにとってはかなりの大事件なんだ。
 『傀儡』って組織の名前ぐらいはお前も聞いたことがあるだろう?」

「……ああ、もちろん」

その名を聞いた途端、不穏な感情が胸に満ちた。
週刊誌の記事が、自然と思い出される。
堂崎カンパニーとの関係が噂される反政府組織。
ドールをテロ活動に用いる犯罪者集団。
それが、関係しているというのか?

「簡単に言えば『アクマ』ってのは、
『傀儡』が造ったドール型の殺人兵器なんだとさ。
 今のところ、政府関係者が数人、被害に遭ってる」

鈴木が口にした被害者たちの名前は、そのどれもが著名人だった。
そして、全員が男だった。

「確認されている『アクマ』は、現時点では女性型ばかりなんだと。
 人間を装って相手の男に近付いて……なし崩しに関係を持つらしいんだ」

「そこで、刃物でグサリ……みたいな感じか?」

「いいや、そんな直接的な殺し方じゃあない。
 奴らの体内には悪性の病原菌が仕込まれているらしいんだ。
 で、それを性交時に粘膜接触を利用して感染させるって寸法なんだと。
 えげつねぇ話だよな」

「……アクマっていうのは、そういうことか」

「天使」たるエンジェルドールとは対極の存在。
だから「悪魔」。
なんとも安直なネーミングだったが、それ以上に分かりやすい表現ではあった。

「ああ。週刊誌やネットなんかじゃそういうふうに呼ばれてる。
 政府は『兵器』なんてそのまんまんまな表現をしてるけどな。
 いや怖い怖い。ドールを持っている身としては他人事じゃないからなぁ」

「何か対策はされてないのかよ?
 全国にはそれこそ数え切れないほどのドールが流通しているわけで……
 早く手を打たないと、被害も拡大する一方だろ?」

「そりゃ、すでに対策されてるよ。
 『アクマ』を判別するための検査方法が最近確立したらしくてな。
 ドールとその所有者には、検査を受診するよう政府から通達が出てる。
 俺も検査に行ったぜ。シロだったから安心してくれ」

鈴木はそう言って、からからと笑う。
それから、どこか探るような視線をこちらに向けてきた。

「……哲も、もしかすると狙われてたりしてな?」

「なに言ってんだよ、そんなことあるワケないだろ?」

強張った唇をどうにか動かし、笑い返す。

「……それに、こんな一般人を狙う必要がどこにあるっていうんだ?」

「だって一応、堂崎家の『家族』だったんだろう?
 襲撃事件の犯人から標的にされてもおかしくないよな、なーんつって」

鈴木の冗談めいた言葉に、押し込めていた不安が膨らんでいく。

──押しかけに近い形で、俺の前に現れたエンジェルドール……「リン」。

彼女は頑なに口を閉ざしていた。
何者かに追われているらしい、ということだけが辛うじて推測できた。
彼女とは、何度も、何度も交わった。
あの日を境に、俺の体調は悪化の一途をたどっている──

事実の断片が、パズルのように組み合わさり、不穏な想像を形づくっていく。

「哲も一応検査に行ってみたらどうだ?
 リンはレンタルなんだから心配ないとは思うけど、念のためにさ。
 検査自体はすぐに終わるしな……」

そうだな、と曖昧に笑い返そうとしたところで。
突然、背中から押されるような感覚があった。
振り向くと、後ろから人波が寄せてきていた。
自分と同じように、正門の混雑を見越して
裏門から抜けようと考えていた学生たちなのだろう。

集会のために門の近くで滞留している人垣。
そして、背後からの人波。
いつの間にか、大混雑の中心部に身を置く格好になっていた。

どくん、と身体が脈動した。
まただ、と直感する。全身に戦慄が走る。
……ファッションビルでの、あの感覚だった。

「……おい、顔色が悪いぞ? 大丈夫か?」

鈴木の言葉で、宙を漂っていた意識が引き戻される。
すると、動悸がいっそうはっきりと強く感じられた。
どくん、どくん、どくん。
鼓動に合わせて風景がぶれる。
ただでさえ多い人の数が、二重三重に折り重なって見える。

「……どうしたよ、おい?」

鈴木が心配そうに差し伸べた手を、俺はとっさに振り払っていた。

大丈夫、だいじょうぶだから。

裏返りそうになる声を喉元でならし、平静を保とうとするのに必死だった。
そうしている間にも人波は押し寄せ、蓋をしていた衝動が爆ぜそうになる。
棒のように固まっていた足が、思い出したように動いた。

──気付けば俺は、人混みを押しのけ、外への脱出を図っていた。

「哲! おい、哲っ!」

追いすがる声を振り切って走る。ただひたすらに走り続ける。
うごめく群衆をかき分けながら、出口を求めた。
さながら水中に閉じ込められたような、
溺れる感覚にも似た息苦しさが胸を襲う。

苦しい。

 苦しい!

  苦しい!!

腕が当たり、肩がぶつかり、短い叫びと舌打ちが耳をかすめた。
それでも、足を止める気にはなれなかった。
ひとたび立ち止まってしまえば、自分が何をしでかすか分からなかった。

──『一週間で、お別れしなくちゃいけないから』。

彼女の言葉が、ふっと脳裏に蘇る。
あの、もの寂しげな微笑の意味。
「お別れ」とは、俺のもとから彼女が去っていくことなのだと……
そう、認識していた。

しかし、それは俺の勝手な思い込みでしかない。
彼女の言葉の真意が、別のところにあるとするならば。

例えばそう、俺の「死」を指して
「お別れ」と言っているのだとしたら──?

人だかりが途切れ、視界が開ける。
しかし、そこには自分と同じく門を抜け出た学生でごった返していた。
その光景をとらえると同時に、まだ止まることは許されないと悟る。
人垣を突破した勢いそのままに、俺は街路を疾走した。

……そうだ。俺を葬るのに、拳銃なんてそもそも必要なかったのだ。
俺は、分かりやすい脅威に目先を奪われていただけだったんじゃないのか。
完全に、安心しきっていた。緩みきっていた。
自分の身に次々と起こった、数々の異変。次第に衰弱する感覚。
彼女はただ……その時を待ちさえすればよかったんじゃないのか?

無我夢中で駆け抜けた。
街の景観が、移り変わっては流れ去っていった。
周囲の音が消え、脚の痛みが失せ、息を継ぐことさえ忘れかけて。
内なる声に突き動かされるように、地を蹴り続けた。

──コワセ──壊せ──殺せ。

どれくらい駆けたかは覚えていない。
どれほどの時間が経ったかも分からない。
ただ、気が付けば目の前には見慣れたドアがあって。
そこでようやく、自宅に帰り着いたのだと思い知る。
痙攣したように震える手で、乱暴に鍵を開けた。
靴を脱ぎ捨てる間が惜しくて、土足で踏み入った。

「おかえりなさい」

この数日で聞き慣れた声。かつては聞き慣れていたはずの声。
追い求めていた姿が、目の前にあった。

「遅かったね、大丈夫?」

女の顔から表情が消える。
一歩迫るごとに、陰りを帯びる。

「……どうしたの……?」

ああ、そうだった。
この女はヒトじゃない。
機械だ。人形だ。
ただ、人形は人形でも──
お前は「天使」じゃなくて、本当は──

瞬間、耳元でぷつんと音がした。
身体の内側で限界まで膨れ上がった欲望が、破裂するのを感じた。

後ずさる彼女。
その両手首を掴む。
そのまま一息に押し倒す。

短く悲鳴が上がる。
その上に覆いかぶさり、叫びを塞ぐ。
逃れようとのたうつ脚。
そこにまたがり、腰で抑え込む。

逃がさない。

上半身を包む薄い布地に手を掛ける。
その下に隠されたものを貪りたくて仕方ない。
留められたボタンが引っ掛かって外れない。
力任せに引き千切るとあっけなく弾け飛んだ。
布地が裂ける心地よい音とともに肌が露わになる。

それだけでは足りない到底満たされない。
煮えたぎる直情をねじりこもうと肉薄して──

「──テツ、くん」

喘ぐようにつぶやかれた声が、鼓膜を刺し貫いた。
桜色の唇は、耐えるように強く引き結ばれていて。
どうしようもなく、震えていて。
恐れの色が、そこには満遍なく散らされていた。


……凛……リン?

……あれ、どうして……

……そんなに怯えた様子で……



ぴたり、と視線が合った。

大きく見開かれた目。
その奥に映し出されているのは、紛れもなく自分の姿で。
引き裂かれたリンの衣服。それは俺とアルミが選んだもの。
床に押さえつけられたリンの腕。それを掴んでいるのは俺の指。

誰が、襲った?

俺が、襲った。





「……ぅ……あぁ、ああああああああ!」





腹の底から、絞り出される叫び。
それはさながら、獣の咆哮にも似ていた。

「ごめん……ごめん……」

うわ言のように、繰り返す。
ふいに、全身が崩れるような感覚を覚えた。
ふっと意識がかすみ、視界が閉ざされる。
やがて呼び声は遠ざかり、俺は底知れない暗がりへと落ちていった。

目覚めると、そこには薄暗い闇が広がっていた。
夢だろうか、とおぼろげに思う。死んだのかもしれない、とも考える。

……いいや、違う。

俺の手を握り締める、もう一つの手。
その確かな感触が、ここは現実だと物語っていた。
包むように、祈るように重ねられた手──その先へ、視線を移していく。
行き着いた先には、安らかな笑みをたたえた恋人の顔があった。

「……リン」

名前を呼ばれた人形は、応じるようにゆっくりと頷いた。
弛緩しきった体に、感覚が徐々に戻っていく。
背中を包む、柔らかくも張りのある質感に、
自分がソファーに横たわっていることを理解した。

「……運んでくれたのか?」

無言で、リンは頷いた。

「そうか……ごめんな……」

意識を失う直前の一連の行動を、鮮明に覚えていた。
いっそ、気を失っているうちに忘却してくれていれば。
あるいは、知らないフリを装うという手もあったかもしれない。
自分は何をしたのかと、とぼけることも出来たかもしれない。
けれども、それは許されないことだと思った。
何をしでかしたかは、自分がよく知っていたのだから。

出迎えてくれた彼女を、床に押し倒したこと。
「ごめんな……痛かったよな」
「……ううん。平気だよ」

彼女のために買った服を、自らの手で引き裂いたこと。
「ごめんな……せっかく買ったのに」
「……大丈夫。買ってくれた服、もう一着残ってるもの」

挙句に、のしかかるようにして気を失ったこと。
「ごめんな……重かったよな」
「……少しだけ、ほんのちょっとだけね」

言葉に、詰まる。
一拍遅れて、どうしてなんだと叫びたい衝動に駆られる。
平気なふりをする必要なんてないのに。責めてくれて構わないのに。
そうされたほうが、いっそ楽なのに。

──どうして、そんなに、哀しく笑うのか。

「ごめんな……本当に、ごめんな……」

リンが、俺の手に頬を寄せる。

「……いいの……もう、いいの」

慈しむかのように眼を閉じて、リンは許しの言葉を紡ぐのだった。

そのまま互いに言葉を交わすこともなく、しばらくの沈黙が続いた。
優しく、哀しい静寂だった。

「……なぁ、リン」

「うん」

「リンが来てから、隠してたことがあるんだ」

自然と、俺はそんな台詞を口にしていた。

「最近、体調が悪いんだ」

言うべきか否かと躊躇していた言葉の連なりは、
いったん外に出してしまえば、
後はするするとこぼれ落ちていくばかりだった。

「もともと秋ごろから調子は悪かったけど……
 今はもう、前とは比べ物にならないくらい悪化してる気がする。
 一度寝ると、そのまま馬鹿みたいに眠ってしまうんだ。
 起きたら起きたで、耳鳴りがしたり、味覚がおかしくなったり、
 突然意識が飛びそうになったり……」

リンは何も言わなかった。
ただじっと無言を貫き、俺の顔を見つめていた。
静寂のなかで、俺の声だけが室内に響いていた。

「極めつけに、なんの脈絡もなしに誰かを襲いたくなるんだ。
 ……おととい、アルミと服を買いに行った時が最初だった。
 買い物中に、いきなり周りの客を襲いたくなった。
 狂ったのかと思って、自分が怖くて仕方なくて」

目を閉じる。
リンの表情を視界から消して、言葉を継ぎ足した。

「今日だってそうだ。
 大学で、発作的に人を襲いたくなった。
 その場はどうにか堪えたけれど、
 結局……リンに酷いことをしてしまった」

小さく息を吐いて、薄目を開く。
リンの顔を直視できないまま、俺はあてどなく視線をさまよわせる。

「……大丈夫、
 リンがいなくなるまでは病院には行かないし、
 外にも出ないから」

陰鬱な予感に浸りながら、天井を見上げた。
泣きたくて仕方ないのに、不思議と涙は出てくれなかった。
雨が窓を打つ音が聞こえ始める。そして次第に、その激しさを増していった。
空が泣き出したのだ、と他愛もないことをぼんやり思った。


いつの間に寝ていたのか、分からない。

そして、いつの間にか起きていた。

まぶたが重い。辛うじて薄目を開けるぐらいが限界だった。
身体を起こすことさえ億劫で、ただ仰向けになって天井を仰いでいた。
粘りつくような暗闇のなかで、家具がぼうっと輪郭を浮かび上がらせている。そばに、リンの姿はなかった。
雨は依然として降り続いているらしく、
細やかなノイズが部屋中を満たしている。

……と、その中に混じって、異質な音がかすかに聞こえた。
そう遠くない場所から、一定の間隔でゆっくりと迫る足音。
睡魔に鈍りきった感覚のなかで、唯一、聴覚だけが冴えていた。
やがて足音は止まり、居間のドアがそっと開かれた。
淡くかすかな光が、部屋に伸びる。
逆光でくらむ視界に、シルエットが浮かび上がった。

──リンだった。

不意に、手元の何かが閃いた。
夜闇のなかにあって、さらに深い漆黒の何か。
それは、数日前に「護身用」と信じて返した拳銃で。
この状況において、その銃口が誰に向けられるかは明白だった。

怯んだのも、ほんの一瞬のことで……
これは、当然の帰結なのだと理解する。
リンに危害を加えたこと。そして、体調の悪化を教えたこと。

前者は、シンプルにリンにとっての脅威。

後者は、彼女の正体に気づいたことの示唆であり、
それも同じく脅威と映っただろう。

何もおかしいことはなかった。懸念が的中しただけのことだ。
正体を知られたリンは、まさしく「護身」のために……
時を待たずして、俺を殺すのだ。

……リンが、ひどく悠長な足取りで近づいてくる。
そして、枕元に立つと、右手に携えた殺意を掲げた。
銃口が、こめかみに当てられる。
ひんやりとした死の感触が、脳を伝った。

ただ静かに、薄目を閉じた。
全くと言っていいほどに、恐怖はなかった。
むしろ、今は望んでさえいた。
もともと、自分は死にたがっていた身なのだ。
家族と呼べる存在は、もういない。
凛の生存さえ……すでに、心のどこかでは信じていなかった。
何を今さら、生に執着する必要があるのだろう。
もう、十分なんだ。望むことなんて、すでになかった。
「凛」の手で殺されるなら本望だと、素直に思える程度には。

彼女は、世間で言うところの「悪魔」なのかもしれない。
それでも……俺にとっては、天使に違いなかったから。
ひとときの幸せな夢を見せてくれた。
本当に、ただそれだけで十分だったんだ。

安らかな心地で、その瞬間を待った。
頭蓋を貫かれる痛みを、ほんのりと想像した。
かりそめの闇が奈落のそれへと変わる瞬間を思い描く。
ただひたすらに──来たるべき終わりに備えていた。






………………

…………

……






──衝撃は、ついに訪れなかった。






「……撃たないのかい?」

震える銃口に向けて、問いかける。
目を開くと、すぐそばにリンの顔があった。

「…………っ」

その目尻から、一筋の雫が頬をつたい落ちていった。
リンは音もなく泣いていた。
初めて目にする、人形の涙だった。

アルミの「泣き顔」が脳裏に浮かんだ。
彼女は泣くことができなかった。
それはひとえに「泣く」機能が付いていなかっただけの話だ。
でも、リンは違う。
俺の知る限りにおいて、人間としての機能をすべて備えている。
そして、その通りに「堂崎凛」らしく振る舞っていた。

「──約束、守りたいと思った、から」

震える声で、リンは言った。
それは、彼女が俺のもとに来て、初めに交わした約束だった。
「去り際に、すべてを教える」こと。
彼女は、明後日になればここから消える。
事実を明かして、去っていく。

……でも、それで納得できるのか?

受け入れていたはずの事実が、今になって重く響く。
割り切っていたはずの想いが、どうしようもなく胸を打つ。
離れたくなかった。手放したくなかった。

だから──俺は言うことにした。

「……付いていっても、いいかな?」

「うん……一緒にきて。最後まで、一緒にいて」

リンを、そっと抱きしめる。
その身体からは、ほのかな温もりが伝わってきた。
拳銃が床に落ち、冷えきった空気に硬い音を響かせた。
背中に、リンの両手がまわされる。
腕に力を込めると、応じるように彼女の指先が背中をつかんだ。
そのまま、俺は目を閉じる。
すぐに眠気が襲ってくるけれど、そこには一抹の不安もなかった。
包まれるような充足感に浸りながら、眠りを待つ。

「──おやすみなさい」

囁くような、澄んだ声音が、耳元に染みていった。
ああ、いつの間にか。
雨の音は、すでに止んでいたのだった。


act7 : Sat. Dec. 23th

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