あのひとの声と、その色の話
──むかしむかしの、お話だ。
僕は、気が付くと「そこ」にいた。
そこがどこかは分からない。いつから居たかも分からない。
唯一理解できたのは、自分がここに在るという事実だけだった。
「はじめまして」
声が降ってきたのは、僕がそこに来てしばらく経ってからのこと。
もっとも、その時の僕は、声を声として認識できなかった。
きっと前にいた場所では言葉を発する必要がなかったから、
そういった文化を知らなかったんだろうな。
だから、言葉を単なる音の連なりとしてしか受け取れなかった。
当然、そこから意味をくみ取ることなどできるはずもない。
しかし、そんな事情とは無関係に、言葉はとめどなく降り注ぐ。
いくつもの音を浴びているうちに、だんだんと眠くなってくる。
自分の身体がじわりじわりと温まっていく感覚。
それを言葉で表すならば「心地よい」ということになるのだろう。
とは言え、その感覚を言い表せるようになるのはもっと先の話だ。
そうそう、当時の僕には特技がひとつあってね。
言葉が分からない代わりに、音の形を記憶することができたんだ。
さっきも言ったように、
当時の僕にとって言葉は連続する音でしかなかった。
たとえば「初めまして」なら「ha・ji・me・ma・shi・te」。
こんな感じで、音のまとまりとしてしか認識できずにいた。
でも、音の違いを聞き分けて、記憶するだけの能力は備わっていたみたいなんだ。
意味を知って、文字を習った今だからこそ、
「はじめまして」と書けるけどもね。
ともあれ、そういう理由で、こうしてあの頃の「声」を思い出せる。
「はじめまして」は最初の声だったから、特に印象に残っている。
そして、その時に聞いた終わりの声も、同様に。
「──よろしくね、コウ」
意識を放り出す間際、耳をくすぐったのはそんな台詞だった。
***
コウ、というのが僕の名前らしい。
声が聞こえるようになってしばらくした頃、そのことを理解した。
理由は単純に、耳にする機会が多かったからだと思う。
声が聞こえるときは、たいてい「コウ」で始まる。
ねえねえ、と呼びかけるようにして降ってくる。
ここには自分だけしかいないのだから、
呼ばれるとすれば僕のことなのだろうと思った。
そういうわけで、僕が最初に覚えた言葉は自分の名前だったんだ。
名前を呼ばれるたびに、声をかけられるごとに、
身体の芯がじんわりと熱を持つ。
いつだって、僕は安らかでいられた。
裏を返せば、安穏とした心地しか知らなかった。
この時点では、まだ。
***
時が経つにつれ、声はだんだんと明瞭さを増していく。
僕はもう、その声をきちんと「声」として認識できるようになっていた。
単なる音の束とは違う、いっとう特別なものだと分かっていた。
やがて僕の耳には、別の音も聞こえるようになった。
さわさわ、ざあざあ、がたんごとん、ってな具合にね。
聞き取れる音の種類も、格段に増えていったんだ。
その中には「声」と呼べるものもいくつかあった。
聞き慣れた声によく似た音の形をしていたから、すぐに分かった。
でも、いつものそれとはまた異なった種類のものだった。
僕にとって声とは、自分とは違う「他の誰か」の存在を示す証だった。
それまでの自分の世界には、二つのモノしかなかった。
僕自身と、それから、聞き慣れた声の主。
そこにまた別の声が加わったもんだから、ちょっとびっくりしたね。
ここに在るのは、ふたつだけじゃなかったんだな、って。
なじみのない声の大半は、僕に向けられたものではなかった。
それらはだいたい、聞き慣れた声の主に向けたものらしかった。
いつもの声がすると、やっぱり落ち着いた気持ちになれたんだ。
時々で声のトーンに差はあっても、満たされるのには変わりなかった。
次第に僕は、言葉を認識するようになった。
ある特定の音の並びが聞こえた時に、
いつもより安らかな心地に浸れることに気付いたんだ。
なかでも、いちばん気持ちよかったのは、
「しあわせ」という単語が聞こえた時だったな。
しあわせ。──うん、いい響きだね。
他の声が聞こえるようになって、世界が広がった気がしたよ。
でもね、そうそう良いことばかりでもなかったんだよね、これが。
しあわせな言葉とは反対に、いやな気持ちになる言葉も知ってさ。
その最たるものが「オロセ」という単語だった。
初めてそれを聞いたとき、世界がびくんと震えたんだ。
まさに衝撃だったね。
聞き慣れた声も、いつもの弾むような調子ではなく、ひどく弱々しかった。
そこで、ようやく思い知ったんだ。
僕の感情は、聞き慣れた声の主のものだったんだ、ってね。
「オロセ」という言葉は、それから何度も何度も耳にした。
いつもの声の主は、一度だってそれを口にしたことはなかった。
言うのは、決まって「他の誰か」なんだ。
──オロセ、オロセ、オロセ。
聞こえるたびに、えも言われぬ不快感に襲われた。
あの感覚を言い表すのは、なかなか難しい。
そうだな、例えるならば、
すやすや眠っているところをいきなり泥沼に投げ込まれるような。
振り返ってみれば、あれは苦しみや悲しみといった
負の思念だったんじゃないかなと思う。
耐性のなかった僕には、ずいぶんと堪えた記憶がある。
そんなこんなで、良かれ悪かれ日々を過ごしていたんだ。
いろいろな声に、さまざまな音に取り囲まれながら。
***
時の流れとともに、僕はすくすくと成長していたらしい。
以前に比べて、身体もずいぶんと大きくなっていたようで。
そう自覚できたのは、その場所が狭く感じるようになったからだ。
なんせ少し身動きするだけで、壁にぶち当たってしまうのだから。
できることと言えば、ころころと身体を転がすことだけだった。
そんな様子を案じたのか、声の主は僕を色々な所に連れていってくれた。
もっとも、僕には何も見えていなかった。
ずっとずっと、暗い場所にいたからだ。
目を開けていたか閉じていたかも分からない。
ただ、どこまでも黒々としていた。
「コウ、今日は公園にいくよ」
そんなふうにわざわざ宣言していたから、
とりあえずどこかに行くということだけは分かるのだった。
「病院」だの「薬局」だの「スーパー」だの。
外に出るときは、必ずと言っていいくらいに場所を伝えてきた。
もちろん、それらの施設がどんな所かなんて知らなかったけれど。
なんかさ、ただ散歩するだけでも「今から歩くよ」なんて言ってくるんだ。
でも、声が一番元気なのは散歩する時だったんだな、確か。
鮮明に覚えているのは「高校」に立ち寄った時のこと。
「私、ここに通ってたんだよね」と紹介されたんだ。
「コウも、ここに行くことになるのかな」
嬉しそうに、でも少しばかり寂しそうに喋っていた。
「私は、途中で退学しちゃったけど」
その声の、いつになく暗かったことが印象に残っている。
***
寝ては起きる日々を、数え切れないほど繰り返していた。
声と音は、どれもこれも耳慣れたものになっていて。
新しい何かに出会うことは、なくなっていたように思う。
ざっくり言うなら単調なループ。それはそれで愛しかった。
でも、そんな日常は、唐突に終わりを迎えることとなる。
ことの始まりは、うめき声だった。
いかにも苦しげな声音は、そのままがんがんと僕の頭を揺さぶった。
これほどまでに切実な声は、いまだかつて聞いたことがなかった。
他の声が幾重にも重なり、やがて音の洪水がなだれ込んでくる。
世界がうねる。ここではないどこかへ、押し出されそうになる。
──追い出されるのは、いやだ。
精一杯、もがいた。
身をよじり、手足をばたつかせ、己の居場所を守ろうとして。
それでもなお、息苦しさは増していくばかりで。
痛みが頂点に達した瞬間、世界から唐突に音が消えた。
***
「やっと、あえた」
代わりに聞こえてきたのは、そんな台詞だった。
相変わらずの黒々とした風景。その中心に「彼女」がいた。
ものを視ることができたのは、それが初めてだった。
その時に見えた姿が「人」で「女性」だと分かるのは後々になってからのことだ。
暗闇しか知らなかった当時の僕は、
その姿を判別するだけの知識を持ち合わせていなかった。
彼女は、霧のように白くぼんやりとしていた。
輪郭はひどく曖昧だったけれども、長い髪と柔和な表情が見て取れた。
とてもびっくりしたさ。でも、不思議と恐怖は感じなかった。
なぜならその声が、いつも聞き慣れたものと同じだったから。
──やっと、あえた。
彼女の言葉を反芻する。自分もまた、同じ気持ちだった。
温かいこの場所で、一緒にいられる。
そう思うと、これ以上なく嬉しい気持ちになった。
ずっとずっと、いつまでもそばにいたいと思った。
けれども、そんな期待は、彼女の次の一言によって打ち消された。
「ごめんね、もういかなくちゃ」
仕方ないんだよ、と彼女は続けた。
ただでさえぼやけていた輪郭が、次第に揺らぎ始める。
白いもやが薄らいで、暗闇に呑み込まれていく。
その時、僕は別れを悟った。
悲しいと言うよりは、寂しかったように思う。
けれども、そういった感情が彼女から流れてくることはなかった。
なぜだか、彼女は満ち足りているように見えたんだ。
その、覚えのある感覚に、僕は急いで言葉を当てはめた。
──「しあわせ」?
白の散りゆく中で、彼女はゆっくりと頷いた。
「少しの間だけでも、いっしょに過ごせたから」
本当はもっとずっとそばにいたかったんだけど──。
そう付け加えて、そっと笑った。
「コウも、そろそろいかなくちゃ」
おもむろに指をさされて、僕はようやくもう一つの異変に気付く。
彼女とはまた別の白いモノが、目の前に浮かび上がっていた。
消えゆく彼女とは逆に、それははっきりとした輪郭を持ち始める。
なんだこれ、と振り払おうとすると、それも同じ動作をした。
そこでようやく、それが自分の「手」だと知った。
いってらっしゃい、と彼女は言った。
それが最後の声だった。
気付けば、彼女は消え失せていた。
世界が動きを止めたのが分かった。
温もりが急激に失われていくのを知った。
──瞬間。
音と光が、僕を包み込んだ。
***
……そうして僕が外に生まれ落ちてから、今日で30年目を迎える。
誕生日というものは、誰にとっても特別なものだと思うけれども──
僕の場合、もう一つの意味を持つ。
僕の誕生日は、実母の命日でもあるからね。
最も印象に残っているのは、19歳の誕生日のことだ。
NYに留学中だった僕は、春の休暇を利用して帰省した。
養父母と久々に団欒のひとときを過ごした後、墓参りに行ったんだ。
墓前で手を合わせながら、僕は少しばかりの寂しさを感じたよ。
墓碑に刻まれた「享年 十八」の四文字が、どこか寒々しく映った。
──ああ、自分は彼女よりも年上になってしまったんだな、って。
時を止めた母。時の流れに身を置く自分。
母が生きた年数を、追い越していくということ。
僕と母の間に生じる、絶対値としての時の量。
僕が生きる限り、その差は開いていくわけだ。
溝を埋めたいと、僕は切実に願った。
ならばどうするか──そう考えて、手持ちの“道具”を見直してみた。
確認はものの数秒で済んだね。
僕には、音楽しかなかったんだ。
でもそれは、唯一にして最良の手段だった。
講師や学友たちが言うところの「gift」、いわゆる天賦の才。
それを存分に発揮することこそ、贈り主の喜びだと思った。
プレゼントにはお返しをするのがマナーってものだろう?
僕は母の生きられなかった時間をもって、音を奏でるんだ。
妙なる響きを、天上に届けるためにね。
そう決意して以来、僕は以前にも増して練習に打ち込むようになった。
メトロノームさながらに日本と海外を行き来する日々が続いて。
努力は実り、数々の大舞台にも立つことができた。
自分で言うのもなんだけれど、本当に幸運なことだよ。
もちろん、いつも万事順調というわけじゃなかった。
挫折しかけた経験は、それこそ数え切れないくらいにある。
コンサートの直前にもなれば、いまだに緊張で強張ってしまうし。
調子が上がらなくて、ひどく焦ってしまうこともザラだ。
そういう時、僕は決まって母の声を思い返す。
胎内で過ごした時の記憶を、ひとつひとつ丁寧にたどっていくんだ。
そうするとね、不思議と落ち着いた気持ちになれる。
母の声のおかげで、どうにかここまでやってこれたんだよ。
***
……そうそう、最近になってようやく分かったことがある。
それはね、母の声の「色」だ。
ご存じの通り、僕は共感覚を持っていてね。
より詳しく言うなら、色聴というやつだ。
そう、僕は音を聞くと、一緒に色も見える体質でさ。
たとえば、ドレミファソラシの音階なら──
「ド」は赤、「レ」は黄色、「ミ」は緑。
「ファ」は橙色、「ソ」は青、「ラ」は紫、「シ」は黒。
うん、ざっとこんな感じだね。
人の声でも同様に色を感じ取ることができる。
僕自身の声は、ダークブラウンとして映っている。
ちなみに君の声だと、赤と銀が入り交じった色に見える。
さて、ここで問題だ。
僕の母の声は、どんな色だと思う?
当てずっぽうでいいから、ちょっと予想してみてほしい。
──白? そうか、白ときたか。惜しいね!
当たらずとも遠からずといった感じだ。
正解はね、色が「無い」んだよ。無色だ。
いじわる問題みたいで申し訳ないけれど、実際そうなんだよ。
白ならば「白」として色を認識できるんだけれど、
母の声からは何の色味も感じ取れない。
昔は、そのことでずいぶんと苦しんだ。
普通に考えるなら、僕は母親の声色を忘れてしまったということでさ。
胎内で聞いた声とは言え、母ではない「別の誰か」の声色は思い出せるんだ。
なのに、肝心の母のものは記憶からすっぽり抜け落ちていて。
残っていたのは、音の形だけで。
まるで抜け殻のようで、それがひどく哀しかった。
でも、僕は勘違いしていたんだな。
母の声は無色なんだけれども、それは忘れてしまったからじゃない。
最初から透明だったんだ。
母の声は、いつも輝いていた。色は無くとも、光沢があった。
ずっと不思議だったけれども、そのことに気付いてやっと腑に落ちた。
色とりどりの世界に惑わされて、そんな簡単なことにも気付けずにいたんだ。
色が無いということは、ある意味で寂しいことかもしれないね。
でもね、それは言い換えれば色褪せないということなんだ。
ずっと、ずっと──彼女は“ここ”にいるんだよ。
……おっと、ずいぶん長々と話し込んでしまった。
さて、もうそろそろ開演の時間だ。
記者さん。
急ぐ用事がないのなら、ぜひとも僕のピアノを聴いていってよ。
せっかくなんだ、山田 幸の誕生祝いと思ってさ。
──じゃあ、いってくるよ。
妙なる響きを、天上に届けるためにね。
<了>
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