「おいしい」について
仕事以外で何かを書く気力がない状態が続いていたけど、これはメモ的にしたためておこうと思い久しぶりのnote。少し調子がもどってきているのか。
東京にいる時はずっと、「おいしいもの」を情熱を持って追いかけてきた。いろんなお店に行って、今まで出会ったことのない食体験をするのが大好きだった。
ただ、4年ほど前くらいからだろうか。東京の暮らしがもうお腹いっぱいで無理だ。。。と思うようになった頃にはそうして食べ歩くこともお腹いっぱいになってきていた感じがあった。
それに気づくきっかけになったのはお鮨だった気がする。何ヶ月も前に張り切って予約しなくてはいけないお鮨屋さん。もちろん大将がいい人で好きなのもあってせっせと予約をとって通っていて、もちとんとってもおいしいのだけれど、あるときふと、「このおいしさはもうわたしにはtoo muchだ」とふと思ったのだった。
もちろんお鮨は今でも一番好きな食べ物で、素晴らしい食文化だと思ってるし、チャンスがあれば食べたい。でも、もうすこし控えめな、というか、「どやー」という感じがなくて、すっとでてきて、それをしみじみと食べて帰る。みたいなお鮨がいい。と思うようになった。
お鮨でさえそうなのだから、外食全般的にそういうことになる。素晴らしくスライスされた生ハムは本当に大好きで出てくればどんどん食べていたけど、今の私には美味しさがおっきすぎて、ちょっと食べればそれで十分。チーズも同じ感じがしている。
これは、私が田舎暮らしになって、母の素朴な料理を毎日食べているからそうなったのか?それとも年齢か?などと思っていた。
そしてこのあいだ。ほぼ日での土井先生の連載記事を読んで「そうか」と思った。
はい。そうそう!そうなのです!私は東京暮らしの時代(当時はそう自覚はしていなかったけれど)ストレスを解消するために、快楽を与えてくれる「おいしいもの」を求めて食べていたところがあった。今振り返ってみるとそう思う。そして今は「身体的なおだやかな情緒につながる「おいしい」」を求めるようになっている。
さらに。
これを読んで、「あぁぁぁ。なるほどなぁ。」と納得した。私は地元の田舎にUターンすることで生活スタイル、大切にしたいこと、大きく言えば生き方が変わっている。だから、自分の「おいしい」も変わってきている。そういうことか、と。
この気づきをもらえて、自分がいま「おいしい」と感じるものが変わってきていること、の整理ができたことはとてもありがたかった。「なんだかよくわからないけどそうなんだよな」なということが、「こういう理由があるからこうなんだ」、と、自分の中で整理して分かるようになる気持ち良さ。
こういう体験ってちょっとした哲学的な営みだなぁと思う。
土井先生は、「2016年に『一汁三菜でよいという提案』を出されてから、自分の考えが深まってきて、まとまってきて、いろんなところで話せるようになってきた。(それまでは思考が浅かった)とおっしゃっている。
歳には関係なく、成長はできる。
そうしたらまた新しい世界が広がるはず。それを信じて、自分でちゃんと考え続けていかなくては。