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二曹式と全自動

「わたしは二曹式じゃないといやなの。細かく分けて洗ったり脱水したりしたいで」と長年言っていた洗濯好きの母が去年全自動を導入した。

「ほんと便利。これまで何やっとったんやろうと思うわー」と言っている。

うちは小さな農家で、夏はほうれん草を育てて出荷している。母にとって全自動の何が便利かというと、ほうれん草で忙しい朝に、ボタンを押して放っておいたら洗濯が終わるということ。


今朝5時から一緒にほうれん草を収穫しながらふと思った。

「人が求めてきたのは便利さ、というよりは、時間、なんだ」と。

何が言いたいかというと。
文明の進化によっていろんな技術が生まれ機械が生まれた。それによって人の生活の中で、手間のかかる、身体に負担のかかる「労働」を機械が代わってやってくれるようになった。

人間はつらい「労働」から解放されることを求めていた。のは一つの面としてあるだろうけれど、それによって本当に求めていた、手に入れたかったものは「時間」だったんだろな、と。

人がお金を欲しいと思うのは、つまりは自分で自由に使える「時間」が欲しいから。お金があれば飛行機に乗れる。もっとお金があれば、ビジネスクラスで、飛行している間も眠って過ごすだけではない過ごし方ができる(眠る時間というのは私にとってはごほうび、みたいなところもあるが、それはあくまで快適に眠る時間、なので、飛行機の時間が好きになれない、、)

たくさんのお金で洋服が欲しいのも、そのものが欲しいように錯覚しているけど、そのきにいった洋服で出かける「時間」が欲しいんじゃないか。子どもが欲しいと思うのも、自分の遺伝子を持った愛くるしい存在が欲しいというのと同時に、そんな存在と一緒に過ごす時間が欲しい/長い人生を歩いていくには必要だからだろう。

洗濯機、自動車、オンラインショッピング、音楽のサブスク、今の私たちには、”技術の発展”のおかげで時間が節約されて、自由に使える時間が増えている。欲しいCDを買いに、本を買いに、お店まで行かなくてもいい。買い物は手の中にある小さな薄い箱一つで一瞬で済む。

だけど。

その増えた時間を人はどう使っているんだろう?使えているんだろう?


今、100分de名著で「モモ」をやっている。


人間が節約した時間は全て灰色に奪われて人間のもとには残らない

「モモ」は私が小学校低学年頃に、母に進められて読んで大きく気持ちが動いた記憶が鮮明にある本。いつか読み直したいと思いながら、まさに灰色に時間を奪われてか、再読できずにいた。ようやく読み直している今、そんなことを考えた2020年8月、金曜日の朝。

写真は昨日の夕焼け。

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