「恨む」ということについての考察
「う〜ら〜め〜し〜や〜〜〜」と言ってお岩さんは出てくる。騙された恨みを抱えて、死んでからも騙した相手(元お婿さんと後妻)を恨み、のろい殺してしまう。
恐ろしい。恨みというのは、人を殺してしまう力があるのか。
夏休みには稲川淳二さんがこわーい話をよくしていて、それを録音して友だちでまわしたりしていた。
日本の怪談には、この「恨み」がコワイ話に良く出てくる。いや、日本に限らないかな。
「恨む」とは
[恨・怨] 相手の仕打ちに対する不快・不満の気持を、その人に対していつまでも持ち続けること
近頃の日韓に関するニュースのをしていて「恨み」というものは人にとってどういうものかを考えていた。
どんなに話し合っても、どんな解決策を講じても、消えない「恨み」。
過去は過去として、未来を見据えて話ができないものなのか。
賠償金があれば、本当に納得するのかというとそうではない気がする。
国と国の話になると「そもそも戦争とは?」「命とは?」みたいな話になってしまうので、自分の身のまわりのことで考えてみたい。
恨んだことがないかと聞かれれば、「ある」
わたしは母子家庭で育っている。母は未婚で私を産んだ。今のわたしは、みんなにさらっと言ってしまうが、言ったときのみんなの反応は、令和になった今もかなり微妙だ。
「え!うそ。そうなんだ?」という人もいるし、「聞いちゃってごめん」と謝る人もいる。「なんかかっこいい」と言われたこともある。「何かの使命を持って生まれてきたのね、おめでとう」と言われたこともある(知るかそんなもん)。シーンとすることもある。
なのでわたしは、話す相手を選んできた。といっても、わたしはこの事実に子どもの頃、たぶん3歳くらいからうすうす気付いており、小学校5年生くらいには、しっかりとわかっていた。
でも、わたしの母は死ぬまで、そのことについての説明は一切しなかったし、なぜどういう気持ちでわたしを産む決心をしたのかは、一言も話さなかった。何も言わずに、逝ってしまった。
父親は知っている。というか、会っていた。だいたい月に1回くらい。わたしは父のことを、普通に「お父さん」と呼んでいたし、大人になって、母が死んでからは会った時にこっそりお小遣いを渡したりしていた。
もちろん、恨んだことはある…と思う。
なぜ母親を選ばなかったのか、なぜ産むことを許したのか、なぜ何年も認知をしなかったのか、なぜ母親を苦しめるようなことをしたのか。
そういうことを考えて、父の顔を見たくないと思っていた時期があったように思う(もう記憶が曖昧)。
しかしわたしの恨みは、社会の方への恨みの方が大きかった。
封建的で保守的なくそつまらない世の中に嫌気がさしたし、社会からはみ出ている人への侮辱、軽蔑、差別があることが、とても悔しかった。
平等と同じであることは別なのに、みんなと同じにすることをヨシとする戦後教育にもイライラした。
小中学の時、周りの友だちの親の中で、わたしを“そういう目”で見る人がいたし、先生からも訳ありの子どもという風に思われていた(素行や態度も原因かもだけど。笑)。
大学の時は、母子家庭の理由が死別or離別でないと、授業料の免除もされなかったし奨学金ももらえなかった。書類を受けつけてもらうために「離別」と嘘を書いた。
就職活動の時の面接では母子家庭の理由を聞かれた。
差別はなくならないかもしれないけれど、各個人が差別することを辞めることはできるはずなのに。
生まれた理由や家庭環境に関係なく生きられる社会になったらいいのに。
そう思って生きてきた。これは恨みという感情が元になっていると思う。
「恨む」ことで得られるもの
母子家庭で育ったある友だちは、小さい頃、母親に暴力をふるう父親を見てきた。早く離婚して欲しかったらしい。
母が離婚した後、父親を恨み続けてきた。今でも「私は父親を恨むことが母親への正義だと思っていた。未だにそう思っている部分がある」と言う。殴られていた母親本人は「そこまで言わなくても…」と言うらしい。
別の母子家庭の友人は、親が紹介してくれた会社のオーナーを10年以上恨み続けていた。自分たちを1人で育ててくれた大切な母親が紹介してくれたところだからと、我慢に我慢をして安月給で働いていたのに、業務縮小で首をきるなんてヒドイ!という理由だったらしい。
他にも、小さい頃にやりたいと言ったことをいつも「お金がないから我慢して」と言われていたこと、16歳の時に家出をしたけれど親戚に連れ戻されたことを40年恨んでいる人。
仲違いしている親に、一度仲直りを持ちかけたが、それを拒否されたことを恨み続け、もう絶縁を決めたと自分では言っているのに未だに恨んでいる人もいる。
恨むってすごくパワーのいることなのに、みんな長年恨みに恨み続けている。
これは、どういうことか。
「恨むことができる場所にとどまっていることで得られるものがある」のだと思う。
父親を恨むことで母親の味方として生きて行ける。
オーナーを恨むことで母親への忠誠が誓える。
家出した自分を連れ戻した人を恨むことで働かないでいられる。
自分にひどいことをした親を恨むことで子どもでいられる。
言葉が適切ではないかもしれないが、「恨む」ことがその人たちを「保つ」同じ場所に「とどまる」ことに繋がっているのだ。
仕返しできたらいいのか?
お岩さんは「う〜ら〜め〜し〜や〜〜」と出て来て、恨んでいる相手をのろい殺した。
相手が死んでお岩さんは、幸せだったのだろうか?「あ〜すっきりした!」と言って、お茶でも飲んだだろうか?
違うだろう。恨んでも、仕返ししても、お岩さんの中の満たされない気持ちは残っている。
ただただ愛した婿殿に迎えに来て欲しかっただけなのに、恨みを抱えたまま死んでしまった。いや、死んで呪うことを選んでしまったのかもしれない。
恨んでいても自分で選択はできるよという話
今回の話は、星にも気学にも絡んでないけれど、自分の身のまわりを見ていると、占星学では水と地、気学では土の要素が多い人が多い気がする。何サインとか本命が何とかは言わない。決めつけたくないのでね。
もし、自分のチャート見たり、本命星や傾斜なども知っていて、そういう要素多いと自覚している人は、意識しておくといいよ。
意識しておくだけで、いま恨みっぽいやつきてるな、ちょっと頑固になってないかなって気にかけることができるから。
恨むのはパワーがいるし相当キツイ。
だから、自分でコントロールできるようにしておけるといいねって話。
そんなに簡単なものではないのだと言う人もいるだろう。その辺、いろいろあるから。
恨むのが悪い、恨まないのが良いという話をしたいのではない。
選択肢がいつでもそばにあるのだということを知っておいて欲しい。タイミングはどこかで来るだろうから。
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