器の大きさグランプリ

 本題は次の太字からです。この段落では軽く近況報告するだけなのでスキップ推奨です。最近は学校関係は順調です。就活はダメダメです。インターンの山場は夏で、夏インターンのES締め切りは今月末なので、ボチボチESを書かなきゃです。ちなみにまだESは書いたことないです。自治区(自分のいるたまり場)の人間関係は、ある程度落ち着いた感じになりました。よく言えば、ソロ活が充実してきます。小説も勉強もモリモリできます。悪く言えば孤立化が進んでいます。僕の所感だと、会話が減ってるor雑な会話になってるって感じがして悲しいですね。僕は割と頭使う会話好きだったので。


器のデカさの定義

 大体のコミュニティって人数に違いこそあれど、超気配りできる人とか全然怒らない人っていますよね。そういう人のことを「器が大きい」って言ったりするものですが、定義するとしたらどんな感じなのかなと考えました。

 定義自体はシンプルに寛容さでいいだろうと踏んだのですが、寛容パラメータは何か他のパラメータに変換できて表せられるのではないかと考えました。変換されるパラメータとは、関係性です。僕はテレビに映る芸能人や政治家とは生涯1ミリも関わり合いにならないため、殺人であろうと不倫であろうと「別にいいんじゃね?」と思います。一方、研究室内で惚れた腫れたなんてことがあった場合は「お前らさあ…」って辟易します。おそらくみんな自分との関係性の深さで寛容さの度合いは変わるでしょう。関係性の大小の軸と寛容さの大小の軸でグラフを作ると45度の斜線が引かれることが想像できます。究極的にはこの解釈だけで十分だと考えます。極論ですが、殺し合いになった時に殺されてあげるようなレベルの人って殆どいないですからね。滅茶苦茶自意識が低い、客観視の化け物みたいな人ならあり得ますけど。

 自分と対象との関係性の深さが寛容さを決めるパラメータとなり、寛容さが器の大きさとなる。そのため、距離が遠ければ寛容になれる、すなわち器がデカくなる訳です。


器をデカくする方法

 先ほどの定義からすると、距離を離せば器がデカくなります。そりゃ仙人みたいに外界と切り離せば全部どうでもよくなるわって思うでしょう。そう、物理的な距離を離すのが手っ取り早い方法だというのは直感的に分かります。でも、私たちは社会的動物です。社会に属しています。コミュニティの一員です。そう、物理的に距離を離すのが難しいのです。

 物理的距離が変わらない時にどうやって距離を離すのか。自意識を遠ざける、すなわち精神的な距離を取ればいいです。つまり、コミュニティで生じている問題を「我関せず」とした態度でやり過ごすことが解決方法です。全員がこうした方法を取っていると、コミュニティ内の問題は解決されずに深刻化していきます。「それならそれでいいか」ってコミュニティを切り離すことに対する抵抗が小さいのであればこの手段でいいでしょう。

 どうしようもなく自分にとって大事なコミュニティの問題に巻き込まれている時は自分をまるでマリオネットのように客観視することで合理的に判断できるうえに寛大さも確保できます。言うは易く行うは難しですね。この方法を行うには自我をある程度捨てなければならないため、自意識の薄め度合いにもよりますが自我の強い人間であればあるほど困難です。というのも、自分にとって大事なコミュニティなのに私を殺さなければならない状況は「どうしてその関係性が大事なの?」「そのコミュニティを好きな”自分”を殺してしまっては元も子もないよね?」という矛盾に直面するからです。すなわち、捨てられるコミュニティ以外で器を限りなくデカくするのは難しいということです。


器のデカさが求められる社会

 社会とはそういうものだ、と言われればその通りなのかもしれませんが、あらゆるコミュニティでは私を捨てて、コミュニティに寄与することが求められます。どんなに狭くても、”自分”が好きなコミュニティでも、その共同体から求められるものは公僕という訳です。そういう訳なんで、家庭のような自分が濃くかかわる集団になる程この矛盾は大きく直面することになります。人間は自我という反社会性であり非合理的な性質が強くなり過ぎた生き物であるため、アリの巣のような生活は適さなくなったんですね。自我をMaxに出せる個室の巣と自我をゼロにできる適当な職場、その間にいつでも切り離せる適当なコミュニティを挟むのが、最も自己矛盾の少ない生活形態なのでしょう。これこそ言うは易く行うは難しなんですけどね。


自我と器の両天秤

 これまで、器をデカくする方法について書きましたが、器をデカくするのはあくまでも所属するコミュニティを円滑にするための方法です。所属する"自分"にとって気持ちのいいコミュニティを作るには自我を捨てて集団に寄与するだけでも、逆に自我を100%押し出しても上手くいきません。目的が”自分”にあるのなら、自我を許容できるまで保った上で残りの自我を捨てて集団に寄与する、といったバランスを取ることが大事です。そして、コミュニティの問題は逐一バランスを取らなければならないため厄介である、というのがこの記事の結論です。


余談 今回の記事の経緯

 最近、僕の参加しているコミュニティに問題がちょくちょく生じています。まず、麻雀界隈です。寮内の全自動卓がある寮生によって”意図的に”破壊されました。通常なら即弁償モノですが、問題はその自動卓自体が貰い物であるということと破壊した寮生に全自動卓を責任買いする能力がないことです。額も額だし、破壊者を責めると「全自動卓でやりたがる狭量マン」という扱いを受けるため誰も責めたがらないという現状です。みんなが自分の器に縛られている状態です。

 次に、自治区(僕のよくいるたまり場)です。ここには診断書付きのADHD&アスペ(こっちは診断書ないかも?)の3年生が来ています。彼は汚い食器やゴミを起用スペースに放置する、人に厳しいのに自分に甘い、等の問題が顕在化しているのですがみんな咎めようとしません。これも器に縛られているからです。この件については僕が代表して叱ったのですが、周囲からは「あの人は怒る人だ」というマイナスイメージを持たれてしまい、僕の居心地も少し悪くなっています。 

 これらの問題に直面して、「これらの落としどころはどこなんだろう?」と感じて記事を書くに至りました。僕個人の現状の打開策としては、もう少し器拡張=脱自我 寄りにしてみようかなと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?