「お気持ち重視」否定を「お気持ち重視」で書いてみた。

東京電力福島第一原発事故の避難指示区域について、政府は除染をしていない地域でも避難指示を解除できるようにする方向で最終調整に入った。いまは除染が進んだ地域だけが解除の対象だが、将来人が住まない見通しがあるなど、一定の条件を満たせば、除染なしでも解除して立ち入りを自由にする。
除染して再び人が住める地域に戻す政策に、初めて例外を設けることになる。除染を「国の責務」とした放射性物質汚染対処特措法と矛盾することにもなりかねない。


こういうニュースに、「科学的な正しさや合理性だけでなく、気持ちに寄り添うべきだ」みたいな意見を耳にはする。


でも、私は敢えて、「科学的な正しさや合理性で判断されるべきだ」と思う。そう考えるようになったことにも、理由はある。


仮に「科学的な正しさや合理性を離れた『お気持ち』を表明した」として。それが一体、何になる?

そのやるせなさや複雑な感情を、たくさんの人達に理解して貰えるだなんて、もはや期待していない。せいぜい、その「お気持ち」を、被害者性を政局に使いたい人達に都合良く利用されるだけだ。

理解などされない。理解などされるはずもない感情を理解されると期待して、分かり合えると信じてみたところで、カモにされるだけ。


自分の気持ちを、本意を、他人が簡単に理解し、尊重してくれるなどと思うな。…これはもちろん、自身への自戒の言葉としてだけどね。


まして、もはや東電原発事故から9年以上も経っている。膨大な予備知識や今までの経緯、そして科学的知識を学んだ上で、さらに複雑でハイコンテクストな感情や事情を汲んで「配慮」して貰えるだなんて思わない。

だから、敢えて「お気持ち」を最前面には出さない。



「お気持ち」を科学的な事実よりも前に出そうとしたところで、それは結局、自分達の首を絞めるだけだよ。

そうなってどんどん苦しくなった挙句にどうにもならなくなった後には、「お気持ち」に寄り添ってくれたはずの人達は、とっくに飽きて別の似たようなテーマや運動に夢中になって見向きもしてくれない確信がある。


これまで福島への明らかな非科学的デマや加害行為を証拠付きで示した事実でさえ、黙殺され「無かったこと」にされ続けてきたんだぞ?下手すりゃ恫喝されたりもした。ただ福島に暮らしている一人として、事実と違うことに事実と違うと反論しただけで。


そんな中で、複雑でハイコンテクストで目に見えない「お気持ち」を示したとして。どんな扱いされるかなんて、火を見るより明らかでしょ。


…そう思わせるような扱いを、この9年間、受け続けてきたんだよ。でも、それを判ってもらおうとも、今更思わない。「丁寧なリスクコミュニケーション」なんて、もう、とっくに手遅れだ。いつまで待っても来ない、しかも絵にかいた餅で誰かの命や「お気持ち」は救えない。



みんな、行き場のない自身の「お気持ち」を他人にぶつけるばかり。誰かの「お気持ち」を立てれば、他の誰かの「お気持ち」はその分踏みにじられている。収まるところなんて、ない。平等も、バランス調整なんてものも、ない。踏みにじられる側は、ずっと踏みにじられっぱなしだ。


ならば、科学的な事実や数値という物差しで落としどころをつくってもらった方がいい。その方がずっと公正で、平等で、優しい。



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・・・などと、本当にタイトルの宣言通りに「お気持ち」だけで書くと、それこそ何のことを言っているのか全然ピンとこないでしょうからね。ちょっとだけ最後に具体例を出してみる。


たとえば、この朝日新聞記者のツイートを見てみよう。


かたやカナダの権力者の演説に感動してはいちいち日本をdisり、もう片方はフランスのマスクに涙を流してはいちいち日本をdisる。なんて情緒豊かな方なのだろう。(※個人の感想・お気持ちです)


ではここで、新型コロナウイルスによる人口100万人あたりの死者数の国際比較グラフを出してみましょう。5/17日時点でもっとも多い順から、「フランス」「カナダ」「世界平均」「日本」の順です。

新型コロナ死者数




・・・・・・。 (*´ω`*)



ともあれ。



客観的な結果より「お気持ち」が優先されてしまうことは、とてもアンフェアであり、危ないこと。まして、事実を伝えるのが使命のはずのジャーナリズムにとっては致命的じゃないのかな。(※個人の感想・お気持ちです)



「いくら客観的な成果や証拠、科学的事実を出そうがないがしろにされ『お気持ち』を尊重された側が優遇される。」のが正当化されてしまうのであれば。


・・・それ、不正入試やコネ人事と何か違いますか?
たとえば「成績より出自や肌の色、性別」と置き換えてみたら、それは差別にもなりませんか?


そもそも誰の「お気持ち」を優先させ、代償に他の誰の「お気持ち」を犠牲にさせるのか、誰がどんな基準で決めるのですか?
あいまいな「可哀想ランキング」や感情論で人治的に決めますか?それって、「力こそ正義」や独裁の世界になっちゃうんじゃないですか?報道・ジャーナリズムが、露骨にそれに加担する方向でいいんですか?

そしてなにより、問題解決に向けた最終的な落としどころはどうするんですか? 「お気持ち」を事実より優先させて解決を遅らせるだけ遅らせて、その後どうしてくれるんでしょうか。


たとえばこれまでの他の事例でも。

解決に向けた最終的な落としどころも想定せず、目先の「ええかっこしい」「リップサービス」で現場を混乱させた人が、どんな責任を取れたというのですか。立つ鳥跡を濁しまくって問題を拗れさせるだけさせておしまいでは。

トラストミー?とかもそうだしね。無責任に

夢見させるようなことを言うな





もっとも、こういうのこそが東電原発事故後に散々見せられて、見慣れてきた光景でもあって。


だから、最初の結論に戻る。


こういうニュースに、「科学的な正しさや合理性だけでなく、気持ちに寄り添うべきだ」みたいな意見を耳にはする。


でも、私は敢えて、「科学的な正しさや合理性で判断されるべきだ」と思う。




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なお最後に、一応、おまけとして。

同様の構図である案件で、たとえば最近も話題にされている処理水に対しての私見もここで書いておく。


・東電福島第一原発処理水は、陸上に溜めてさえおけば風評は防げるんですか? 流すも風評、溜めるも風評ではないのですか?

 ・逆に、諸外国と同様に処分できるはずのものを「処理不可能だから溜めておくしかない」かのように思わせることで、さらに新たな風評を招きませんか?

・決断を先送りすることで、これから先に事態をどう好転させていく見込みですか?

・タンクは一基1億円単位でかかります。敷地にも限界があります。どんどん増やしていくお金はどこから出るんですか?

・また、タンクは永続して保管するような設計になっていません。耐震構造でもありません。最終的な処理をせずに溜めておいたものが老朽化や災害で溢れたらどうするんですか?

・「国がなんとかしろ」「東電は何をやっている」とわめけば問題は解決するんですか?

・「もっと丁寧なコミュニケーション、根気強い説明が求められる」とか言いますが、具体的には誰に何をどのくらいどのように説明すれば「丁寧」になりますか。それはいつからいつまで、誰がどのようにアプローチするんですか? ただの精神論だけの先送り、逃げになっていませんか?

・そもそも、県内の当事者はともかくとして。県外からわざわざ強く反対をしてきている人たちは、これまで風評払拭に協力してくれたような、言説が信頼できる人たちですか? その人たちは、なぜ、誰のために熱心に反対をしているようにみえますか?

・「お気持ち」に過度に寄り添うことで、たくさんのお金や労力、時間を浪費して風評をさらに拡大させた挙句に問題の解決も阻害し、結果としてたくさんの「お気持ち」を余計に傷つけることになりませんか?




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