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憧れのヒーロー

2020.12.19

J3最終節の前日。
鳥取に前日入りする新幹線の中で衝撃のニュースを見た。

何度も何度も見返した。
こんなこと信じたくなくて、こんな日が来ることはないって思っていた。

勇気を出して直接連絡すると。

『ありがとう。これからは隼人が子供達に夢を与える番だと思うから頑張ってね。』

本当なんだ…
寿人さんが引退するんだ…

ここでようやく夢じゃないことを知った。
それと同時にどんなサッカー選手であれいずれか引退が来るのだと改めて実感した。

思えば小学校5.6年生の頃。
Jリーグで沢山ゴールを取っている佐藤寿人選手が日本代表に入った。

その時に寿人さんを知り、どうやってゴールを取っているのだろうと興味を寄せたのが始まりだ。

それから時は経ち中学校に入るタイミングでジェフユナイテッド市原・千葉U-15に入れることが決まった。

地元のジェフのエンブレムでプレーできることにとても心が躍ったのを覚えている。

その時に出会ったコーチが寿人さんをジェフユースの時に教えていた人だった。

当時入学の時点で170センチを越えた選手がぞろぞろいたジェフのジュニアユース。
その中で150センチも満たない選手は僕1人だけ。(この写真でそのコーチは不在)

小学校の時はまだ通用していた足の速さも全く通用しない。
大人と子供がサッカーをやっているみたいにすぐ当たり負けする。

でも誰よりもゴールを取る自分を見てそのコーチは

『隼人!寿人とプレースタイルが似てるね!』

そう言ってくれた。
代表選手に似ていると言われて嬉しかった。

その日から〝佐藤寿人〟が僕の中でヒーローとなった。

中学の時はそのコーチとひたすら寿人さんがやっていたというシュート練習などを教わり、ゴールを取るということを磨いていった。

寿人さんがゴールを奪う為にしているオフザボールの動き、目線、シュート、仕草。

全てを見様見真似で真似していった。


雨が降っていたある日。

『雨粒全部避けてみる』

と言って遊んでいたところをそのコーチに見られて

『そんなこと寿人もやってたなー』

なんて言われ、真似してたらこんなところまで似るのかななんて思ったりもした。

高校に入ってからスパイクをhummelに履き替え、半袖手袋で真冬でもプレーをする。

そんなところまで真似するようになっていた。

いつか寿人さんと一緒にプレーがしたい。

そう思いながら、真似をする日々。

高校でも大学でも時間が合えばサンフレの試合を見て、寿人さんがどう動いているのか。

ボールを追わずに寿人さんのオフの動きを注目して見ていた。

テレビではオフザボールが見えないからと、サンフレがアウェイに来る時にアウェイ席で一人でサンフレのユニフォームを着て、寿人さんのタオルマフラーをして、参戦した試合もあった。

ゴール裏で飛び跳ねながら、サンフレや寿人さんの応援歌を歌い、目の前でゴールを決める寿人さんに、よりのめり込んで行ったのを覚えている。

ゴールを取ればコーナーフラッグに行ってゴールパフォーマンスをする。

何から何まで尊敬し、真似をしていた当時の僕はまさしく寿人さんのチャントの『君の瞳に恋してる』であった。

そして、2018年。
ようやくJ3ではあるが僕もJリーガーになった。

その年の誕生日に今の奥さんからサプライズで寿人さんからの誕生日メッセージをもらい。

その時に

『いつか同じピッチでプレーできることを楽しみにしています。』


と言っていただけて涙が止まらなかった。

何が何でも一緒にプレーする。
それが僕の目標となった。

1年間1試合も出れなかった自分に悔しさを滲ませながら、その言葉だけを頼りに頑張った。

そして翌年Jリーグ初出場、初ゴール。

本当は初ゴールの時にパフォーマンスをしたかったが9節の神奈川ダービーの大事な試合でゴールを取り、初めてJリーグでコーナーフラッグに走っていった。

2019.8.25
待ちに待った瞬間がやってきた。

ジェフ千葉との練習試合が行われたのだ。

練習試合で45分という時間ではあったが同じスパイクで同じピッチに立てた時、震えが止まらなかった。

ずっと憧れ続けた寿人さんと一緒にプレーができる。
相手チームではあるけれど、ピッチ内で学べるこの上ない時間だった。

しかも初めて声をかけていただいた一言が。

『隼人二桁行った?』

流石の一言だった。
こうやってゴールという結果だけを求めてきたのだと思った。

それと同時に見ていただけていたんだと嬉しく思った。

たった一言でさらに憧れにさせるのはずるいと思ったし、実際にゴールも取られて、さすがとしか言いようがなかった。

いつかこんな選手としても、人間としても魅力的な選手になりたい。
一瞬でそう思わせた。

それと同時にようやくプロとしてのスタートラインに立った気がした。
その時から僕は僕なりの選手像を作らなければと強く思った。

その時の気持ちを綴ったnoteを貼っておくので、ぜひ見てほしい。

去年の年始にはジェフの初蹴りで、少しお話をさせてもらい色んなことを聞くことができた。

そして、昨年の12.19。
寿人さんが引退の表明をした。

翌日のJリーグ。
なんとしてもゴールを取りゴールパフォーマンスをして寿人さんに掲げたい。

その一心で試合に取り組みなんとかゴール。

負けている状況だったのでコーナーフラッグまで行くことはできなかったけど、こっそり11番のセレブレーションを行った。

この日のゴールで11得点目。
2年連続2桁得点。

何か運命的に感じる引退発表の次の日にゴールをして11ゴール目。

もちろん熊本で選んだ背番号は『11』

途中でできたゴールパフォーマンスも。

寿人さんの後を追うように突き進んできた僕のサッカー人生。

もう先を照らしてくれる人はいない。
ここからは自分の道。

そして今年のオフに初めて寿人さんと食事をする機会をいただいた。

1/11.11:00
どんだけ〝11〟が好きなんだよって思われますが、本当に偶然(笑)

いつものようにフランクに話してくださった寿人さん。
ガチガチに緊張していた僕も少しずつ解れていき、色んなことが聞けた。

この日に話したことは僕の心の中にしまっておくが、大切なことを何点かここに記したいと思う。

1つ目に引退の時にも話していたが、誰よりもゴールという結果で自分を表現してきたのだなということ。

まだまだできる。
僕もそう思った。

でも、チームにゴールで貢献することこそがストライカーと言わんばかりに結果に拘っていた。

あの年齢まで第一線で活躍できるのは簡単なことじゃない。
相当な努力とサッカーに対する姿勢を色々と学ばせていただいた。

2つ目に人間性
なぜあそこまでどのチームの選手、サポーターからも愛されるのか。

それを僕は肌で感じることができた。

まず誰に対しても感謝を忘れないということ。
どの選手にも、ファンサポーターにも、リーグにも、そしてサッカーにも感謝を忘れずに愛していたんだと思う。

寿人さんは常に自分だったら何ができるのかを考えて動いていた。

ピッチ内だけがプロ選手ではない。
ピッチ外でも身につけるもの、行動全てで模範になり、夢を与える。

これをまさしく実行していたと思う。

災害があればその地域のために。
子供達の未来のために。

自分の価値を自分でわかっているからこそ、何をしたらいいのかを考えトライし続けていた。

僕はこれこそがあの年齢までサッカーができる要因につながっていると思う。

そして最後になぜ寿人さんがあれほどまでに子供達の憧れの的にになるのか

僕なりの答えが再現性と有言実行能力だ。

寿人さんの本『小さくても勝てる』にもあるように小さくても、スピードやパワーがすごいあるわけでなくても考えて得点を取り続けてきたように、多くの学生や子供たちが同じような悩みやコンプレックスを抱いている。

僕もそのうちの一人だった。

そんな選手が得点王や、12年連続で2桁ゴールを取る過程を見せられたら、夢や希望を持ってしまう。

僕の夢である『夢を追い続けられる環境をつくる』ということ。
その一つに再現性と有言実行能力は欠かせない。

今僕は沢山のドリームサポーターと共に夢に向かって走っている。

大旗を振るだけ振るのではなくしっかりと結果を出し続けなければいけないし、僕でもできたのであれば、他の人でもできるという再現性を作らなければ、多くの人が夢を追い続ける環境は作れない。

寿人さんが〝今後の子供たちがより良い環境でサッカーや人生を送ること〟を考えているのと同じように、僕も次世代、その次の世代の子供たちからいつの日か『ありがとう』と言われる未来を創りたい。

そして今年は寿人さんからある約束をお願いされた。
それは…

『熊本をJ2に昇格させて、織田さんを漢にする』

ということ。
※寿人さんを広島に呼んだのが今熊本のGMである織田さん。
僕のことを呼んでくれたのも織田さん。

この約束を達成する為に今年1年間も熊本の為に死に物狂いで闘おうと思う。

改めて寿人さん。
21年の現役生活お疲れ様でした。

寿人さんが今後のキャリアも変わらずご活躍されることを願っています。

いつかお仕事でご一緒させてください。

いつまでも僕のヒーローです。

では最後にこれで締めさせていただきます。

さーとうひさと
ラララララーラ

さとうひさと
ラララララーラ

さとうひさと
ララーラーラララ

浅川隼人

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