見出し画像

文章を書きたくなかった文系大学生がnoteを書き始めた理由

”良い文章”とはどんな文章だろう。

中学生のとき、”良い文章”とは”国語の添削で赤ペンがなるべく入らない文章”だと思ってから、私は文章を書かなくなった。

正確に言うと、誰かに読んでもらいたいと思える文章が書けなくなった。読む人に評価されない、読みづらいと思われるかもしれない文章を書くくらいなら、文章を人前に出すのは必要最低限にしようと決めた。だって、見えない誰かに怯えながら文章を書きたくないから。

しかし、私には今、noteで文章を書く理由がある。

それは、自分が感じたありのままの言葉で、誰かのモヤモヤに勇気を与えたいという理由だ。

私は、誰かを楽しませたり、笑わせることが正直得意ではない。嫌いなのではなく、いまいち感覚が掴めないのである。

面白いことを言おうとするとボケが難しすぎて相手に伝わらないし、かといって何も考えないと面白いことはこれっぽっちも言えない。自然体の私は、ほとんど自分から話し始めないし、何なら口を開いても何一つボケられない人間だと思う。

その証拠に、友達といて無言の時間が続くととりあえず笑ってごまかして、相手から至って真面目に「どうしてニヤニヤしているの?」と聞かれる。無言の時間は辛いけど、話し始めて面白くなりそうなネタもない。だから、笑っていい感じに場を繋ごうとするのが私の得意技だ。

しかしある日、そんな素の自分の発言に、「めぐの視点って面白いよなーその角度で考えるのかー」と言われることに気づいた。

funnyは不得意だけどinterestingは得意かもしれない

年に数回見るお笑い番組。

中学生くらいの時までは、笑い転げていた記憶があるけれど、いつの間にか周りの笑声についていけない自分がいた。

半年前、お笑い好きな友人に触発されて2年ぶりに見たお笑い番組。ちゃんと面白いと思える芸人さんがいた。その芸人さんは、ただ変なことを言って笑いを取るのではなく、3秒考えてじわじわ面白いinterestingなネタを話していた。

笑いとは、奇抜さだけではない。頭を使って味わうから生まれる笑いもある。つまり、funnyではなくinterestingな面白さに興味を持っても良いのだと気づいたとき、私は誰かを笑わせることを諦めた。

諦めたというより、自分を自分で縛っていた”笑わせるのが良いこと”という考え方を諦めることができたのだ。

それからというもの、聞く、話す、読む、そして書くときも、「面白くしよう」と考えることを辞めた。ただ、自分が感じるままに、話したいように書きたいように、言葉を出すようにした。

元々、思ったことをストレートに表現するタイプだから、今まで所属したコミュニティでは「毒舌キャラ」になることもあった。「毒舌キャラ」として強めの言葉遣いはご愛敬と甘えていた一方、表現で傷つけている誰かを想像しながら日々生きていたように思う。

言葉は紙だ

自由自在に形を変え、人と心を通ずるのに便利な道具にもなれば、紙端のように人の心に切り傷をつける時もある。

扱い方によって、味方にも敵にもなる。なるべくストレスのない関わり方をするために、ありのままの強い気持ちを言葉にすることから逃げてしまうのかもしれない。

他者を傷つけないように、言葉を慎重に扱えば扱うほど、自分を傷つけていないだろうか

評価されなくても、受け入れられなくても、本当に伝えたい言葉で書く文章。それが”良い文章”だと私は思う。

ちょっとハードな言葉だとしても、それを文章に込めた勇気が、他の誰かを勇気づけるかもしれない。だから私は、創り手の正解がないnoteという場で、いつか誰かに勇気を与えられると信じて、言葉を置き続けたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?