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【小説】月をのむ

月を飲み込んだ。だから来てよ。

久々にかかってきた通話は、そこで切れてしまった。彼女はいつも、タイミングが悪い。連絡を寄越すのはだいたい深夜だし、ゼミに顔を出すのは決まって試験前だった。そして明日は、僕の引っ越しときている。

それでも僕はスクーターにまたがり、10キロ先の彼女のアパートを目指す。夜にぽつんと浮かぶ部屋の灯りを思い浮かべながら。頬にあたる風が冷たくて、数週間前まで側にあった夏が全部嘘みたいに思えた。

***

「で、何を飲んだって?」
「満月。あたしのお腹の中にいんの」

彼女が笑いながら腹部をなでる。満月どころか、脂肪も入っていないんじゃと心配になるくらい平らで薄っぺらなお腹だ。

「せめてツマミと呑みなよ。月じゃなくても胃に悪い」

畳に転がる一升瓶を避けて座る。六畳一間のクーラーなしの彼女の部屋は、大学の友人たちのなかでも群を抜いてボロかった。本が山積みになった床も、彼女がお猪口を片手に寄りかかる窓の欄干も、いつ抜け落ちても不思議じゃないくらいの音できしむ。

「寝るだけの場所だからこれでいい」が彼女の口癖で、その言葉通り彼女はしょっちゅういなくなった。旅とかバイトとか取材とか理由をつけては知らない土地に行き、星の砂とか鮭とばとか、よくわからない基準で選ばれたお土産を理由に誰かを呼び出してはこの部屋で酒を飲んだ。

浴びるだけ飲もうとも正気を失わないのが彼女の凄さで、翌朝になると交わした会話を一ミリも覚えていないのがタチの悪いとこだった。

「なんでまた飲んだりしたの、月」

欄干に腰かけているせいで見上げる位置にいる彼女の髪が、アゴのラインを隠すくらい伸びていることに気づく。前に会った夜は桜が散っていた。ということは、まるっとひと夏顔を合わせなかったことになる。

「しばらく離島にいたんだけど暑くて」

僕の問いを流して彼女はお猪口に酒を注ぐ。なるほど、僕のすぐ脇に投げ出された足には、くっきりとビーサンの跡がついている。

「星がすごくて降るほどあってさ」
「星の砂ならもう3つあるから遠慮しとくよ」

彼女は夏に姿を消すたびに、僕に星の砂をくれた。

「月って、毎年4センチ地球から離れていくの。ひとりでそのことを考えたら居ても立っても居られなくなって、酒と一緒に飲み干しちゃった」

今年の春、かねてから危ぶまれていたとおり彼女は留年した。文学部で暇があれば何かを書いていても、講義にろくすっぽ出席しなかったから当然の結果ともいえる。馬鹿をやってた仲間は卒業して散り散りになったけれど、会社の場所がさほど遠くないという理由で僕はまだ彼女の射程圏内に残り続けていた。

彼女の部屋の裸電球は、こんなに貧相だったかなと思う。一つの季節が過ぎて、僕は毎朝難なくネクタイを締められるようになった。強烈な香りのするブランデーの飲み方を覚えている途中だ。でもこの部屋に来ると、誰が注いだかもわからないコップの酒を飲み交わした喧騒が祭囃子のように頭をよぎる。

彼女の足の裏の曲線は相変わらずきれいで、色を塗った爪は初めてみた。ぼやけていく思い出と、ふと蘇る感情。彼女が月を飲み込んだ衝動が、わかるような気がする。

「どんな気分? 月がお腹のなかにあるって」
「なんかぽかぽかする。どこにもいかないでねって抱きしめてる感じ」
「月はどこにもいかないよ」

近いときで35万キロ、遠くなっても40万キロ。地球との現実味のない距離を揺れ動こうと、ずっとずっとそこにいるじゃないか。

そう言おうとしてやめた。まだ封をしていないダンボールたちは、明日には県境を越えて運ばれていく。僕は本配属という理由で、スクーターでは駆けつけられないくらい遠くにいく。

声だって文字だって映像だって、つながる手段はいくらでもある。でも、彼女の細い足首が僕の指先に触れるか触れないかの微妙な空気の焦れた感じや、彼女が笑うたびに溶けていく僕の胸のうちの淋しさを思うと、会うことが持つ意味の強さにたじろいでしまう。離れても側にいられるなんて、嘘じゃないか。

「でも、月がないと困る人もいるんだろう?」
「たぶんね」

僕も欄干に手をかけて空を仰ぐ。しょぼくれた町は見事にまっくらで月は見えない。

「月ってどうやって返すの」

僕は尋ねる。秋の夜風がいい匂いなのは、彼女の香りが混ざっているからだ。

「キスすれば戻る」
「キスすれば」

僕は彼女の目を見た。お伽話を語るような彼女の口ぶりはさほど酔っているように思えない。もしかしたら、明日になっても今日を覚えていてくれるかもしれないと、淡い期待に足元がぐらつく。

「それって誰でもいいの? たとえば――」
「よくない。君がいい」

僕の声に彼女の声が被さって、強い光が耳元で弾けた。月の引力が僕の中心に作用する。彼女のうすい耳たぶに触れようとしたとき、手元のお猪口に真珠のような白い月が浮かぶのが目に入った。

困ったような表情で彼女が笑う。彼女はいつも、ちょっとタイミングが悪い。でも、潮が満ちるように僕たちの間に何が溢れた。

***

あれから3回、本屋で彼女の名前を見かけた。その間に僕は、5回引っ越しをしてどの町にもそれなりに馴染んだ。

夏が終わったあとの満月の時期に、何度か窓辺で月を飲み干そうとしたことがある。手のひらサイズのお猪口に月を映すのは案外難しくて、一度たりとも成功しなかった。

人生には、ごうごうといくつもの川が流れている。若さとか距離とかどちらかに恋人がいるとかいないとか、そんな細い川がぴったりと重なる瞬間は思っている以上に得難い。わかっているくせに、過ぎてから本当にそうだったなんて気づく。

窓の外に浮かぶ大きな満月を眺めながら、グラスにビールを注ぐ。白い泡ではさすがに月は捕まえられない。あいにく家に日本酒もウイスキーも切らしていた。僕もたいがい、タイミングの悪い男なのだ。

月の光がグラスに届く。あのボロいアパートも彼女のいた窓辺の輪郭も、ゆっくりとだけれど着実に遠ざかっていく。飲み干した液体は、月と同じ色をしていた。


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こちらのコンテストの応募作品です。




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