人とことばと

言葉って、文章って、生きている人のためのものなのかな。読むのも書くのも、生きている人だから。


インターネットで知り合い、交流していた方の訃報を聞いた。悲しい、悲しいねって共通の友人と言葉を交わす。かなしい。

私がふみぐらさんを知ったのは、2018年の2月頃。当時noteで行われていた「#ファーストデートの思い出」という企画経由で、ふみぐらさんのnoteを読んだのがはじまりだった。

最初に思ったのは「文章うまいなあ」だった(後で知ったことだけど、その道のベテランとも呼べる方に、なんて安直な感想を抱くのだ)。ふみぐらさんの言葉で描かれる情景が、私はとても好きだった。

その頃、ふみぐらさんは毎日noteを更新されていて、ニュージーランドの大体夜に公開されるので、タイムラインにふみぐらさんのアイコンが見えるとうきうきしながら読みに行った(歯磨きをしながら読むことが多かったと思う)。

文章だけでその人を知った気になるな、という突っ込みを自分自身にいれつつ、ふみぐらさんの書く文章は、強い言葉を使わずに、曖昧さや複雑なものを思慮深さをもって受け入れているような不思議な魅力があって、それはまるで信州の山の稜線に向かいながら田んぼに挟まれた道をゆっくり散歩しているような、また読みたいなという気持ちにさせてくれるものだった。

雨どいに詰まった猫とか表参道のパンダとか、通ったことのない路地裏を覗くお話も、桜の花の香りのような、いつもの風景の見え方が少し変わる文章も、いま読み返しても好きだと思う。

一度だけ実際にお会いしたことがある。2019年11月の東京駅八重洲地下街にある喫茶店で、テーブルをはさんで向かいに座るふみぐらさんが「へえーそうなんですか」って打つ相槌や、「じゃ僕はここで」と打ち合わせのために改札に向かって歩いていく姿は、文章でイメージしていた「ふみぐらさん」の輪郭に重なって立体的になって、私のなかに残っている。


悲しい知らせを聞いてから、「悲しい」の気持ちが、浮かんだり遠くにいったりして、自分の中に漂っているのがわかる。仕事をして、歯列矯正中で流動食しか受け付けない娘のためにスープを作って、Netflixで映画見て、洗濯物畳んで食器を洗って。生活の合間に、悲しいがふと差し込まれる。

寝入った娘の隣で、ふみぐらさんとのこれまでのやり取りとか、ふみぐらさんのnoteを読み返したりして、頭のなかで言葉にして考えていたら、涙がぼろぼろと出てきた。ああ、自分のなかに、こんな風な悲しみがあるのだなと思った。


亡くなった人のことを想うと、その人の周りに花が降るという。

ふみぐらさんの周りに降る花ってどんな花だろう。好きな花は、存じ上げない。なんとなくのイメージで、トマトの花とかズッキーニの花を見つけたら喜びそうな気がする。noteに猫の話をたくさん書いていた猫好きだから、いっそ猫が降ってもいいんじゃないか。みんなに親しまれていたヤギのお姿であれば、青々とした草が周りに茂るといいなあ。

旅立った人を想うことは、その人を近くに感じることなのかもしれない。


肉体から解放されたふみぐらさんは、ふわふわとどこかを漂っているのかしら。誰かが呑みながら書いているときは、鮭場のカウンターの端っこのヤギさんの指定席で、言葉を食んでいるような気がする。たまに常連客と会話をして、それを見た新しいお客さんが「えっ、しゃべるんですね!」ってびっくりするの。

楽しかった思い出をもとに、そんなことを考える。それからどこかで満開の桜を見たら、たぶん私はふみぐらさんを思い出す。

無音のフィルム映像みたいに、静かに、だけどそこにはどこかの誰かの幸せそうな時間と光が流れてるみたいに。

もし桜の花に香りがあったら


出会えてよかったです。たくさん、ありがとうございました。ふみぐらさんのご冥福を心からお祈りします。



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もし、同じような悲しみを抱いている方が、ここまで読んで、何か書かなければいけないように感じても、どうか無理に悲しみを言葉になさらないでください。それぞれのやり方で、自分の悲しみに寄り添うのがいいんじゃないかと思います。


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