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女の子の色も男の子の色もないよね

そのむかし、ランドセルは赤と黒しかなかった。

私が産まれた時代は、女の子は赤を背負い、男の子の色は黒だった。

それから30年ばかり過ぎて、ランドセルもカラフルになった。ネットで流れてくる写真を見ると、デザインや機能性にこだわったものもあり、ずいぶんと楽しそうだ。

うちの娘なら、何色を選ぶだろう。

まあ、何色であろうと、好きな色を選ぶのがいいと思う。

親として、子どもの意見を尊重し、旧来のジェンダー感を押し付けるのは避けたい、みたいなことを考えている。

私自身、移民の国に住んでいる。そうでなくとも、ネットを通じて個人の多様な意見が可視化される時代だ。「偏見」とか「押しつけ」みたいなのには、敏感でいたい。

カッコつけてるみたいだけど、日々のニュースを見ながら、「うんうん、私、旧来のランドセル赤黒の価値観からアップデートできてるわ」ぐらいに考えていた

でもどうだろう。本当に、私の価値観はいまの時代についていってるのだろうか? 

我が家には、レゴが20キロぐらいある。

日曜日、私はその中から娘のためにパステルカラーのピースを探していた。

レゴはシリーズごとに、使われているピースの色に特徴がある。おなじ青でも、シティシリーズの飛行機は、はっきりとした青。レゴフレンズのアイスクリームショップは、水色に近い淡い青だ。

ちなみに1980年代、レゴのグレーは1色しかなかったらしい。その後、微妙に違う4色展開となり、いまは昔の1色が廃盤となって3色になっている。

たくさんある色のなかでも、娘が好きなのはピンク、紫、水色、クリームっぽい黄色。ディズニープリンセスのドレスのような色合いが大好きだ。

「お母さん、この色探して!」と頼まれるので、ざかざか20キロの山のなかからピースをより分けていた。

そこへ、やってくる娘。

「お母さん、なにしてるの?」

自分で頼んだことも忘れて、中腰ではいつくばってレゴをあさる母に話しかけてくる。

「娘ちゃんのレゴ探してるんだよ。女の子の色、好きでしょ」

何気なく発した一言だった。それに、おなじように何気なく返す娘。

「女の子の色も男の子の色も、ないんだよ」

ハッとした。

なんだかフォローしなければいけない気分になって、「ああ、そうだね、女の子の色じゃなかった、パステルカラー?こんなやわらかい色が好きでしょ?」と早口で話しかけたのだけれど、娘は自分の好きなピンク色を数個見つけると、子ども部屋に戻っていった。

女の子の色も、男の子の色も、ない。

おそらく、そう言った娘に、深い意図はないだろう。いつも学校で耳にしている言葉を、口にしただけだと思う。だからこそ、それが娘の中の「当たり前」の感覚なのかもしれない。

私が子どもの頃、女の子のランドセルは赤で、男の子のランドセルは黒だった。戦隊モノで、ピンクは必ず女性だ。

個人の好きな色云々の前に、「性別で区別された色」という概念が、私の中に確実に存在しているではないか。しかも、私はその概念に無自覚である。意識せずに、「女の子の色」という言葉を口にした。

旧来の古臭い価値観を娘の一言で見透かされたようで、内心焦ったのだ。

祖父のことを思い出していた。

米農家を営んでいた祖父は、細い体ながら力があり、いつも真っ黒に日に焼けていた。縁側で煙草を吸い、アマガエルを捕まえて井戸水につける幼い私たち兄弟を見つけると、「悪さするなよ」と叱る、ちょっと怖い存在だった。

戦争に行って帰ってきた。その話を祖父から聞いたことはない。二人の息子と一人の娘がおり、その娘が私の母である。息子の一人は職を転々して農家を継ぎ、もう一人は建築家になった。母は田舎の米農家では仕事がなく、集団就職で上京した。

夏休みになると、1週間ほど帰省するのが我が家の恒例だった。中学生ともなると、宿題がある。ある日縁側で数学の宿題を解いていると、祖父がフラッとやってきた。

「なんでえ、おなごが勉強なんかして」

祖父は何気なく、そんなことを言った。私はそれに、ひどく腹を立てた。今の時代、女とか男とかないんだ。女が勉強して大学にいくとか当たり前なんだと、そんなことを言い返したような気がする。

祖父がそのあとなんて言ったのか、記憶にない。「そうかい」とだけ残して、煙草を吸いにいったのかもしれない。それから、勉強していて何かを言われることはなかった。

ああ、私もあのときの祖父の側に、ずいぶん近くなったのだなと思った。

祖父が、極端な男尊女卑の考えを持っていたわけではないと思う。私は男女含めた三兄弟だったけれど、兄と妹をえこひいきするとか、明確に区別するとか、そんなことはなかった。

ただ黙って日本酒を飲み、煙草を吸って、水戸黄門を楽しみにするじいさまだった。

進学させるお金もない、高校を卒業すれば女性は就職するもの。それが普通の価値観で育ったじいさまだった。

すべての古い価値観が悪いというわけではない。新しいものが生まれれば、なにかは古くなる。

でも、ときとしてその人の「普通」は、本当に無意識に顔をだす。そして、無自覚に誰かを傷つけたり、怒らせたりする。


私の娘は、2013年に生まれた。私と30歳も年が離れている。生まれたときから、iPhoneとNetflixがあるのが当たり前の世代だ。多様な国籍の友達を持ち、同性が結婚できる国に住んでいる。

私が抱く普通と、娘が抱く普通は、確実に違いを持つだろう。その差に気づいたとき、私は自分の持っている価値観を塗り替えることができるのだろうか。そもそも、誰かを傷つける前にその差に気づけるのだろうか。

女の子の色もなく、男の子の色もなく、カラフルに輝く世界を子どもたちは歩いていく。

その姿をまぶしいと見つめるだけでなく、新しい色を自分で塗れる、そんな大人で居続けたいなあ。できるかなあと、娘のお気に入りの色のレゴを拾いながら思ったりした。


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