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大きくなる

娘が6歳になった。

いや、2週間ほど前になっていたのだけど。なんだか、「6歳になった娘」を私の中で飲み込むのに時間がかかった。5歳の娘は、もういないんだなって。

一言断っておくと、この気持ちは、「さみしい」じゃないのよ。子どもの成長は、いつだって喜ばしいから。

私が寂しくなるのは、写真や動画の中の小さな娘を見たときだ。舌足らずな言葉で不器用にスプーンを握る手。よたよたと一歩ずつ地面を踏む足。あのとき、余裕がなくて、必死で、疲れて、見えなかった娘の可愛さに出会うと、この手を通り過ぎていったものと対峙するようで胸が痛くなる。

その痛みとは違うこの気持ち。「ああ、本当に大きくなるんだなあ」って。いつも当たり前のように目にしている、奇跡を思う。

5歳からの1年間で、娘はずいぶん大きくなった。

私たちの住むニュージーランドでは、5歳の誕生日が一つの節目。なぜなら、小学校に入学するタイミングだからだ。娘の初登校は昨年の9月3日。学校に送り(登校班はない)教室で私と別れるとき、娘はいつも泣いていた。2か月間ぐらい、毎日続いたかな。

それがいまや。教室につくなり、友だちのもとへ駆けだしていく。「あ、忘れてた」ぐらいの勢いで、私にハグをし「キス!」と催促する。お別れの挨拶が終わると、あとは遊びへ一目散。

ああ、教室の中に、安心できる居場所ができたんだなって思う。

大きくなっていく。

「抱っこ」ってたまに寝起きに言うけれど。もうそんなに頻繁にしない。抱っこすると、頭も足もびょーんって飛び出しちゃう。

朝起きるときだって、絶対「お母さんと一緒」だったのに。今は、夫が先に起きていると、娘も廊下を歩いて一人でリビングに向かう。寝ぼけた母を寝室に残して。

英語の本が読めるようになって、ひらがなを書いたり読んだりもできて、お手伝いでお皿を洗って、はじめてのお小遣いでリボンも買って。

いくらnoteに書き残しても、ぽろぽろ忘れちゃうくらい、娘は変わっていく。大きくなる。少しずつ、着実にこの手を離れていくのは、「子どもは大きくなるんだぞ」って、親に心の準備をさせるためなんだろうか。

泣くしかできなかったのに、寝ることすら上手にできなかったのに。あの赤ちゃんが、こんなに大きくなったなんて。振り返った日々を思うと、この子が幸せでありますようになんて、愚かにも願ってしまう。

この先、お友だちと喧嘩するかもしれない。チクチク心にトゲが刺さる嫌なことがあるかもしれない。しくしく泣く夜もあるかもしれない。

私ができるのは、あったかいご飯と安心できる居場所を用意して待っているだけになる。そんなときがくる。親でなくても、信頼できる大人を、友達を、娘がつくれるように手伝うのが、これからできる親の仕事かなと思う。

娘が泣いていたら、私も悲しい。でも、娘の悲しみと私の悲しみは別物だ。私は自分の悲しみを自分で処理するから、子どもは心配しなくていいんだよって言いたい。親が悲しむから、心配かけるからって、なにかを我慢することないんだよって伝えていきたい。

そうやって「一人で大きくなった」みたいな顔をして、娘には前だけむいて歩いていってほしい。


6年前、13時間の陣痛を経てこの世に生まれた娘は、泣き声を上げる前にぱっと天井を見上げて「ここはどこ?」みたいな顔をしていた。小さな身体が冷えないようにと私の胸に抱いたとき、「もうこれで十分だなあ」と思った。

生まれてきてくれて、それだけでよかった。

毎日のように、可愛い仕草や言葉で幸せをもらっているのは、親の私のほうだ。つい、娘に笑っていて欲しい、なんて幸せを願ってしまうけれど。こんなに満ち足りた子になにかを期待すること自体が、そぐわないことに思えてしまう。

そんな親の想いなんて知らずに、どんどん外の世界とつながっていって。

娘が、今日も大きくなって、私はとてもうれしいから。





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