「東日本大震災被災者 うざい」 がサジェストされる社会

阪神淡路大震災から25年目の1月17日が終わり、全く別のことについて書こうといろいろなサイトを観ていた矢先、Googleのサジェストにこんな文字が踊った。

「東日本大震災被災者 うざい」

最初は何か検索エンジンの技術的な間違いで表示されたのかと思い、クリックしてみると−

地獄だった。

直接の被災者でなくとも、東日本大震災をリアルタイムで経験している現在の日本人にとって、3月11日以降に東北で起こった出来事は間違いなく悲劇で、語弊はあるかもしれないが被災者は同情され守られるべき存在であることは当たり前だと思っていた。

思っていた。

しかし世の中はどうも100%そうではないらしい。被災者を当たり前のようにバッシングする人間がいることを、私は想像すらしていなかった。

そういうニュースを全く見聞きしていなかったわけではない。しかしそれは「悪意なしの悪」、平たく言えば冗談で言ったつもりが傷つけていたり、誤解が生んだ悲劇だったりという理解だった。

正直、件のツイートやまとめサイトは二度と見たくないので引用しない。見るのもオススメしない。できれば削除してほしい。

具体的には「震災から数年経っているのに自立しない仮設入居者はクズ、仮設住宅を壊して働かせろ」とか、「被災者は悲劇の主人公ぶってる税金泥棒」などの自己責任論や、毎年3月11日前後の報道に対して「お涙頂戴」とか「感動ポルノ」とか、「被災者はマスコミの餌」とか、ひどいものは「暗い特集は見たくない」とか。

書いているだけで苦しくなるような言葉ばかりで、よくこんな言葉を匿名とはいえ書いて発信できるなと呆れた。中には有名なツイッターユーザーもおり、自分もかつてそのユーザーの他のツイートをみて笑っていただけに驚いた。

言葉を選ばずに言えば、この連中はバカだ。

これは後々他の記事で書こうと思っているが、バカというのはすなわち想像力と常識が欠如している人間のことだと考えている。

想像力は、言い換えれば自分以外の立場やその他の状況を想定できるスキルのことだ。被災者に対する自己責任論のツイートを書いたユーザーは、おそらく被災者でもないし、健康に働ける状態なのだろう。しかし家も家族も故郷も流されて、何もなくなった人が数年経ったからと言って「はいそうですか」と生活できるのか。それはもちろん単に経済的な問題や身体の健康ではなく、精神的なものを多分に含む。

また「被災弱者」という言葉が示すように、東日本大震災に限らず、阪神淡路でも、熊本でも、西日本豪雨でも、台風でも、重篤な被害を受けたり亡くなったりした人の中で、高齢者や障害者の割合は他よりもはるかに高い。そのような人たちは被災後の生活復帰が通常に比べ何倍も困難で、多くの支援を必要とする、つまり当然より多くの税金が必要であることを想像することがそんなに難しいだろうか。それすらも自己責任と切り捨ててしまうのか。スタートラインがなるべく公平になるように税金を使って弱者を支援する「富の再配分」という政治経済の基礎の基礎すら理解できないのだろうか。

少なくとも私は自己責任論とは、他人のせいにしないということだと認識している。だがこのような事例や最近の自己責任論の跋扈を見ていると、どうしても矛盾しまくっているように見える。概ね自己責任論は制度や社会に対して要求する側にぶつけられることが多い。(大阪の私立高校無償化に関する橋下徹の発言など)。制度に不備があるから不利益を被っているのに、その結果が自己責任というのは論理的に結びつかない。さらに言えば、自己責任論をぶつける側は体制やマジョリティの代弁者として相手を叩いているが、それこそ「他人のせい」ではないのか、と思う。

自分が代弁している社会や制度の問題を顧みず、被災者が悪い、貧困者が悪いというのは結局のところ大義名分や「リアリズム」という名の空理空論、あるいは感情論や綺麗事で責任逃れをしているだけなのだ。そうすることで自分は責任を取らなくて済む上に安全な場所から下の人間を思う存分叩ける。陰湿で卑屈なインターネットユーザーが一番好み、得意とするところだ。

また大きなニュースでは必ずと言っていいほど出てくるマスコミ叩きについても、今後まとめたいと思っているが、この原理は安易に悪者を見つけて叩いて安心したい気持ちやわかりやすい反権威主義(反エリート主義)だと考えている。そしてそれに拍車をかけたのは「常識の欠如」だと思う。「前提」や「建前」が通用しなくなっていると言い換えてもいい。具体的に考えよう。

殺人は悪だ。これは誰もが同意する(と思う)。だから殺人事件が起こればマスコミは被害者=善人、加害者=悪人として報道する。そして世論もそのように考える。しかし、世の中の99%がそのような風潮になった時、全く逆の1%の見方を示すのもマスコミの役割である。つまり、加害者の生い立ちや事件当時の状況から、止むに止まれぬ理由があったりした場合、その見方から報道することもあるのだ。

そのような「逆説」が可能なのは「殺人は悪」という前提が共有されているからだ。ところが、昨今はAという前提と逆の見方をするBを報道すれば、マスコミがAという前提を無視している、殺人犯を擁護している、国民の考え方と違っているというバッシングをされる。そういう視聴者ばかりなので、今のテレビはワイドショーを中心にどこも横並びの伝え方か、くだらない芸能スキャンダルや隣国の話題しかできなくなっている。

そのようなマスコミのスタンスを叩くことは簡単で、さも巨悪のエリートを叩きのめしているようで気分がいいだろう。ありていに言えば、わかりやすい敵をつくることで安心しているだけなのに。これは京アニの件が顕著だっと思う。

話を元に戻すと、ツイートを書いたりまとめたりした人はおそらく深くは考えていないだろう。なんとなくうざい、なんとなくマスコミは胡散臭い、タブーを破れば面白い、世間が同情している相手を叩いて溜飲を下げる。だが、この際はっきり言っておきたい。それ、自分がバカだと言って回ってるのと一緒ですよと。もっとわかりやすくいえば、めちゃくちゃダサいですよと。

少なくとも、あれだけの大災害を経て、まもなく震災から9年を迎える今でも生活が再建できない被災者がいるこの国で罷り間違っても「東日本大震災被災者 うざい」という言葉は口にしてはならない。そんな当たり前すぎて誰も言わないようなモラルや倫理すら失った人間が、大多数ではないにしても確かに存在することを知った今日、25年目の阪神大震災の日をこんな気分で終わるのがとても残念だ。


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