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【 SPORTSMEN IN TOIN CAMPUS 】 田中暢子編1

         桐蔭横浜大学教授 田中暢子

桐蔭横浜大学で教授を勤める田中陽子さんは、陸上部で活躍していた14歳の時に骨肉腫が原因で歩行困難となった。その後、現在の桐蔭横浜大学スポーツ健康政策学部の教授の地位に就いた。
スポーツ系の大学では、おそらく初めての歩行障害のある教員である。

2013年春。
田中暢子は、短期留学生を引率し、今年もロンドンにやってきた。
駅構内を車椅子で移動している暢子を見た駅員が、「歩くことは出来る?」「階段は昇降できる?」と聞いてきてびっくりした。
2012年まではこんなことはまず聞かれなかった。
「歩けます。階段も時間がかかりますが可能です」
そう応えると、駅員はすぐに
「じゃあ、最寄りの駅までタクシーで行って、その駅から電車に乗ればいいよ。その方が目的地に1時間くらい早く着けるし、第一、その方がずっと安く済むからね」
とアドバイスしてくれた。
うわあ、ロンドンも変わったなあと思う。
2012年のロンドンオリンピック以前はそうではなかった。
暢子が杖をついて、大きなスーツケースを持って移動していた時だ。駅に五段くらいの階段があり困っていた。ここを自力でスーツケースを持って上がるのは大変だ。
その時、目の前に駅員が現れた。「助かった」と思い、手伝ってほしいと頼むと「俺の仕事じゃない」と断られてしまった。
結局、自分でスーツケースを運んだ。一事が万事そんな調子だった。ロンドンは、決して障がい者が出歩くのにやさしい街ではない……。それが暢子の印象だった。
ところが今回はどうだろう。次の駅でも駅員に「どこへ行くの?」と聞かれ、ホテル名を告げると「最寄駅のひとつ手前の駅で降りてタクシーを使うといいよ」とここでも便利な方法を教えてくれた。
道順を検索することは出来る。でも、本当に欲しいのはやはりこういった生の情報だ。車椅子利用者ができるだけストレスを感じずに移動するためには、やはり親身になって考えてくれる周りの人たちの「優しさ」が大切であると改めて思う。全ての駅にエレベーターやエスカレーターが設置してあるのに越したことはない。しかし、人が自然と声を掛けてくれたり、必要な情報を教えてくれたりすることの方がずっと大事なことも多いのだ。
パラリンピック大会を経てロンドンの街は明らかに変わった。
日本では車いすに乗っている人に「歩けますか?」とはまず聞かない。車椅子の利用者=歩けない人という認識なのだ。実際には杖を使えば歩行できる人でも車椅子を使う。そのことは障がい者のことをよく知っていなければ出来る質問ではない。それを駅員さんが普通に聞いてくるということは、オリ・パラ開催の良い影響が出ているのだと思う。
2020年の後、東京がどのような街になるか楽しみである。
それ以上に、パラリンピックを開催することによって、人々の意識を変えていきたいと考えている。
田中暢子は、日本パラリンピアンズ協会アドバイザーやオリンピック・パラリンピック組織委員会参与などの役職を務め、東京パラリンピック2020年や障害のある人のスポーツの推進に携わっている。
スポーツ政策学・スポーツマネジメント学の博士号を有し、桐蔭横浜大学スポーツ健康政策学部の教授である。そしてスポーツ系の大学では、おそらく初めての歩行障害のある教員である。
彼女は、これまでどのような人生を歩んできたのだろうか。
 
田中暢子は、神奈川県鎌倉市で田中家の長女として生まれた。
活発な少女時代を過ごし、特に走ることが大好きだった。中学時代は迷わず陸上部に所属して好成績を収めた。陸上推薦で来てほしいという高校も現れた。
ところが、14歳の時、練習中に足がつって走れなくなってしまった。
診断は肉離れ。すぐに治るだろうと思っていたのだが、なかなか改善しない。
再度受診すると、「ちょっとひどいね」と大きな病院で再検査するよう勧められた。
結果は「骨肉腫」。
「骨のガンなのだよ」と説明されてもその時はピンとこなかった。
手術前夜、医師から「二度と走ることは出来ないよ」と宣告された。
走れなくなる自分というものが想像できなかった。

手術から一か月が経ち、ようやく帰宅した。
「お姉ちゃん、足が無いよ…」
暢子の姿をみたときの弟の一言である。
抗がん剤治療の副作用で、髪はすっかり抜け落ち、著しく太ってしまった。さらに慣れない松葉杖を使っての歩行も困難だった。
それまでは快活だったのに、すべてに自信を喪失することになった。
高校受験をどうするかという問題もあった。
この受験の時、「実は、陸上推薦で声をかけてくれた高校を受験させようとしたら、松葉杖で受験会場に来られたら、他の受験生に精神的苦痛を与えるからやめてくださいと断られたのだよ」と後年、父親から教えられた。
そんな中、「他の生徒にも良い影響を与えるでしょうから、ぜひ我が校に来てください」と言ってくれた高校があった。
関東学院六浦高等学校である。
暢子はこの学校で、これまでの自分のスポーツに対する考え方を大きく変える出会いに恵まれることになる。

                                続く

本稿は、桐蔭横浜大学の協力のもと配信しています。後日、桐蔭横浜大学出版会より電子書籍として出版する予定です。
 

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