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開運力で転職を成功に導けるのか!#56

転職を繰り返す事15回、16回目に起業する。当初の5年は右肩上がりだったものそれからは鳴かず飛ばずの状態であった。その後手を変え品を変えで続けた25年間が過ぎ解散。そして今は占い師となってアドバイザーを続けている。売上がままならない時期に占いを勉強し始め、自分の運気、運勢を調べて行いった。今になるとこれまで長く続けられた理由が分かった。それは運勢の良し悪しの時期に自分が行動を起こしていることが判った。

経営者は孤独である。しかし自分で運勢が読めれば失敗はしないと言うより不安は少なくなるものだ。そして進みゆく道が見えてくることが判断出来る。この第5章は自分の運勢と行動を当てはめ行くことにする。

第1章から第4章までは転職の話だが第5章から運勢を私が見ながら進んで行く。どうやって集客をしたら良いか?どうやって売って行ったのか?どうやって存続させる考え方を持ったのか、失敗と成功を書いたものである。第第1章 #1~#9 第2章 #10~24 第3章 #25~#40      第4章 #41~#51 マガジンに掲載

第5章 最後の転職

ピンチの後に更にピンチ

最大のピンチに落ちなったきっかけは資金繰り。それまでは右肩上がりでしたが1998年に輸入代行業者ジュンソーが倒産、それからは自前の資金で輸入をしなければならなかったのだがその資金も3店舗新規オープンに使い余裕の資金はありませんでした。

売上が好調でしたので2年前にいい気になって広げたつけが回ってきます。ジュンソーという金づるが無くなったのでニッチもサッチモ行かなくなるのです。アリとキリギリスのキリギリス状態でした。

私は札幌あった三店舗を手放す決意をしました。それは自分の資金、LCパックを使って仕入するには自店の分しかなかったからです。都合のいい私でした。これまでヨーロッパ商事から一緒にやってきたスタッフを切るのですから。当然、こんな冷たい私に天罰は後からきますが・・・

札幌のスタッフ達に私の状況を話すと理解したいけど理解は出来ない顔をしていました。たぶん酷い社長で安易に見捨てるのか!と思っていたのでしょう。すると自分で独立してやっていきたいと言うのです。

当然スタッフ達に資金はなく、私に保証金を立て替えてくれと言ってきます。そこは断ればいいものですが、当然私の責任なわけですいし、私が独立した時に店舗のオーナーにこれと似たような話をしてここまで来たのですから断れませんでした。

同じように3年の期限をつけたのも同じでした。店舗の什器備品もそのまま使えるようにしたので同じように始まったわけです。しかし商品を委託で貸し出すことは当初はやりましたが、こちらとしても売れ筋は出せないので、当店から出すと今までのようには売れないし、原価も高くなってしまうからです。元スタッフはその嫌気からクレームを言い出しました。私もイタリアに行って好きな商品を売りたいと言い出します。そこでフィレンツエに共同で買付をするように話しました。この時スタッフは何処かで300万のお金を作ってきます。それで行くようになりました。

これがきっかけでふとアイデアが浮かびます。ブランド品を買いたい全国のブティックのオーナーに共同買付の提案をしようと思ったのです。そして後にこれが当店にとってとても利益を生むことになります。1年後、暖簾分けをした札幌の店舗は1店舗だけ軌道に乗りましたが他の見せは閉店となりました。

船井総研 リッシュクラブ 本文0002

その頃、船井総研ともう一社が帝国データ―バンクから聞いたと言って取材に来ます。こちらは、気持ち的には火の車でしたのですが、武士は食わねど高楊枝的な対応し掲載される事になりました。トップセールマンはブランド服にブランドの時計・バッグを持つ事で信用される。こんな言い伝えがあります。

お客様も同じで儲かっていない店からは買いたくないものです。なので取材時に「本当は仕入に困っています」みたい本当の事を言えば興味が無くなるわけで掲載もされないのです。だからとても儲かっているように見せたものです。

そのかいあってか「共同仕入れ、買付ツアーをしている話が書かれて、全国のブティックのオーナーから連絡が来るようになり、買付ツアーを本格的にやることになりました。

行先はミラノ・フィレンツエで現物買い・工場買いで以前書いた通りに買付をしたのです。手数料は仕入金額15%を頂いていたので一度行くとかなりの金額になったものです。

もっとも多いブティック参加時、7社で3000万仕入れれば450万入って来る計算でした。年に私は6回行っていましたので少ない時は2社で行くことなっていました。それと、「船井総研の消費・商品トレンド1999全予測」でたことで文芸社より共同出版6000部・300万で本を書くように勧められます。

お金があまりない訳ですから、本来は出す気はなかったのです。しかし文芸社の営業心つかむこと言います。今でも忘れません。

「本を書けば10人の営業員をいれたものと同じ、元は取れます。」なんていうものですから、また調子に乗って書くことになったのです。

その2冊の本のお蔭かもしれません、信用がない危ない状態の会社でしたが世間はそうは見なかったようです。それで買付ツアーも徐々に人が増えてきたと思います。しかし、良い事ばかりはないです。2,3度行くとこれまで作ってきた自分のルートを渡しを通さずに買付を始めるのです。

それはそうです、自分で行けば15%はやすくなるのですから。もし自分だったらそうするに違いないと思っていましたし、成功する人は貪欲で起業したした人はそれが強いのではないでしょうか!

いつも行くミラノ・フィレンツエの会社に私以外いは売るなと言っても空いてもイタリア人、来れば売ってしまいます。フィレンツエでは私はロマーノ使ってました。だから機転がきくオーナーはガイドを雇い私と回った工場をガイドに交渉させて買付していました。

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とても懇意にしていた小さなニット工場がありました。しかし、ここは私を裏ぎらないと勝手に思っていました。「私の知っている人が来たか?」と聞くと「来ない」と会うたびに話していたからです。実際は来ていたことがブログを見る判ってしまいます。それを知るとこの頃は腹が煮えくりかえることが何度もありましたが50歳を過ぎたあたりからそうな風には考えなくなりました。その懇意にして工場は悪気はないし売るのは当たり前なのだ。

それぞれおのおの、生活がかかっていて真剣なんです。だからといって全部許されるわけではないけれど、少なくとも自分の覚悟が大事だと思うのです。やるかやらないかの線引きは自分で決めるものです。

だから、それは判っていて契約書にも書き加えてましたが守らない人もいたし守る人もいた。私は面倒なことが嫌いなこともあって放っておきました。そんなことより自分の店を立て直そうと躍起になっていたのです。

独立した札幌店は売り上げを伸ばし始めました。共同買付もしていますので調子が良いのは判りました。それを知るともったいないことをしたなんて思う自分がいました。それを思うともう一度札幌に店を出したくなるのです。

そして札幌店に新店舗を模索すしている時期にありえないことが起こりました。2001年、9年目夏でした。売上は1億5千に落ちていました。




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