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開運力で転職を成功に導けるのか!#41

この物語は「失敗を繰り返した後に成功を価値とる」と言ったいわゆる成功物語ではありません。いろいろな人間関係に出会って翻弄された結果、自己が成長していく過程を書いたノンフィクションです。母の死を経て16回の転職後に起業し25年間、経営者として生きて還暦を迎え開運アドバイサーとして生きて行く道を選んだ物語となっています。苦しい時、何かの判断に役立つことを願っております。興味のある方は是非最後までお付き合いをお願いしたいと思っております。

第4章 起業するのは大変!

<出世街道>
社長の面接態度は普通ではなかったが、ビジネスの話を聞いてみると興味深いと思いました。雰囲気で脅かされていると思う人もたぶんいたでしょうが、こっちは紆余曲折の末にアメリカに行き、黒人に坊ちゃん刈りをされた男です。パンチパーマ風で驚きはしませんでした。

肝を据えたせいでしょうか、採用が決まりました。出社の日を聞いて出社してみると面接を受けたと思われる6人が来ていた。年齢は25歳からで私の30歳が一番年上でした。これまでヨーロッパのブランド小物、バッグを並行輸入してディスカウントショップに卸をしていたようですが、今度はイタリアのブランドでの「サンレモ」と言う紳士スーツのブランド総代理店を新規事業に加えその為の営業が欲しかったようだ。

私はその頃はブランド知識は全くなく、初めて聞くブランドでした。どこに売りに行くかと言えばディスカウントショップ、インポートショップ、百貨店などアポイントを取って売り込みに行くのです。そのブランドのパンフレットだけで何処の店がそれを輸入してみようかなんて思うでしょうか?

それもアパレル知識がない6人の新人の営業マンです。1月経っても誰も売り込むことは出来ませんでした。同時にアメリカのゴルフブランドのPINGを並行輸入していました。6人の中で社長が有望と思った1人がいて、彼はそれを売る事の担当になったのでこの事務所ではなくて別な場所にいきました。

親会社が宝石卸、職域販売、をしていて、その本社ビルの1Fにブランドのショップも持っていましたので彼はそのショップで働く事になったのですが1か月もすると社長と折り合いがつかなくなってまた事務所に戻ってきました。2が月経ち3人ほど辞めて残っているのは3人となった時に、私は社長に自分を売り込んだのです。

この2か月売り上げが無かったのを知っていたので意見をいったのです。「ショップがあるなら小売りに力を入れほうが業績が上がるーー」そう申し出をしたのです。

「そんな提案をするなら、今のショップの売上を上げれるんだな!」と強い口調で言われました。

「もちろんです」着物屋で高額商品を売っていましたから何でも売れると自信があったのです。

「明日から、ショップで働いてみろ!」とすんなり親会社の1F、2Fにあるマルコポーロという名のショップに配属になりました。

そこは平行輸入のブランドショップで当時、ブランドネクタイ、食器、小物が所狭しと言った具合に置かれていました。当初、ショップの売り上げは泣かず飛ばずと言った具合でした。

私はネクタイをとにかく入店する客に売りさばきました。今と違ってブランドネクタイは人気があったのですが定価は高かったのです。しかし2,3万円の商品が値引きが出来ましたので意外に簡単に買ってくれたのです。

ここに店長がいたのですが3か月目に金銭トラブルが発覚してクビになりました。そして棚ぼたで私が店長になったのです。店長となり売上が上がってきました。社長がその成績をみて「なにかプランがあるなら好きなよようにやって良い」と言ってくれたので大改革を始ました。

私は当然は張り切りました。このビルは正面が円形となっていてガラズ貼りで二階に続くゴールドの螺旋階段が外から見えました。それが優雅にまた高級なイメージをかもしだしていました。2階は社長室兼倉庫でしたのでもったいないと思い兼ねてから構想をもっていたので社長に提案をしました。

1Fをディスカウント店、2Fを会員制の店舗にしました。その構想のプランを話すと社長はノリノリなり毛皮とシャネルのニットの服を輸入し、おくことにしました。社長はワンマンでしたが即決し実行が早い人だった。

そして儲かればダメだとは言わない人ですから勝算があればOKだったのです。私も社長の心意気を感じ、休み返上で働く事になっていました。赤じゅうたんで二階に続く螺旋階段の前に「ここからは会員のみ」立ち看板を置くと、興味が湧く人が多くでて、そのつど、会員になると毛皮、ブランド衣料が割引になることを伝えるとけっこうな確率で会員になってくれてのです。

後の起業した時にこの経験がいきるのです。入会金は10000円でしたが毛皮が70%になることを考えればほとんどの人が会員となって買ってくれました。盆、暮れ、正月と365日休みなく営業をしたと思います。その結果、バブル景気もありましたが店の年商は私を入れて3人で3億円位の売上になったのです。

バブルですから本社の真珠・宝石の販売の業績もよかったこともあり、平行輸入品もすんなり入ってきて社長はさらにブランドの卸業を充実させるために中野にビルをかり営業員も一挙に20人と雇い会社は大きくなってきました。私と同期の残った3人は気が付くと辞めておりこの会社の古株となっていました。

ショップの方は確実に売り上げをのばしていましたので社長からの信頼は厚いし私も社長の為ならと思っておりました。そんな矢先、海外出張を動向するようにと言われました。それまでは社長自身が海外へ行って買付をしていましたが、その時からヨーロッパ、香港と同行するようになりました。まあ社長との蜜月期でした。

しかし、ある時から社長と険悪になるのです。自分でいうのも妙ですが、野球のトーナメントと同じで、実力者同士は最後は戦うものなんですね~。出る杭は打たれるとでも言うのでしょうか・・・正直、生意気になっていたんですね。
「今度のイベントでこのミンクの毛皮を15万で売ってくれ」
「その金額では無理です、売れません!理由は肩に擦れがきれがあるでしょう」
「まあ、お前の販売力でどうにかしろよ~」
「いまどき、そんな形も古いです」と言うと社長はすごい形相になり怒り出しました。
そんな感じの事が再三とぶつかり合うことが増えてきました。

私も起業したあと部下と同じ事でぶつかりました。社長としてみれば商品が悪いのは判っていても売って貰わないと困るのです、そして同じように指摘され「売れない」と言われて衝突して腹が立ったことがありました。それと同じことでした。

あるとき社長の3度目の結婚式をすることになったのです。その席に私は呼ばれませんでした。その日に香港出張を命じられるのです。会社の中で可愛がって目を掛けている部下を軽井沢に呼び結婚披露パーティーをしたようなのです。私は寂しいというかショックでした。

その時から社長も私もなにか気まずくなり会話も少なくなりました。そして不信感も抱いてきて、従順だった私の態度も硬化していきました。やがて意見の対立がありましたが面と向かっては否定はなかったが陰で私の悪口を言ってるのを部下から聞きました。

当然そうなると勤労意欲が無くなる私でした。そして独立したい、起業をしたいと思うのようになったのです。

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