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開運力で転職を成功に導けるのか!#35


この物語は「失敗を繰り返した後に成功を価値とる」と言ったいわゆる成功物語ではありません。いろいろな人間関係に出会って翻弄された結果、自己が成長していく過程を書いたノンフィクションです。母の死を経て16回の転職後に起業し25年間、経営者として生きて還暦を迎え開運アドバイサーとして生きて行く道を選んだ物語となっています。苦しい時、何かの判断に役立つことを願っております。興味のある方は是非最後までお付き合いをお願いしたいと思っております。

第三章 何が何でも海外
<テネシーの銀座レストラン>


環境開発研究所に入社して3か月経っていました。           会社が新聞にコンドミニアムの広告を掲載してお客様から問い合わせがあるとそのお客様と面談する反響営業でした。相手が興味を初めから持っているので飛び込み営業とは違ってバサっと断られることは少ないが物件金額が安くても3000万円位したので簡単に売れるわけではなかったのですがハワイのコンドミニアムを売る仕事も慣れてきたころでした。

この頃に社長からテネシー州ナッシュビルのレストランで働く辞令がでました。後で聞いた話によると、当時ナッシュビルにいた日本人の責任者の桜井がビザがきれたのでその交換に行くことになりました。

他の社員でもよかったのですが入社の約束もありましたし、調理師免許があったため労働ビザが早く取れるということで私に白羽の矢がたったのでした。つまり誰でもよかったのです、労働ビザが一番早く取れるそうな男の一人だったようです。

そういう事情は当時の私には無関係でした。念願のアメリカ行で希望に燃えておりましたし、旅行に行く気軽な感じで怖さなんて一つも感じていませんでした。このレストランは2年前から営業を始めた「銀座レストラン」という名前でずっと赤字の店となっていました。

だから売上不振の店を私の手で何とか立て直すんだと躍起になっていたのです。私が若かったせいで上手くまとめられないと思ったのでしょう、社長の配慮でレストランの従業員、2人の日本人板前、あと不動産部の経理に対して方便で社長の甥という立場とレストラン副社長の肩書きにしてくれました。これはありがたかったが後から不信を買う結果にもなりました。

しかし副社長となっても月給は25万円と東京で貰っていた同金額でした。アメリカ行きのフライトは社長と私のお客さんでもある愛人と一緒に行くことになりました。私は窮屈なエコノミークラスでしたが社長達は優雅なファーストクラスでした。

たまに私が呼ばれてファーストクラスに行き飲み食いをして戻るとCAが皮肉をいうのです。

「あなたはCAですか?」

「違います」そう、だったらあるきまらないでなんていう意味なんです。 まあ、ちょっとムッとしたのを覚えています。

そしてダラスで乗り継ぎナッシュビルに着き入国検査を終えて空港を出た時に興奮を覚えました。初めてのナッシュビルは白銀の世界で季節外れの大雪に見舞われていました。風景が雄大で遠くの山並みを眺めていると興奮を覚え、腹の底からやる気が上ってきたものです。

心配とすれば英会話です。長年学校での勉強しかやっていないし英語の成績は悪かった私ですがどうにかなるなんて思っていました。場所はナッシュビルの川が流れる倉庫街の一角に煉瓦作りの二階建の横に長い建物があり飲食店が何軒か入っていました。そこの角に「銀座」という名前のレストランがありました。

席数は78席。日本人は寿司職人、和食職人、ナンシーでした。     彼女は日本でアメリカ軍人のリチャードと結婚して、それからずっとナッシュビルに住んでいた人なので、すでに日本語より英語の方流暢に話す人でした。このリチャードは退役軍人となって店のガードマン兼総務として働いていました。これからこの夫婦に滅茶苦茶お世話になるのです。

そしてこの時はまだ私の人生の転換期になるとは思っていませんでした。

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