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平手友梨奈が踊る舞台の、光のおこぼれをもらって生きようと思った

「生きてることが辛いなら
いっそ小さく死ねばいい
恋人と親は悲しむが
三日と経てば元通り
気が付きゃみんな年取って
同じとこに行くのだから」


死ぬことが怖くてなかなか眠れない。
眠ることは一種の仮死であるからだ。不眠ではないが、入眠するのに相当の時間がかかる。自分が意識を失うことがこわい。自分が愛したもののことを一瞬でも忘却することがおそろしい。そんな気持ちを最近はずっと、夜中になると持て余していた。うまく時間を潰すこともできず、ベッドの上でのたうち回るように寝返りをする。ようやく眠りにつくときは、無駄な動きのせいで全身が疲弊している。生きている中で必要のない、ただの無意味な躍動だ。

「生きてることが辛いなら」を踊る平手友梨奈を見た。人の人生を数分に凝縮したようなそのダンスに、私は自分の眠りへの苦しみに喘いでいた顔のこわばりとその理由がほとほとと融けていって、藻くずみたいになっていくのを感じた。
そうだ、どうせ人はみんな同じ理由で平等に棺桶に入るんだ。そう思った、それは悲しいものではなかった。そのダンスを見ていたら、何も悲しくは思わなかった。

こんな風に魂を燃やして、こうこうと赤く燃やして人の人生を踊る彼女のことを見られるなら、多少多感な時期に眠れないことがあったって大したことではないのだと思えた。眠れないならせいぜい無駄に命を燃やせばいい。呼吸をして、肺を膨らませて、今日一日何があったのかを思い出して、今日死んだ人や一生懸命生きた他人のことを考えて、この瞬間にも世界のどこかの病院の片隅で、母親の子宮から生温い羊水と血とともにこの世に這い出てきた赤ん坊のことを考えてみたって何もおかしくないのだと思えた。

彼女のダンスは生きることが下手な私のことをいつも肯定してくれる。彼女自身が複雑で、複雑な感情が四面に張り巡らされた繊細な表現をする人だから、そういう生き方をしている人が自分の魂を開け放して舞台上で踊っていることが、私にとって何よりも輝かしく、すぐ傍で光る表現の輝石に思える。遠い存在のように思える時は何度もあるし、そのたび自分の思いはすべて届かないのだと打ちのめされるのだけれど、それでも私は何百メートルも何千キロも離れた場所で、彼女への愛と敬意を叫びたい。今日も爪を割り、踵をすり減らしながら、それでも表情にひとつも歪みを滲ませず柔らかい微笑をたたえて踊ってくれてありがとう、と。人間の苦楽をその身体で表現してくれてありがとう、と。私のような生きづらい人間のために、生きづらかった思いを言葉一片でなく魂ぜんたいでぶつけてきてくれてありがとう、と。


「生きてることが辛いなら
わめき散らして泣けばいい」


彼女は舞台の上で、泣いてはいなかったけど、私には泣いているように思えた。わんわんと、赤ん坊のように泣いて、おぼつかない少女になって、ひとすじの光のような大人になって、しわくちゃの老婆になって、死んでいった。十九歳の肉体が、人生をあらわしていた。
鏡にうつったもう一人の自分と、約束をしていた。それはどんな約束だろう。生きるための約束、生きることそのものへの約束だろうか。

私も薬指を伸ばした。そこは空だった。それでも約束を切った。眠れない日を続けてずっとずっと考えて、疲れて、自分がそこになくなっても、呼吸をして生きることを忘れないでいよう、と。息がしづらく、くたっとなって「上手く息ができない自分が大嫌いだ」と思っても、生きるのが大の下手くそでも、それでも彼女のダンスを見るためにこれからも生き続けようと思う。
彼女の本来の、本当の人生と比例するように駆けていく、彼女の中の「色々な人たちの人生」を、それが指先に至るまで発せられる瞬間を、この目で見ていたいと願ってやまない。

眠れない日には、色々なことを考える。それでも死にたいとは思わない。
夜がどんなにこわくても、彼女の頬の、端っこに滲んだほほ笑みが脳裏で点滅して、その意味を探していたら激しかった心の波が穏やかに打ち寄せていく。

死ぬのはこわい。それでも最後まで彼女のことを好きでいたい。
生きて死んでいく彼女のことを、同じように、誰もと同じように、生を全うしていく彼女の表現することを、私は見届けていきたい。

これはひとつの人生なのではないか。
彼女から与えられた、人生の意味なのだと、そう思うのだ。

八月二十七日


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