58 ふたりのパスワード
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58 ふたりのパスワード

ケシキスイ

 ニクイさんが、アタシのスマホを手にして、長く細い指で触れるのを見ていた。アタシの胸が疼きながらもざわめいたのは、ニクイさんの右手の指がなにか変だったからで、関節のあたりでねじれて、爪が中指の方を向いている。ああ、そうだったな……、昨日、喫茶イルゼビルでウナギステーキを食べるとき、ニクイさんのフォークのにぎり方がなにか奇妙でなぜか怒りがわいてきて、イルゼビルの女主人とニクイさんが抱き合っている姿を想像して、ふたりの関係を暴いてやりたくなった……
「13桁の数字とアルファベットを組み合わせたパスワードもお伝えてししたが、覚えておられますか? ぼくたちだけのヒミツのことばをもじったパスワード」
 アタシはまたしても真っ白になっていた。アタシの記憶はムシクイではなくて、すっかり消えているのではないか。でも、果物の果汁で書いた文字のようにロウソクの炎あぶったら浮かび上がってくるような気もする。
「3日前でしたが、覚えていませんか。メンターのぼくとクライアントのあなただけが知っています」
 ニクイさんはわずかに頬をゆるめ、「先生が話していたとおりだ」とつぶやいて、「まずは1週間、圏外地療法に取り組んでみましょう」とアタシを励ましてくれた。
「1週間が過ぎて、あの先生のクリニックでカウンセリングを受けて、解除するかどうか決めましょう。今、SNSにアクセスしたら、またも依存の症状がでてきて、あなたは首を曲げて、四六時中、スマホをながめて過ごすことになるはずです。それじゃあ、治療の意味がなくなります。まずは一週間、ここを圏外地だと思って過ごしてみましょう」
 アタシ、まだ炎上しているのかな。
 アタシのつぶやきにニクイさんはぽつりと答えた。
「新しいコメントはなにもありません。世の中は移ろいやすい」

背景 灯橋


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ケシキスイ

小説や物語など文学の話題にふれながら、日々の暮らしのなかで感じた、ささやかだけれどちょっとした期待とか、予感とか、心地よいと感じたことなど書いていきます。渦巻く宇宙を支えるのは小さなものたちではないかと考えています。ケシイキスイとかツユクサとか、白黒のまだらネコなどなど。

うれしいです。脱皮できました。
ケシキスイ
作家・エッセイスト。歩いて読み、歩いて書く。小説のあれこれや物語のなんだかんだを書きとめていきます。日々の暮らしもちらほら。アーケードのある商店街が生活圏。魚屋さんをのぞくのが、たったひとつの趣味。心理サスペンス小説「泣くなよここに来いよ」(96000文字)を120日かけて執筆。