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わが心の近代建築Vol.39 日光田母沢御用邸記念公園/栃木県日光市(東武日光)

日光は栃木県北西部に位置し、市域の87%を山林が占め、鎌倉時代以降、山岳信仰の聖地として知られました。
江戸期に徳川家康や徳川家光などの江戸幕府初期将軍によって、徳川家の廟地となり、以降、日光東照宮の鳥居前町として参拝客でにぎわい、以降「日光を見ずして結構と言うこと莫れ」という言葉で日本中に知られます。

揚州周延「千代田之御表 日光御社参大祭ノ図(1897)

明治期になると、その風光明媚な気候から、多くの諸外国人や華族、実業家の避暑の地として栄え、ホテルなどが整備。特に中禅寺湖畔には日本駐在大使館・領事館の別邸建築が建てられ、「夏になると外務省が日光に移る」と言われるほどでした。
 
かねてより病弱だった嘉仁親王(のちの大正天皇)の避暑の地として、御典医だったドイツ人医師ベルツの進言で、日光御用邸(現在の輪王山本坊)に約2か月半、滞在。
結果、夏の日光の気候が喜仁親王の健康に適していることが確認され、新たな御用邸建設が急務となり、二荒山神社脇にあった日光出身の実業家・小林年保所有の名園「日光田母澤園」の敷地が充てられます。

小林年保が所有した「日光田母沢園」


小林年保については、1848年に日光に生まれ、日光東照宮を明治維新の戦火から護った人物として知られ、維新後は徳川家の執事として、慶喜とともに駿府に移り、兵庫県、小倉県などに勤務したのち、三菱地所に入社し、現在の静岡銀行の前身にあたる「第三十五銀行」の頭取に就任。自身も日光に「小林銀行」を創設して金谷ホテル創設などに携わります。

小林年保(1848~1895)【日光田母沢御用邸記念公園の展示パネルより転載】

なお、当時の小林家時代の状況を示した銅板で邸宅部分を拡大して見ると、この時代にすでに、電線などを完備していたことが分かります。

1898年に日光田母沢園に赤坂離宮にあった旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部を移築し造営を開始し、1899年に完成。その工事にあたった工夫の数は、約4万人とも言われ、田母澤御用邸の基本設計は、宮内省内匠寮の土木課長・木子清敬があたります。
912年に嘉仁親王が大正天皇に即位するも、17年に心労が重なり天皇の体調が悪化。静養所の拡大が急務になり、謁見所、表御食堂、御玉突場などが増築。大正天皇は崩御される1925年まで、毎夏の御静養の場として、この御用邸を使用。

大正天皇(1879~1926)【写真はWikipediaより転載】

なお、工事のほうは1918~20年で大規模改築を終了。1922年までに小規模改築を終えますが、この大正期の大工事の指揮を執ったのが、木子清敬の息子・木子幸三郎になります。

増築責任者・木子孝三郎(1874~1941)【Wikipediaより転載】

大正天皇崩御後は、昭和天皇・香淳皇后の御静養地として機能。1944年には東京大空襲に備え当時皇太子だった上皇陛下の疎開先になります。
1945年の終戦後に田母沢御用邸は廃止、大蔵省関東財務局の管理下になり、1947年に栃木県観光協会が借り受け一般公開。2006年に栃木県が国より田母沢御用邸を取得し、2010年に修復工事を終え「日光田母沢御用邸記念公園」として開園。2013年には、御用邸の10棟が国指定重要文化財に選定されます。
なお、各部屋の建築年代などですが…
・御座所:赤坂離宮から移築。紀州徳川家江戸下屋敷の建物で1835~40年の作品。
・御食堂:赤坂離宮から移築。明治時代の建物。
・皇后御座所:田母沢にあった小林年保の別荘で明治時代の建物。
・謁見所:大正時代増築部
・内謁見所:大正時代増築部
・皇族及び臣下休所:田母沢御用邸開設時の新築(一部大正時代に増築)
・御車寄:赤坂離宮から移築。明治時代の建物。
・主殿寮:田母沢御用邸開設時の新築。
・調理所:一部は田母沢御用邸開設時の新築。大部分は大正期の増築。
女官部屋:田母沢御用邸開設後、明治~大正期の増築部分。
となり、室内は全室で106室。なお、屋根はひとつながりになっているため、違和感のない統一的なデザインになっています。

日光田母沢御用邸記念公園 平面図【カタログより転載】

平面図:
田母沢御用邸は、
・江戸期の紀州徳川家江戸下屋敷部分からの移築
・小林年保別荘時代の建造物
・花御殿(現在の東宮御所)寄りの移築
・現地で竣工時に作られたもの
・大正6年時に増改築された部分
様々な建築様式を愉しむことができます。

【たてものメモ】
日光田母沢御用邸記念公園
●竣工年:1899年に創設、そののち幾度の増改築あり
●基本設計:木子清敬(大正期増築部の設計は木子幸三郎)
●文化財指定:国指定重要文化財
●入館料:¥600
●写真撮影:可(商用厳禁)
●交通アクセス:東武日光駅よりバス「田母沢御用邸記念公園」下車1分
●参考文献:
・鈴木博之著「皇室の邸宅」
・日光田母沢御用邸記念公園管理事務所著「日光田母沢御用邸記念公園」
●留意点:
・各季節ごとに通常非公開部分の特別展示あり。
・室内説明はタブレット貸し出し中

全体図【展示パネルより転載】:
竣工当時の庭園は約10万7000㎡あったものの、現在は39390㎡しまなく、日光植物園などに分かれてしまいました。

入口部分:
田母沢御用邸は、この部分が正門になり、坂道を上り、お車寄せに到達します。

御車寄:
唐破風形式のもので、1889(明治22)年に、嘉仁親王の花御殿(東宮御所)部分の玄関として作られた部分を移築。田母沢御用邸移築当初の屋根は杮(こけら)葺きだったものを、昭和初期に、銅板葺きに変更。木組みの先は白く塗られ(胡粉塗)になり、照明器具は当時のものを仕上げ直しました。なお、表部分から入れるのは天皇陛下のみで、従者らは脇部分からの入場にしました。(現在、観光客は表部分からの入場になります)

御廊下:
田母沢御用邸の特徴のひとつに、受付部分から庭園まで一気に続く、長い廊下で、その長さ約60mほど。床には田母沢御用邸時代から絨毯が敷かれ、改修工事で、その柄と色が復原されました。
また、田母沢御用邸は106室にもわたる広大な施設ですが、その構造はいたってシンプルで、この廊下部分より右側が陛下の施設、左側が、皇后の施設となります。

侍従武官長/侍従職などの諸室の北側外観:
御用邸廃止後、ガラス窓になっていたものを再度紙障子に変更。
この個所は1899年に増築。
また、大正期に改築・移築されて現在の姿になります。土台につく「唄【ばい】」という錺金具は大正期の増築で取り付けられました。

中坪:
休憩室から中坪をみると江戸/明治/大正期の建造物の形状が違和感なく外観として見られます。その理由として、すべてが階部分をのぞき、銅板をつなぎ合わせた銅板一文字葺きの一枚屋根であるのが理由に考えられます。紀州徳川家江戸下屋敷部分から移築した3階屋の1・2階や根は元々瓦葺だったものが、移築時にこけら葺きに変更。写真右部分の入り口は下行道という中坪の連絡通路です。

表御食堂:
部分を見ますが、この部分は大正期に増設された部分で、木子幸三郎が設計にあたります。
ここでは臣下や賓客に「御倍食」を賜わるなど、饗宴時に使用され、床面は洋式の寄木張りで壁部分が鳥の子紙の張付壁。
天井部分はヒノキの猿頬天井といった和風…
いわば和洋折衷様式が取り入れられ、ガラス戸は竣工当時のものになります。

御玉突場:
明治期より政財界人の邸宅などには、諸外国人との交友や商談のためビリヤードが行われ、皇室でも明治初めから、諸外国の賓客との交友のためにビリヤードがたしなまれました。
大正天皇も体調の優れた際には、毎晩、愉しまれたことが伝えられています。
床部分は柾目と板目を交互に重ねた寄木とし、手洗い場を除く、ビリヤード台、照明などは復原されたものとなっています。 

謁見所外観:
この部分の外観を見ると、「むくり屋根」に、軒が反っている京都御所の御常御殿に共通する優美な形になり、菊の御門月の獅子鬼の下に懸魚が付き、木連格子で誤伝風の伝統的な姿になっています。

謁見所/次の間:
天井部分は、ヒノキ柾目の格天井。伊勢神宮のような白木の簡素な美を備えています。
天井下には、柱を隠した白い「蟻壁【ありかべ】」を付けることのより、天井が浮いた錯覚を与え、圧迫感を軽減。
なお、謁見所との間の欄間は「筬【おさ】欄間」になっています

謁見所:
天皇陛下が、公式な「謁見【えっけん】」を行う場。
真中にある椅子と机は玉座。陛下は立席で臨まれました。
なお、玉座の隣の卓子【たくし】は、お帽子を置かれる台。
床の間と天井は純和風でありながら、畳式の上に英国製の絨毯を敷いた和洋折衷の様式になっています。

謁見所/欄間:
まず、右側の床柱は木曾ヒノキの四方柾。
床柱部分の後ろは「花挟間【はなはざま】」という飾り格子が入っています。
また、豪挟間方の平書院部分の枠は黒漆塗り。
唐草模様の透かし彫り金鍍金の錺金物が付いています。

謁見所縁側:
縁側部分は外側に強い傾斜がつけられています。
この理由として、謁見される際の視覚を和らげるためのと考えられます。また、謁見所との間の欄間の格子・虹梁【こうりょう】は、京都御所の御常御殿【おつねごてん】に同じ形があり、その形が写されています。

謁見所/廊下:
まず、謁見所の書院欄間上には、書院建築の象徴としての黒漆塗りの竹の節欄間が。
謁見所から「梅の間」に向かう渡り廊下の奥に、正面に十字型の丸窓があります。
丸窓のデザインは江戸期からのもので、中の紙張障子が仮皇居の際に現在の十字型ガラス戸に変更されました。

謁見所と「御学問所」のある3階屋の渡り廊下部分には、厠が設けられており、手前側に和式のトイレ、奥側に洋式のトイレが設えています。

3階屋部分:
1835~40年に紀州徳川家江戸中屋敷部分に新築されたもので、江戸後期の建築意匠を伝えています。
紀州徳川家江戸下屋敷は1872年に皇室に献上され、赤坂離宮となりますが、1873年に皇居西の丸御殿の炎上にともない仮皇居になり、1889年に明治新宮殿の完成に伴い、この建物は嘉仁親王の住む東宮御所になるも1898に解体。
1899年、田母沢御用邸の陛下の居室部分として移築されました。

1階御学問所:
こちらの部屋は、嘉仁親王の「御学問所」として用いられ、主に書道を学ばれた部分となります。
この部屋最大の特徴として、壁面に梅の絵が描かれていることから、竣工当時から「梅の間」と呼ばれてきました。
なお、江戸期の創建当時は、9帖で格狭間形の付書院と違い棚を備えた、現在よりも華やかな部屋でしたが、こちらに移築される前に増改築されて、現在の21.5帖の広さに。
床柱ですが、椎の木の天然絞り丸太が用いられ、釘隠しには「八方鶴巻型梅」という意匠が用いられています。

1階御学問所「梅の間」の釘隠し

2階より階段を臨む:
段部分は、親柱が無いものになり、また、見事なアールが描かれており、江戸期の非常に優れた大工技術を垣間見ることができます。

2階「劒璽の間」:
この部分は、皇位の印である「三種の神器」のうち、「草薙の剣」と「八坂の勾玉」を奉安する部分になっています。なお、手前部分の畳の縁は、小紋柄を合わせた小紋縁になり、奥側の部分は繧繝縁【うんげんべり】になり、厚畳になっています。

2階「劒璽の間」の繧繝縁【うんげんべり】
三種の神器が奉られた部分に使われる畳のヘリは繧繝縁とよばれ、天皇・三宮・上皇が使うに用いられ、最も格式高いものになっています。朱・青・緑・紫などのカラフルではっきりした色に、ひし形や花菱などでかたどった伝統的な文様をあしらいます。

2階御寝室:
赤坂仮皇居時代は間仕切りを取り払い、絨毯が敷かれ、広間として使用されました。明治大帝はこちらを会議に使用し、御陪食を賜れたことが伝えられています。なお、田母沢御用邸移築時に、再び間仕切りが設けられ、のちの大正天皇になる、嘉仁親王の「御寝室」に利用されました。

2階「御次の間」:
「御寝室」の「御次の間」となる部屋で、赤坂離宮にあった時代には、襖が取り払われ、じゅうたんが敷かれて1つの部屋として使用さえました。

2階「御日拝室」:
大正天皇が、歴代天皇を遥拝された部屋。
特徴として、この部屋には長押がなく、床の間の落掛が黒漆塗りで、弧型になり、書院建築の概念から離れた部屋になり、紀州徳川家下屋敷時代には、天井いっぱいに孔雀の絵が描かれた、1階の御学問所…「梅の間」よりも豪勢な作りだったといいます

2階「御日拝所」の違棚金錺: 
3階屋部分の菊花御門の錺金具の下には、紀州徳川家江戸下屋敷時代の「三つ葵」の紋が出てきます。

3階「御展望室」:
この部分は毎年、冬季に特別公開される部分になります。
赤坂仮御所時代、明治大帝は、教育係だった山岡鉄舟の葬儀の際に、ここから葬儀を目送されたことが伝えられています。
壁部分は現在、紙張りになっていますが、紀州徳川家と仮皇居時代は砂壁となりました。
明治大帝は、この部分に絨毯を敷いて、椅子とテーブルを置き、皇后陛下と西洋料理を楽しんだことが伝えられています。
この部屋の特徴としてまず、檜の角材と杉の面皮柱が交互に並び、天井部分は「朱潤み漆塗り竿縁天井」と「白竹の竿縁」を交互に貼ったものとなり、大きな丸窓は「大下地窓」との組子は白竹、横の貫は杉材になっており、はめ込まれたガラスにはステンシル加工が施されています。
大正天皇も、明治大帝と同じように、皇后や女官たちを連れて、この部分から日光田母沢の景観を愉しんだといわれています。

3階御展望室から野猿を見下ろす:
田母沢御用邸の屋根を見下ろすと、田母沢御用邸最大の魅力である銅板一枚葺きを堪能できます。
江戸/明治/大正といった異なる時代、様々な様式を持った建物でありながら、一体感を出す最大要因になっています。

1階「御座所」御次の間:
次の間部分の欄間を見ると、「間越化粧透かし欄間」と言われるものになり、竹格子を水の流れに見立てて、その上に扇が浮く、という大変優雅な意匠になっており、扇には左より「バラ」「花菖蒲」「山吹」「山水」が描かれています。

1階:「御座所」:
この部分は、大正天皇が日常の御公務を執り行う場所で、「御居間」にあたる部分になります。
紀州徳川家時代には藩主のプライベートな空間として用いられ、「御小座敷」として炉が切られ、「広間の茶室」として使用されました。赤坂仮皇居時代より、畳の上に絨毯を敷き、明治天皇の「御座所」として使用され、檜の角柱に障壁画のない白い貼付壁となっています。

御座所入側:
御座所前の入側は、御座所の一部として格調高く作られ、鳥の子和紙の貼付壁と張付天井に。また、ガラス戸は黒漆塗り。
畳敷きの上に英国製の絨毯を敷いたスタイルになり、奥の杉戸絵には田安御絵師の遠坂文雍の「白梅二鶏」が描かれています。


になっており、畳の上には英国製の絨毯が敷かれ、黒漆塗りのガラス戸と杉戸絵が描かれています。

御食堂外観:
御食堂は、花御殿内に「二位の局の間」として増築された部屋で、「御食堂の御次の間」部分は、紀州徳川家時代は茶室出会った場所が取り払われて増築され、1873年〜1889年までは明治天皇の御宸居の一部として使用さえれました。

御食堂/御次の間:
こちらの部屋は1873年に増築されたもので、壁部分は壁部分は鳥の子紙張付け、天井部分は間似合紙の貼付けとなっています。
絨毯は、英国式のウィルトン織理で復元されており、シャンデリア部分にも菊花御紋があしらわれています。

御食堂:
こちらは1889年に増築された部分になります。
壁部分・天井部分とも、先述の「御食堂/御次の間」と同様、鳥の子紙張付け、間似合紙の貼付けとなっています。
また、棚部分の錺金具や、引手にも菊花御紋があしらわれています。なお、東日本大震災での被害があり、修繕が図られました。

御化粧
御召替所

御湯殿:
湯殿部分は、沼津御用邸と同じく、皇室伝統のかけ流し方式になっており、床部分は、水が切れるように傾斜が付けられており、御湯殿部分の上部には、四隅に通風口が開けられ、外部から見えるドラム缶状のものはボイラーとなっており、この部分から湯が組まれ利用されました。

皇后宮外観:
この部分は、田母沢御用邸のもともとの所有者だった小林年保の別邸部分で、1887年頃に建てられたものと言われています。玄関部分を除き、創建当時から、その外観はほとんど変わっていません。嘉仁親王(大正天皇)御成婚以前は、女官部屋に充てられましたが、御成婚以降は、皇后宮に用いられました。

高等女官詰所Ⅰ:
こちらには、高等女官の方々が詰めた場所で、一枚板の扉部分に金具が残されています。この金具部分が小林年保の「田母沢園」時代の玄関の名残といわれています。

高等女官詰所Ⅱ

1階皇后御座所:
「田母沢園」時代は座敷部分に用いられ、床柱や鴨居、長押にツガ材が用いられた、いわゆる栂普請です。
畳の縁には萌葱絹縁(もえぎきぬべり)が用いられ、襖の引手には燻し銀の花鳥模様彫り、釘隠しは楓葉型となります。
また、照明器具はの赤い色は、ガラスに金を溶融して発色させています。

1階皇后御座所の「楓葉型」の釘隠し
1階皇后御座所の襖の引手「燻し銀の花鳥模様彫」

1階皇后御寝室:
この部分は、蚊帳吊り金物があり、当時の姿が偲ばれます。
また、萌葱絹縁の畳の下は、ヒノキ材の2重床となります。
床柱にはツガ材が用いられ、踏込み板の床板はケヤキ製、落掛け部分はクロガキになっており、襖の縁は杉の生地縁で、壁・天井・床の間とも、小林別邸時代のものが遺されています。

1階呉服棚:
服棚部分にも多くの箪笥が付けられていますが、この部分の引手にも、数々の絵柄が彫ってあり、この部分も小林家時代からのものであり、手を加えられていません。これは、皇后宮全体に言えますが、シェードの赤い色は、ガラスの中に金を溶融して発色させています。

1階皇后前室
2階御学問所/御次の間

2階御学問所:
床柱はイチイとなっており、室内の釘隠しは折鶴、襖の引手は梅に鶯となっています。

2階皇后御学問所「梅に鶯」の襖引手

内謁見所:
主に皇后陛下の謁見に用いられた部屋。
謁見所と同じく、大正期の増築部分ですが、謁見所と違い、蟻壁がない分だけ角ばらず、大変良い比例を持った部屋になります。
また、照明部分は田母沢御用邸独自のもので、その形も各部屋に併せて作られています。

【編集後記】
田母沢御用邸に初めて行ったのは、今から34年前のこと。
改めて振り返ると、新たな発見や感動があり、非常に勉強になった次第。
改めて、何度でも行きたくなる名建築の一つになります。

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