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「運動会」だけが特別な瞬間じゃない

どう?みんな。with コロナ、してる?

今年はうちの息子の保育園でも、運動会がずいぶん簡略化された。
見学は年長クラスの保護者のみで、2時間程で全プログラム終了。
つまり、わたしたち夫婦は見学に行けなかったわけだけれど、息子は楽しかったみたいだし、保育士さんたちがたくさん話を聞かせてくれたり、プロカメラマンが撮影した写真も購入できるので、個人的にはわりと満足している。

わたしとしては、何事も基準は、息子や、息子のお友達が楽しいかどうか。
保護者のための「運動会」じゃないわけだし、本音を言えばそりゃその場で見学したかったけれど、こどもたちが楽しめればそれでいいと思う。

これは極論かも知れないけれど、「運動会」を見せ物にしようとするから、危険な競技や長丁場の演技をしなきゃいけなくなるんじゃないのかな。
自分のからだをのびやかに使う楽しみみたいなものが「見せるための運動会」には欠けていると思う。そんなものはこれを機会に滅びればいいよ。
なんつー過激発言してみるけど。

だけど、こどもたちはどうなんだろう?
息子はやっぱり、わたしや夫に「運動会」を見てほしかったんじゃないだろうか。
すこしそんなことを思ったんだけれど。いや、こういうのよくないね。自分の都合よく勝手にこどもの感情を決めつけてアテレコするの。妄言、妄言。

たぶんね、息子はわたしたちに見てほしかったと思うの。
だけど、それは運動会だけじゃない。息子は毎日言ってるもんね。おかあさん、見てー、おとうさん、見てーって。息子が見てって言ったときに、いま用事してるからとか、またあとでね、なんて返してしまうことがあるわたしに、運動会が見られなかったってメソメソする資格なんてない。

息子は当日の朝まで、かけっこのスタート練習や、披露するダンスをやって見せてくれた。何度も何度も。帰宅してからだって、こんな風にやったんだよって、また何度も何度も同じことをくり返し見せてくれた。
本番が見られなかったから何だって言うんだ。わが家は毎日「運動会」だったじゃないか。まだまだ終わらない「運動会」が続いているじゃないか。

特別な日じゃなくていい。
息子が見てほしいと言ったとき、ちゃんと応えられるようにしたい。息子の「瞬間」は、どれも等しく大切なものだ。


まー、言うてるけどね。
息子が「運動会」をしているであろう時間、仕事しながらひそかに泣いてた。
本番が見られなかったことがさみしいとかくやしいとか、そんなんじゃない。
かけっこする息子、ダンスする息子を妄想してたら、もうかわいくてかわいくて。上手にできたねえ、かっこいいねえって頭ん中で考えてたら、泣けた。
もう脳内息子だけで白いごはん5合は食べられる。満腹。

何のはなし?息子がかわいすぎるっていうはなし。

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