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カップはひとつじゃない‐飲みものに合わせて器を変えるぜいたく‐

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むむです。
今回は「毒親」なるものとは直接関係はありませんが、「実家から出て良かったこと/発見したこと」のひとつを描きました。

戸棚は焼きものだらけはあるある?

こんなピンポイントな出来事を今まで誰かと比較したこともないので、わが家のように、一人につき使えるコップはひとつだけ、という習慣の家庭もあるでしょうし、そんなことにこだわらずに使いたければ使う、という家庭もあるでしょう。どちらが良い悪い、ということでもないので、それだけを見て「ひとつしか使えないなんてひどい家だ!」とは言えないだろうと思います。

そして、戸棚にいつ入手したのかわからないコップや皿があることは、親世代ならよくあることかな、と思います。
今ではあまりないんじゃないかと思いますが(経験値が少ないので一概には言えませんが…)、引き出物などでそういった焼きものを受け取ることもあったでしょう。そういった、他人からいただいたもの、記念品なんかだと捨てにくさはやはりあると思います。わが家は残念ながら、自分の子どもよりも外面を気にする両親でしたので、他人からいただいたもの、となると余計に捨てづらかったことでしょう…

カップ自体に興味はなかった

そういったいただきもので戸棚がいっぱいになっていたため、どれだけ素敵なカップに出会おうとも、「置く場所ないしな…」で終わりました。(逆に言うと、それでも欲しいというレベルのカップに出会ってないのかも知れません)
そもそも、「今紅茶を飲んでいるけれど番茶を飲みたい」となった時は一度洗う、という習慣になってしまっているため、「普段は使わないけど紅茶を飲む時用のカップが欲しいな」などという気も起きませんでした。

子どもの自分としては「昔からあるものだから大切なものなんだろう」「少なくとも自分のものじゃないから勝手に触るのは良くない」「正直デザインも古いので興味もない」という感じで、自分がそれらを使う、という選択肢はありませんでした。もしかしたら、聞けば使えたのかも知れません。「しまうのが手間」とか「ほこりが立つから」とかで断られた可能性もありますが…

得た感動と気づいた思い込み

この時は、「飲みものに合わせて器が選べる」という、それまでになかった自由があることに気づいて半ばカルチャーショックみたいなものを受けました(大げさ)。
そして同時に、「自分で選んでいい」「選ぶ自由がある贅沢を享受してもいい」ということに感動しました。(カップを選ぶぐらいの自由は贅沢ではなくて普通、と今なら思います)
できないことが当たり前だったのに、その(親から課されたとは限らない)制限から解放されると、ものすごく贅沢に感じてしまいます。「カップを選んで飲みものを飲むだけの価値は自分にはないのでは?」とすら思うのですが、その思考こそが、「制限の中に自分を置くのが当たり前」と思い込んでいる表れであることに気づきました。
環境や親からによっての制限と、重ねて親からの虐待によって、自分を無価値と思い込まされ、思い込み、そして無価値でなければいけないと思ってしまっていたのです。

人によって違う「選ぶ」

実家では「使うカップを選ぶ」ということは割れて新調する時以外になく、その新調する時も、いつもレジ横でワゴン売りされている処分コーナーみたいなものの中から選ぶだけでした。そのため、カップに対しての愛着もそれほどなく、必要だから買うだけという感じ。
今回の漫画に出てきているカップについては、正直いただいた時は「今使っているのが割れたら使う…?でもなんかデザインかっこいいしもったいないな…?いつ使えばいいんだ…??」と思っていました…

ところが、パートナーはいただいて思い入れもあるものだからこそ、しまい込むのではなく、大切に使っていく人でした。そして、飲むものによってカップを選び、変える人でした。
飲むものにふさわしいカップを選ぶ、ただそれだけのことで、その飲みものが特別なものに感じられました。そして、なんだかワクワクするような、楽しくなる感覚を覚えたのです。とても新鮮な体験でした。
それから、普段飲む水と違う飲みものを飲む時はカップを選ぶようになりました。
結果、実家ではいちいち洗うのが面倒で距離を置いていた、紅茶やハーブティー(これは実家にいた時には接したことのないアイテムです!)がとても身近になったのです。
カップを選んで紅茶やコーヒー、ハーブティーをいれて飲む。たったこれだけのことで、気持ちが上向きになる。とても素敵なことです。
このささやかな贅沢を、今は日常的に楽しんでいます。

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