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幸田露伴の小説「幽情記⑩ 狂涛艶魂」

幽情記⑩ 狂涛艶魂


 中国の明の末、清の初めは、天下は大いに乱れて戦乱が広がり、人々は生きた心地もしない時代であった。英雄豪傑は蜂起し、或いは明のため或いは清のために戦う。明は李(り)自成(じせい)に転覆され李自成は清に亡ぼされる。明が将(まさ)に絶えようとする時に、身を挺して正義を称え、一身で明の挽回を図った者を鄭成功(ていせいこう)と云う。志(こころざし)は成らなかったが鄭は実に明末の豪傑と云えよう。学余りあって力足りず、国亡びて節義を全うした者に黄宗義(こうそうぎ)がある。悲運であったが宗義もまた明末の英雄である。自らを未だ死なない孤忠の人とし、他人(ひと)からは大空の往く孤影の鶴のように見られた顧炎武(こえんぶ)は、抜群の資質に惨憺の心苦を積み、空論を言わず事実に基づいて論じ、閻若璩(えんじゃっきょ)と共に精緻で核心ある学風を起こす、顧は清初の偉人と言える。閻若璩もまた清初の英傑である。頭が悪く、吃音(きつおん)で、身体が弱く病気がちな劣悪な資質を持って生まれて来た人であるが、発憤努力して苦心惨憺の末についに或る日、心が朗らかに晴れると同時に、覚りの速い異常能力を獲得し一代の大儒学者となる。考証の学問は顧と閻から大いに開発発展する。その他、魏禧(ぎき)や汪琬(おうわん)や朱彛尊(しゅいそん)や侯方域(こうほういき)等による文章、梅(ばい)文(ぶん)鼎(い)による歴算、孫奇逢(そんきほう)による理学、沈荃(ちんせん)による翰墨(かんぼく)のように、英才が革命に際して出ること枚挙に暇(いちま)がない。周亮工もまた実に当時の明星の一ツで、その輝きは現在でもなお残る。

 周亮工、字(あざな)は元亮(げんりょう)、先祖代々金陵の人である。櫟(くぬぎ)の樹の下に永く住んでいたので櫟(れき)園(えん)と名乗った。若くから文才が有り、崇禎(すうてい)の庚辰(こうしん)の年に進士となり、濰(い)地方の知事を授けられたが、後に城を守って功績を上げ御史に抜擢される。やがて都が賊の為に陥落したため、やむを得ず故郷に帰って居た。清の順治二年に清軍が南京を陥落させ、明の福王が清に降伏したため、亮工は明の復興は望めないとして、人心の安寧を図るため清に仕えて政務に務めた。

 亮工は身を挺して専心人民の安寧を図った。このため人民はその恵みを受けて次第に従うようになった。清が初めて八閩(はちびん)(現在の福建省)を治めた頃は、人民はなお明を慕って清に服さなかった。そのため軍は特に治安の悪い泉州の十四砦の人民を軍隊で殲滅(せんめつ)しようしたが、亮工はこれの援護に尽力して、ついにその難を逃れさせたという。しかもその人柄は強く正しく厳しく、大悪人も恐れて避けるばかりであったので、まことに人民に取っては良い行政官であった。それなので、人の為に讒訴(ざんそ)弾劾(だんがい)されて罪をきせられようとした時などは、逮捕されることも懼れない亮工を支持する数百人が、都へ送られる亮工を見送り大声で、「周公は忠直である、どこに罪がある」と云い、悲憤慷慨して大声をあげて泣き叫び数千里の道を見送ったという。亮工が讒訴を被(こうむ)って弾劾されたことが二度あり、これらは皆人民の為に有害な者を除こうとして怨みを買ったものである。亮工にとってはやむを得ないことであった。享年六十二才。

 王丹麓(おうたんろく)の著わす「今世説(きんせせつ)」の巻一に記す。「亮工は角ばった顎のしもぶくれした顔で、眼光鋭く性格は厳格、役所では敢て役人達を甘やかさず、好んで将来性ある者を見出す。常にノートを座上に置き、客が人材某々と云えば此れに記入する。国の中に読書家や能文家として名のある者があればこれに会い、これはと思えば適材を適所に採用する。知る限りの者を残さず採用して愉快とする。善いものに気付けばこれを取り上げ、ただ気付かないことを懼(おそ)れる」と。閩(びん)に居た時に、死んで葬式の出せない貧乏詩人の趙十五(ちょうじゅうご)と陳淑度(ちんしゅくど)と云う者のために官費を出して之を葬り、墓を建て酒を注いだ等は、実に才士を愛し憐れんだことが想われる。

 また、その巻二に記す。「亮工が八閩を視察した時に反乱に遭う。居城の周囲に火が放たれ、鉦(かね)や鼓の声は地を揺るがす。しかし亮工は少しも驚かず、能く指揮を執って敵を倒し、詩を吟じて神人のようであった」と云う。

 巻四に、讒訴を受けて甚だ危なかった時のことを記す。「亮工が雪の夜に室(へや)の中に座って居ると、突如投獄の兵が来て周囲を取り囲む。その時、黄山(こうざん)の呉冠五(ごかんご)と共に詩を作り朗詠して、数十刻しても止まず」と。また「嘗て獄舎に座していると、獄卒が騒ぎ立て、鎖の音や呼び喚く声が湧くようであった。その騒ぎの中で亮工は紙と筆を乞い三十三の絶句を作った」と云う。亮工の度量は称賛に価するではないか。しかも亮工が讒訴されて最早死のうとする時に、父の赤之(せきし)は客に対して、「私の熟慮するところ、吾が子を死罪にするに足る理由はありません。吾が子は私同様な者なので、道理に反した事をして死ぬようなことはありません。やがて罪は雪(そそ)がれるでしょう。」と云って、泰然自若としていたという父の見識も称賛に価するでは無いか。


 亮工の人となりはこのようであった。許有介(きょゆうかい)は之を評し称えて、「周氏は秋月を面(おもて)に湛え、春風は人を扇ぐ」と。申鳧盟(しんふめい)は亮工を慕って云う、「未だ亮工に会っていないこと、未だ大海を見ていないこと、この二ツが私の欠けるところである」と。福建省の黄虞稷(こうぐしょく)などに至っては、品評甚だ詳しく、詳細にこれを称賛して云う、「周亮工は仕事に精しく能く通じ、暴徒を取り鎮める状(さま)は、実に張乖崖(ちょうかいがい)のようである。そのしばしば雑多な人の中から優秀な人材を見出すことは虞升卿(ろしょうきょう)のようで、その文章に勝れ後輩の手本となることは欧陽永叔(おうようえいしゅく)のようで、その博学多聞で広く深く探求するところは張茂先(ちょうもせん)のようで、その風流に勝れ訪問客の多いことは孔北海(こうほっかい)のようで、その心の異書を好み酒を愛することは陶淵明のようで、その友情に篤く信用できるところは朱文季のようで、その子供のような友との友愛に満ちた隔ての無い交際は、荀景倩と李孟元との仲のようで、その朝廷に仕えて短期で罷免されたことは范希文のようで、しかも讒訴され挫折を被ったのは蘇長公のようである」と。亮工の人品好く、能あり、徳あり、才あり、学あり、風流ありの人柄を知ることができる。銭謙益は明と清の二朝の大官で文学者であったが、亮工について、「亮工の人となりは、親に孝、君に忠、毅然とした巨人であり長徳の人である」と云い。かつ友情に篤く、人々の仰慕とするところであったことを揚げている。亮工はまことに懐かしい人である。

 亮工は善く政務を執り、また武事にも配慮し、しかも繊細で多趣味であった。詩文に巧みで「頼古堂集」十二巻があり、絵画を楽しんで「読画録」四巻があり、篆刻(てんこく)の文や玉石の印などを欣賞して「印人伝」三巻があり、多くの文芸雑事を記して、時に戯曲の韻話に言及し、後人の研究資料となる「因樹屋書影」四巻がある。その他撰述するもの数十種に及ぶ。


 亮工はこのような人であった。情が厚く心が深い。当然のこと情けの天(そら)に恨みの雲が幾重にも重なるような哀しみや、想いの海に愁いの波が果てしなく拡がるような歎きなども、有ったことであろう。亮工の詩を読むと果して一ツの事があって、有情の人まさにこのような事もあるかと思わせる。

 その事とは亮工の愛妾の王氏との事である。王氏は宛丘(えんきゅう)の人で、父が老書生なので、父の教えを受けて文字を知り詩をつくる。十六才の時に亮工の愛妾となってから、慧敏な頭は次第に発達し日々に成長する。詩を能くし、仏を理解し、尋常一様な女性たちを数歩抜く。亮工が青陽城を守っていた時はこれに従って戦陣に在り、また亮工が庚(こう)から辛(しん)を通り、相(そう)・懐(かい)から燕京に入って北海に行く時などは、烽煙が心を驚かし雨雪が顔に注ぐ中を、馬上にて数千里を追随した。時に亮工が北海城で包囲された時は、亮工は困苦しながらもなお豪気に臨機応変に軍事を治め、日々門を開いて応戦しながら、夜は城楼の灯火の中で詩を作り思いをはせる。コレ則ち男子当然の行為(おこない)であるが、王氏は亮工が詩を作る度にこれに協力して、戦陣の苦労を風雅の思いで緩めたという。これは真(まこと)に女子の身では殆んど有り得ないことで、剣光は陽に輝いて人の眼をおびやかし、馬塵は月夜に揚がって夢を汚す戦陣の中に在って、紙をのべて詩を作る文人と、笑いを含んで詩を和す美姫の悲しくも傷ましい境遇は、描くに足り語るに足る状景である。

 これ程の二人であれば、その語らい、その睦(むつみ)はどれほどお互いにとって楽しかったことであろう。しかし美しい雲は散り易く、明るい星は隠れがちである。王氏は亮工の伴(もと)にあること七年、年僅か二十二才で病んで維楊(いよう)の官舎で死ぬ。その将(まさ)に死に臨んでの言葉は能く王氏の人となりを現わす。王氏は亮工の手を執って云う、「私は情の為に累らわされて来ましたので、二度とこの世に生まれて来たいとは思いません。幸いなことに比丘尼として死ぬことができます。君の城上の詩を出来れば一通書き写し、それに私が和したものを併せて、之を左に置いて、茗椀と古墨と平素佩(お)びている刀を右に置いて、その上に観音大士の像を置き、左手に念珠を持ち、右手には君の名と学陶の字がある彼(か)の小さな玉印を賜ってこれを握って逝きたいと思います。幸いに仏力によって解脱して、二度と情の世界に輪廻することも無いでしょう」と。情が深ければ心は常に苦しみ、愛が熾(さか)んであればどうして愁いの尽きることがあろう。王氏が二度とこの世に生まれ無いことを願うのは、亮工を思う切なる心を語るものであり、亮工のその時の悲苦を推察することができる。

 愛妾が死んで後三年、亮工はこれを忘れられず、しばしば夢で逢い、覚めては詩を作り、之を泣き悲しんでは胸塞がり、句を作ることが出来なかったという。無情の世に有情の人、契りは短く思いは多い。亮工が忘れることの出来なかったのも頷ける。已丑の年と云えば清の順治六年のことである。この時には天下の殆んどが清のものとなっていたが、明が将(まさ)に亡びようとする時に際して、一縷(いちる)の命脈(めいみゃく)である永明王を戴いて、鄭成功(ていせいこう)の忠義はたった一人で大廈(たいか・明朝)の倒れるのを支える。大勢は決するといえども、鉄石は屈しない、画策に努め、慷慨して止まず、時に苦闘して勝ちを得れば、則ち灯火が風を得て炎を揚げるようであった。順治二年に南京は清に落とされ、三年に福建も陥れられたけれど、四年には鄭成功は功績によって国姓を賜って国姓爺と名乗り、五年には潼州を破って勢いを盛り返す。順治六年(明の永暦三年)、鄭成功は衆を率いて攻め込む。亮工は既に清の官であり、兵を率いてこれを守る。軍馬や機器を備え、城壁や塹壕を固めて防御おさおさ怠りなく準備していたが、鄭成功は海賊の鄭芝竜(ていしりゅう)の子で水軍が得意なので、守る者も水上の防備を疎かに出来ないので、亮工は軍を海上に配置して、自身も先陣の中で活躍する。

そ の夏の事である。亮工は或る日戦艦に在ったが、雲驚き風は暴れて、波涛は轟き海鳥は悲しみ鳴いて、空は墨のように、周囲は暗く霞んで、ただ水煙が辺り一面に立ち籠める恐ろしい魔の一日となる。空は暴れ海は乱れ、明と清の軍は喊声(かんせい)を発し矢叫(やたけ)びを挙げて、日の光は暗く、両軍は怒りを飛ばし恨みを奔らせ、波の勢いは激しさを増す。今の世の状(さま)、此の日の態(さま)、攻める者は王のために努める、彼が何で悪かろう。守る者は民の為にする、我に非は無い。ただ運は萎(な)え時は背(そむ)いて、世は穏やかでなく、風は急に水は動いて、海が荒れるのも仕方ない。短い人生であるのに、天晴(てんせい)海静(かいせい)の和楽の日は少なく、風妬波瞋(ふうとはしん)の惨苦の境地の何と多いことかと、現世の不満から亡き人を恋い慕い、頻りに王氏が憶い出され想い出されて已まない、雲は黒く空は暗く、潮曇りの暗い海上の船倉の中で、風は呻(うめ)き、浪は呻き、物の軋り呻く声を聞いて、心も暗く囚われる時、王氏の霊はついに影を現した。亮工自ら記して云う、「ついに霊が来て手を握って涙を流す、生きているようであった」と、王氏の霊が果して来たのか、亮工の思いが凝り固まって現れたものか、人はただ亮工の言葉を信じれば善い。亮工ここに嘆いて詩がある。七律八章、明白に現在に遺(のこ)る。その一に云う、


  波涛は鞺鞳として 客心降る、

  遠き夢は煩わすこと無し 夜の釭(ともしび)を待つを。

  芳草 路は迷いて 烟(けむ)り漠々(ばくばく)たり、

  雲車 風転(めぐ)りて 水淙々(そうそう)たり。

  木は銜(ふく)まれぬ 精衛(せいえい) 寧ろ潤(ひろ)きを知らんや、

  珠(たま)は滴りて 鮫人(こうじん) 竟(つい)に双(なら)ばんと欲す。

  躑躅(てきしょく)として訪(と)う 郎(ろう)が戦苦の処、

  烏龍(うりゅう)の江(こう)は透る 白龍の江。

(大波はドウドウと荒れ狂い心細さが募る。夜を待たず昼間の海にお前は現れる。霊は烟雲が広く遙かに続く中に迷い出て、雲は動き波は音立てて躍る。精衛もこの海の広さは分かるまい。涙は滴って鮫人の落とすような真珠となる。佇んで見守る私の苦戦の処。この海は烏龍江や白龍江につづいている。)


 王氏の霊が来たのは昼なので第二句がある。芳草雲車の一聯(いちれん)は、彼と此れと、幽と明とをかけて写し得ておもしろく、精衛鮫人の故事を使って浮つかず、烏龍江白龍江の一句は土地が隔たり、境も異なるが、遠路を極く近いように云って妙趣がある。その四に云う、


  香粉の塋(はか)の中に 佩刀を葬りぬ、

  月明に 起って舞いなば 鬼も能く豪ならん。

  新銘 嘱(たの)み記す 前金粟(ぜんきんぞく)、

  小伝 歓び携(たずさ)う 旧学陶。

  百雉(ひゃくち) 城は高くして 白浪驚き、

  鴛鴦 夢は冷ややかにして 江(こう)皐(こう)を憶う。

  依稀(いき)として 更に見る帷中の面(おもて)、

  玉歩 声は揺らぐ 大海涛(だいかいとう)。

(化粧の匂いのする墓の中に、日頃携行する愛刀も納めた。月明に起って舞えば化け物も驚こう。希望通りに新銘は前金粟と記し、学陶の印を喜び携えて逝った。共に籠った城は高く聳え、白浪に浪は荒れ、相愛の時は遠く寂しく過ぎて、昔日の川辺を想う。海靄の中で顔も幽かにお前は歩み寄り、大波の中に声が揺らぐ。)


 佩刀を葬るの句は実際の出来事、月明の句は架空の出来事、王氏自ら金栗如来の弟子と称したので第三句がある。学陶の印を携えて逝ったので第四句がある。白浪は亮工と王氏が共に籠った城の西に在る河の名。末二句は今の情景を描写したもの。その六に云う、


  海天 漠々として 旅魂招く、

  聚散(じゅうさん)す 来潮と 退潮と。

  憶う莫(な)し 房中 緑綺(りょくい)を調えるを、

  猶聞く 城上 金鐎(きむしょう)を撃つを。

  相・懐 馬は痩せて 烽烟直(すぐ)に、

  斉・魯 車は軽くして 氷雪注(そそ)ぐ。

  往時 同伴に従って問い難し、

  白楊 樹下 雨瀟々(しょうしょう)。

(海も天も広々と果てしなく、さまよう魂を招く。波は押し寄せ波は還す。寝屋の中で衣を調えようともせず、猶も聞く城上で鐘を撃つのを。同伴の馬は痩せて、烽烟は真直ぐ上る。斉や魯では空の車に氷雪が降り注いだ。往時の同伴についてはもはや訊けない。白楊の樹下、雨は瀟々と降っている。)


 憶う莫しの句から斉魯の句までは、王氏と共にした艱難の状(さま)を叙し、末の句に至って憮然(ぶぜん)と長歎して悲しみの情は傷ましい。その八に云う、


  衆香國裡(しゅうこうこくり)の水仙王、

  薜茘(へきれい)の裳は垂る 碧玉の璫(とう)。

  草色(そうしょく) 孤墳(こふん) 白下(はくか)に新しく、

  簫声(しょうせい) 明月 維陽旧(ふ)たり。

  依違(いい)として夢は 江(こう)渚(しょ)を離れず、

  辛苦して魂は能く 海航を認む。

  爾(なんじ)に贈らん 冰糸(ひょうし)千萬尺、

  一糸(いっし)も更に 鴛鴦を綉(ぬ)う莫(なか)れ。

 (衆香國の水仙王は、薜茘(へきれい・かずら)の裳に碧玉の飾りが垂れる。白下の地の草の色も孤墳も新しく、維陽の地に簫の声は明月の下に昔ながらに響く。おぼろな夢は水辺を離れず、辛苦の魂は海にさ迷う。お前に千萬尺の氷の糸を贈るが、一糸たりとも鴛鴦を縫ってはいけない。)


 白下維陽は皆実際の地名である。末二句は虚に憑(よ)るといえども、慧刀(けいとう)で情を切り、仏力で悟りを成さんと云った王氏の誓願に因んで表現した辞(ことば)である。八章の詩皆佳し、今は煩労を嫌ってその他の詩は略す。亮工はどんなに深く王氏を愛していたことか、王氏もまたどんなに亮工を思っていたことか、誓って二度と情の世界に生れないと云ったこともおもしろく、想って忽ち海上に来たのもおもしろい。

(大正四年十一月)


注釈

・李自成:中国・明末の農民反乱の指導者。明に対して反乱を起こし明を滅ぼす。

・鄭成功:中国・明代の軍人で政治家。清に滅ぼされようとする明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となる。隆武帝から明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれ、台湾や中国では民族的英雄となっている。

・黄宗義:中国・明末清初の儒学者。明の滅亡に際して反清運動に参加するが後に故郷に隠棲して学術に没頭、陽明学右派の立場から実証的な思想を説き、考証学の祖と称された

・顧炎武:中国・明末清初の儒学者。明の滅亡に際して反清運動に参加した。経学や史学の傍ら、経世致用の実学を説いた。清朝考証学の祖の一人。

・閻若璩:中国・清初期の考証学者。

・数十刻:一刻は中国では15分、よって数時間

・茗椀:茶碗

・古墨:古い時代に作られた墨。品質の良い墨とされている。

・精衛:古代中国の夏を司った炎帝の娘が東海で溺れて化した鳥。常に西山の木や石を咥え来て東海を埋めようとしたが果たせなかったという。

・鮫人:南海の水中に住み、いつも機(はた)を織っていて、その涙は落ちると真珠になるという。

・衆香國:維摩経の中に在る香積如来菩薩の住む国。

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