見出し画像

幸田露伴の小説「観画談②」

 「頼む」
と余り大きく無い声で云ったのだが、ガランとした広い土間に響いた。
それでも塵一ツ動くこと無く、何の音もすること無く静かであった。外にはサアッと雨が降っている。
 「頼む」
と再び呼んだ。声は響いた。答えは無い。サアッと雨が降っている。
 「頼む」
と三たび呼んだ。声は呼んだ人の耳に返って響いた。しかし答えは何処からも起こらなかった。外にはただサアッと雨が降っている。
 「頼む」
また呼んだ。例のように暫く音沙汰が無かった。少し焦れてまた呼ぼうとした時に、イタチか大ネズミかが何処かで動いたような音がした。するとやがて人の気配がして、左方の上り段の上に閉じられていた間延びした大きな障子が、ガタガタと開かれて、斑汚(むらよご)れした鼠木綿(ねずみもめん)の着付けに白が鼠色に変色した帯をグルグルと所謂(いわゆる)坊主巻き巻いた、五分刈りでは無い五分生えに生えた頭の、十八か九の書生のような寺男のような若僧が出て来た。晩成先生もだいぶ遊歴に慣れて来たので、ここで宿泊謝絶などされては堪らないと思うので、ズンズンと来意を要領よく話して、白紙に多少銭(いくらか)を包んで押し付けるようにして渡して仕舞った。若僧はそれでも坊主らしく、
 「しばらく」
と型どおりに、挨拶を保留して置いて奥に入った。奥はだいぶ深いのか何の音も聞こえて来ない。シーンとしている。外ではサアッと雨が降っている。
土間のちがう方向で音がしたと思ったら、若僧が別の口から土間へ下りて、小盥に水を汲んで持って来た。
 「マ、とにかく御濯ぎなさって御上がりなさいまし。」
 シメタと思って晩成先生は泥靴を脱ぎ足を洗って案内されるままに通った。入口の室は茶の間と見えて大きな炉の切ってある十五六畳の室であった。そこを通り抜けて、一畳巾に五六畳を長く敷いた通路みたいな薄暗い部屋を通ったが、茶の間でもその部屋でもところどころ、足で踏むとボコボコと根太板(ねだいた)が弛んで浮いているかヘンな音がした。
 通されたのは十畳ぐらいの室で、そこには大きな低い机を横にして、此方(こちら)に向き直っている四十ばかりの日に焼けた赫(あか)い顔の丈夫そうな坊主が、赤や紫が見える可笑しいほど華美ではあるが、しかしモウ古びて馬鹿に大きい厚い座布団の上に、小さい丸い眼を出来るだけ見開いてムンズと座り込んでいた。麦わら帽子を冠らせたらテッペンで踊りを踊りそうな尖り頭に能く実が入って居て、これも一分刈りでは無い一分生えの髪に、厚皮らしい赫い地肌が透いて見えた。そしてその割には小さくて素敵に堅そうな首を発達の好い丸々太った、豚のような広い肩の上にシッカリ挿(す)え込んだようにして、ヒョロヒョロと風に揺らぐ柳のように入り込んだ大器氏に対して、一刀をピタリと片身青眼につけた形に手強い視線を投げかけた。晩成先生いささかたじろいだが、元来が正直な君子で仁者敵なしであるから驚くことも無く、平然と座って、来意を手短に述べて、それからここを教えて呉れた遊歴者の噂をした。和尚はその名を聞いて合点したのか急にくつろいだ様子になって、
 「アア、あの風吹き烏から聞いておいでなさったかい。ようござる、何時まででもおいでなさい。どこでも空いてる部屋に勝手に陣取らっしゃい。その代わり雨は少し漏るかも知れんよ。夜具はいくらもある、綿は堅いがな。馳走はせん、主客平等と思わっしゃい。蔵海(ぞうかい)、風呂は門前の弥平爺に云いつけての、明日から毎日立てさせろ。無銭(ただ)では悪い、一日に三銭も遣わさるように計らえ。疲れてだろう、足を伸ばして休息できるようにしてあげろ。」
 蔵海は障子を開けて庭に面した縁に出て案内した。後に付いて縁側を折れ曲がって行くと、同じ庭に面して三ツ四ツの装飾も何も無い空室(あきま)が在って、縁の戸は光りを通すだけのために三四寸位づつしか開いていなかったので、中はもう大いに暗かった。ここが宜しかろうと云う蔵海の言葉のままにその室の前に立っていると、蔵海はそこだけ雨戸を繰(く)った。庭の樹々は皆雨に悩んで居た。雨は前にも増して恐ろしい量で降って、老朽してジグザグになった板庇からは雨水がシドロモドロに流れ落ちる。見ると軒の端に生えている忍草(しのぶくさ)が雨に叩かれて、あやまった、あやまったと云うように叩頭(おじぎ)しているのが見えたり隠れたりしている。空は雨に鎖されて、ただでさえ暗いのに、夜がもう迫って来る。中々広い庭の向こうの方はもう暗くなってボンヤリとしている。ただもう雨の音だけがザアッとして、空虚に近い晩成先生の心を一杯に埋め尽くしているが、フと気が付くとそのザアッと云う音のほかに、また別のザアッと云う音が聞こえるようだ。気を留めて聞くと確かに別の音がする。ハテナ、あの辺かしらと、その別の音のする雨煙で濛々とした方へ首を向けて眼を遣ると、もう心安くなった蔵海が、一寸肩に触って、
 「あの音のするのが滝ですヨ、貴方が風呂に立てて入ろうとなさる・・」と云いかけて、少し置いて、
 「雨がひどいので今は能く見えませんが、晴れていればこの庭の景色の一ツになっているのです。」
と云った。なるほど庭の左の方の隅は山が張り出していて、その鬱蒼とした樹木の中から一条の水が落ちているらしく思えた。
 夜になった。茶の間に呼ばれて、和尚と晩成先生と蔵海は食事を共にした。なるほど御馳走は無かった。冷たい挽割飯(ひきわりめし)と大根葉の味噌汁と車麩(くつまぶ)と、何だか正体の分からない山草の漬物だけで、膳だけは創だらけだが黒塗りの宗和膳と云う奴で御客用ではあるが、箸は黄色い粗末な漆塗りの竹箸で、気持ちの悪いものであった。蔵海は人に接する機会の少ないこのような山中の若者なので、新来の客から何等かの耳新しい話を聞きたいようであるが、和尚は人に求められれば仕方ないから自分の知っていることは惜しまないが、人からは何も求めないと云う態度で、別に雑話を聞きたいとも聞かせたいとも思っていないようで、食事が済んで、しばらく三人が茶を飲んでいる時でも、別に会話を弾ませるようなこともしないので、晩成先生はただ僅かに、この寺が昔は立派な寺であったこと、寺の庭のズッと先は渓谷で、その谷の向こうは高い巌壁になっていること、庭の左の方も山になっていること、寺と門前の村のある辺り一帯は一大盆地を成していること位の、地勢の概略を聞くことが出来ただけであったが、蔵海も和尚も、時々風の具合でザアッと云う大雨の音が聞こえると、一寸暗い顔をして眼を見合わせるのが心に留まった。
 大器氏は指定された室へ戻った。堅い綿の夜具が与えられた。所在無い身を直ぐにその中に横たえて、枕もとのランプの芯を小さくして寝たが、何となく寝付かれなかった。茶の間の広いところに薄暗いランプ、何だか各々の影法師が思い出されるような心地のする寂しい室内の、雨音が聞こえる中で簡素な食事を黙々として取った光景が眼に浮かんで来て、自分が何だか今までの自分で無い、別の世界の別の自分になったような気がして、マサカ死んで別の天地に入ったのだとは思わないが、どうも今まで感じたことも無い妙な気がした。しかし、「何だ、下らない」と思い直して眠ろうとしたけれども、やはり眠れない。雨は恐ろしく降っている。まるで太古から未来永劫まで大きな河の流れが流れ通すように雨は降り続いていて、自分の生涯の中の或る日に雨が降っているのではなくて、降り続く雨の中に自分の短い生涯が一寸挿入されているかのように、雨は降っている。で、それがまた気になって眠れない。ネズミが騒いで呉れたり犬が吠えて呉れたりしたら嬉しいのにと思うほど、他(ほか)には何の音も無い。和尚も若僧も居ないかのように静かだ。イヤまったく我が五感が感じる世界には居ないのだ。世界と云うものは広大なものだと日頃は思っていたが、今はどうだ、世界はただ是れ、
 「ザアッ」
と云うものに過ぎないと思ったり、また思い返して、このザアッというものが世界なのだナと思っている中に、自分の生まれた時に挙げたオギャアオギャアの声も他人(ひと)がギャッと云った一声も、それから自分が本で読んだり、他の子供が本を読んだり、唱歌を唄ったり、嬉しがって笑ったり、怒って怒鳴ったり、キャアキャア、ガンガン、グズグズ、シクシク、いろいろな事をして騒ぎまわったりした一切の音声も、それから馬が鳴き牛が吠え、車がガタつき、汽車が轟き、汽船が波を切り開く一切の音声も、板の間に一本の針が落ちる微かな音も、みな残らず一緒になってあのザアッと云う音の中に入っているのだナ、と云うような気がしたりして、そして静かに耳を傾けて丁寧に聞くと、明らかにその一ツのザアッと云う音の中にいろいろなそれ等の音が確かにあることが分かって、アアそうだったかナ、などと思ううちに、何時の間にかザアッと云う音も聞こえ無くなり、聞く者も正体がなくなり眠りに落ちた。
 突然眠りは破られた。晩成先生が眼を開くと世界は紅い光や黄色い光に満たされていると思ったが、それは自分が薄暗い思っているのに相違して、室の中がランプで明るくされていて、そしてまた、その他(ほか)に提灯などが自分の枕辺に照らされていて、眠りに就いた時と大いに違っていたのを、寝ぼけ眼に映って感じたことだと解った。見れば和尚も若僧も自分の枕辺に居る。何が起きたのか分からなかった。怪訝な気持がして直ぐには言葉も出なかったが、起き直って二人を見ると、若僧がマズ口をきった。
 「お休みになっているところを御起こして済みませんが、前日からの雨があの通りひどくなりまして、谷が急に膨(ふく)れて参りました。御承知でしょうが奥山の出水は馬鹿に速いものでして、モウ境内にさえ水が見え出して参りました。もちろん水が出たとしても大事には成らないでしょうが、この地の谷川の上流は恐ろしく広い緩傾斜の高原なのです。昔はそれが密林だったので何事も少なかったのですが、十年ばかり前に悉くを伐採した為に禿高原になって仕舞って、一寸した大雨でも相当に谷川が怒るのでして、既に当寺の仏殿は最初の洪水時に、流れ下って来た巨材の衝突で一角が破れて遂に破壊してしまったのです。その後は上流には巨材などは有りませんから、水は度々出ますが大したことも無く、出るのも早いが退くのも早くて、直(じき)に翌日(あくるひ)は何の事も無くなるのです。それで昨日からの雨で谷川はすでに溢れましたが、水がどの位で止まるか予想できません。しかし私共は慣れておりますし、ここを守る身ですから逃げる気もありませんが、貴方には少なくとも危険・・は有りますまいが余計な御心配をさせたくありません。幸いこの庭の左高方(ひだりこうほう)の、あの小さな滝の落ちる小山の上は絶対に安全で、そこに当寺の隠居所の草庵があります。そくへ今のうちに移って頂きたいのです。私が直ぐに御案内致します。手早く御仕度をなすって頂きます。」
と、終りの方は命令的に、早口にまくし立てた。その後について和尚は例の小さな円い眼に力を入れて見渡しながら、
 「膝まで水が来るようだと歩けんからノ、早く身づくろいなすって。」
と追い立てるように警告した。大器晩成先生は一トたまりも無く浮き腰になって仕舞った。
 「ハイ、ハイ、御親切に、有難うございます。」
と少しドギマギして、震えてはいないだろうかと自分でも恥ずかしいような弱い返事をして、慌てて衣服を着けて支度した。もちろん少し大きい肩から掛ける鞄と、風呂敷包一ツ、蝙蝠傘一本、帽子、それだけなので直ぐに支度は出来た。若僧が提灯を持って先に立った。この時になって初めてその服装(みなり)を見ると、依然として先刻のねずみ色の衣だったが、例の土間の所へ来ると、そこには簔と笠が揃えてあった。若僧はマズ自ら尻を高く端折(はしょ)って蓑を手際よく着けて、そして大器氏にも一ツの簔を着けさせ、竹皮の笠を被らせ、その紐をきつく結んで呉れた。きつ過ぎたので口を開く事も出来ないくらいで、随分痛かったが、黙って堪えると、若僧は自分も傘を被って、
 「サア」
と先へ立った。提灯の灯はガランとした黒い大きな台所に憐れな威光を弱々と振った。外は真っ暗で、雨の音が例のようにザアッとしている。
 「気を付けてあげろ、ナ。」
と和尚は親切だ。高々とズボンを捲り上げて、古草鞋を着けさせれた大器氏は、何処へ行くのか分からない真っ暗闇の雨の中を、若僧に随って出た。外に出ると驚いた。雨は横降りになっている。風も出ている。川鳴りの音だろう、何だか物凄い不明の音がしている。庭の方へ廻ったようだと思ったが、建物を少し離れると、なるほどモウ水が来ている。足の裏が馬鹿に冷たい。親指が没する、踝(くるぶし)が没する、足首が没する、ふくらはぎ辺りまで没すると、モウだいぶ谷の方から流れて来る水の勢いがハッキリこたえる。空気も大層冷たくなって、夜雨の威力がヒシヒシと身に沁みる。足が恐ろしく冷たい。何だか分からない痛いものに足の指を突っかけて、危うく大器氏は転倒しそうになって若僧に捉まると、その途端に提灯がガクリと揺らめき動いて、簔の毛に流れている雨の滴(しずく)をキラリと照らし出したかと思うと、雨が入ったか滴が入ったからであろう、灯がチュッと云って消えてしまった。風の音、雨の音、川鳴りの音、樹木の音、ただモウ天地はザアッと、黒漆のように黒い、闇の中に音を立てているだけだ。晩成先生は泣きたくなった。
 「ようございます、今更帰ることもできず、提灯を点ける事も出来ませんので、私がコチラを持つので貴方はソチラを持って、決して離してはいけませんよ、闇でも私は行けるので、恐れることはありません。」
と蔵海先生実に頼もしい。平常であれば一ト通りの意地が無くもない晩成先生も此処に至っては他力本願になって仕舞って、ただモウ世界で頼れるのは蝙蝠傘一本で、その蝙蝠傘の此方(こちら)は自分が握っているが、彼方(あちら)は真の親切者が握っているのか狐狸(こり)が握っているのだか、妖怪変化、悪魔のたぐいが握っているのだか、サッパリ分からない闇の中を、とにかく後生大事にソレにすがって歩いた。
 水は段々足に触れなくなって来た。爪先(つまさき)上りになって来たようだ。やがて段々勾配が急になって来た。明らかに坂道になって来た。雨の中でも滝の音は耳近くに聞こえた。
 「モウここを上りさえすれば好いのです。細い路ですからネ、私も路で無いところへ踏み込むかも知れませんが、転びさえしなければ、草や樹で擦りむくくらいですから驚くことはありません。転んではいけませんよ、ソロソロと歩いてあげますからネ。」
 「ハハイ、有難う。」
と全く震え声だ。どうして中々足が前へ出るものでは無い。
 「コウなると人間に眼が有るのは、余り有り難くありませんネ、盲目の方が余程便利です。アッハハハハ。」
と蔵海の奴、流石に仏の飯で三度の始末をつけて来た奴だけに、大禅師みたいなことを云ったが、晩成先生はただもうビクビク、ソワソワで、批評の余地などは、怖いことが喉元過ぎるまでは有り得なかった。
 路はひとしきり大いに急になり且つまた狭くなったので、胸を突くような感じがして、晩成先生はついに左手こそ傘に捉まっているが、右手は痛いのも汚れるのもかまっていられないので、一歩一歩地面を探るようにして、まるで四足獣が三足で歩くような恰好で歩いた。随分永い時間を歩いたような気がしたが、苦労の時は時間を永く感じるものなので、実際はそれ程でも無かっただろう。しかし一町(いっちょう・百メートル)ばかりは上(のぼ)ったに違いない。次第にダラダラ坂になって、上り切ったナと思うと、
 「サア来ました。」
と蔵海が云った。そして途端に持っていた傘の一端を放した。それで、大器氏は不案内の闇中で全くの孤立者(ひとりっきり)になって仕舞ったから、石の地蔵のようにジッと身動ぎもしないで、雨に打たれながらポカンと立ちながら、次の脈拍、次の脈拍を数えるような心持になりながら、次の脈が打つ時に展開する状況をアテもなく待つのであった。
 若僧はそこらで何かしているのだろう、しばらくは消息が無かったが、やがてガタガタ云う音がした。それから少し経って、チッチッと云う音がすると、パッと火が現れて、彼が一ツの建物の中の土間にしゃがんで、マッチを擦って提灯のローソクに灯を点けようとしているのだった。四五本のマッチを無駄にして、やっと火は点いた。荊棘(いばら)か山椒の樹のようなもので引っ搔いたのだろう、雨に濡れた頬から血が出て、それが散っている。そこへローソクの光が映った様子は甚だ不気味だった。ようやくそこへ歩み寄った晩成先生は、
 「怪我をしましたね、お気の毒でした。」
と云うと、若僧は手拭いを出して、「此処でしょう」と云いながら顔を拭いた。みみず腫れの少し大きい位で大したことでは無かった。
 急いでいるからであろう、若僧は手拭いを出して雑(ざっ)と拭いて、提灯を持ったままズンズンと上がり込んだ。四畳半の茶の間には一尺二寸位の小さな囲炉裏が切ってあって、竹の自在鉤の煤けたのに小さな茶釜が黒光りして懸かっているのが見えたかと思うと、若僧は身を低めた敬虔な態度になったが、直ぐに仕切りの襖を開けて次の間に入ろうとした。土間からオズオズ覗いて見ていた大器氏の眼には、六畳位の部屋に厚い座布団を敷いて死んだように孤座していた老僧が見えた。黄色い塑像のようで、生きている者とも思えない位であった。銀のような髪が五分ばかり生えて、細長い輪郭の正しい額の七十位の痩せ枯れた人ではあったが、突然の闖入に対しても身じろぎせず、少しも驚く様子が無く落ち着き払った態度で、まるで今まで起きていた者のようであった。特に晩成先生が驚いたのは、蔵海がその老人に対して何も言わないことであった。そしてその老人の側(かたわ)らのランプに点火すると、蔵海は振り返って大器氏に上に上るように促した。大器氏が慌てて足を拭って上ると、老僧はジーッと細い眼を注いでその顔を見つめた。晩成先生は急に挨拶の言葉も出なくて、思わず丁寧にお辞儀をさせられて仕舞った。そして頭を挙げた時には、蔵海が頻りに手を動かして麓の闇の方を指さしたりして何かしていた。老僧は頷いていたが一言も云わない。
 蔵海はさまざまに指を動かした。真言宗の坊主が印を結ぶようなことを極めて速くするので、晩成先生は呆気に取られて眼をパチクリさせていた。老僧は極めてユックリ軽く頷いた。すると蔵海は晩成先生に対して、
 「この方は耳が全く聞こえません。しかし慈悲の深い人ですから御安心なさい。デハ私は帰りますから」
と云っておいて、はじめの無遠慮な態度とはスッカリ違って、丁寧に老僧に一礼した。老僧は軽く頷いた。晩成先生が一寸会釈をすると、若僧は落ち着いたテキパキした態度で、かの提灯を持って土間に下り、簔笠を着けるや否や忽ち外に出て、物静かに戸を引き寄せ、そして飛ぶようにして行って仕舞った。(③につづく)

注解
・仁者敵なし:「論語・子罕二十九」の仁者は憂えずからの敷衍か。
・挽割飯:挽割の大麦と米とで炊いたご飯。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?