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五木寛之全集24巻を片っ端しから読みました‼️

新井慶一です。
コメント。ありがとうございます!

僕は、五木寛之全集24巻を片っ端しから読みました。軽装版を買った。豪華本も出ていました。なけなしの小遣いで買った。確か490円。確か高校生の時。あの頃は、五木寛之さんは、人気がありました。青春の門は、東映映画。監督は、有名な監督でした。映画も全盛期だったのかなぁ。城西大学1年生の時に観ました。パチンコ屋の2階が映画館でした。周りの高崎市柳川町は、まるでカーニバルでもしているかのようにごった返していました。僕には、天国かと思った。アーケード街は、人人で埋まっていた。夕方。映画が終わるとあたりは、ピンク街に様変わりしました。まだ大学生なので、どこにも寄らずに帰ってきた。その頃もいつも一人で遊んでいました。友達もいませんでした。もちろんのこと。彼女どころか、女性と話しもしませんでした。20歳を過ぎ、25歳になるともう大人ですから、〇〇サロンに寄った事もあります。映画館の近くにフランス座があった。あのストリップ劇場です。この点は、ノーコメントとして差し控えて置きます。あまり野暮な事は、聴かないでください。東映映画では、トラック野郎も見た覚えがある。菅原文太と愛川欽也。トラックの運転手は、面白そうだと思った。青春の門は、田中健が伊吹信介。大竹しのぶが幼馴染の織江でした。映画では、まだ蒸気機関車が走っていた。僕は、青春の門は、中学校3年生の時に読みました。ドキドキしながら、コッソリ読む。思春期の少年ならではの、性の話しがいっぱい書いてあった。僕と同じだと思った。群馬県前橋市の本屋。喚呼堂で買いました。喚呼堂は、その当時東京の紀伊国屋書店並のハイレベルな本屋さんでした。喚呼堂に連れて行ってもらうのが楽しみでもあった。父親が本好き。父親の運転で行った。その時は、日産サニーだかそれとも。SUBARU360。この2台のどちらが家にあった。本屋さんには、五木さんも司馬遼太郎さんも平台に置いてあった。ほかには、「ソフィアの秋」短編集と「こがね虫たちの夜」というエッセイも良かった思い出があります。早稲田大学の学生時代の思い出がたくさん書いてあった。何故か羨ましいなぁと思った。

司馬遼太郎の北斗の人もその当時読みました。吉川英治の宮本武蔵もやはりその当時読みました。その影響で県立藤岡高校に入ったら、剣道部に入部。何にでも真剣になってしまうのです。剣道部は、すぐに辞めました。同級生の斎藤から竹の竹刀でメンを打たれた。お面を付けてもあまりの痛さで学校の武道館から、泣いて家に帰りました。斎藤は、喧嘩早くて、クラスメイト達と教室で取っ組みあいばかりしていた。相手は、名うて不良集団。山田とか。大沢とか。飯塚とか。3対1でも相手をやっつけていた。たった一人で数人を相手に喧嘩してました。周りは、みんなまいちゃうなあと思った。不良グループと同じ美土里村から来た、真面目な松原が「辞めろ!止せよ!。」と叫んでた。剣道部ですが。斎藤は、新町中学校から来ていてその次ぐ日には、僕はもう二度と剣道部には行かなくなりました。武道の世界は、向いてない。その当時は。ブルース・リーが大ブーム。空手部は、大人気。でも僕は、柔道も苦手。スポーツは、硬式テニスがイチバン。司馬遼太郎の北斗の人の主人公は、千葉周作。もし読んでない人が居たら、是非読んでください。群馬県藤岡市がいっぱい出てきます。馬庭念流の本元は、群馬県藤岡市白石の宮沢家ですから。JAに勤めいるとき。同級生の家が剣道の師範である事を偶然にも知る。鏑川も出て来て驚きました。なんで司馬遼太郎先生が藤岡市に詳しいのかは、定かではない。ただ。関東軍の将校として、榛名山や赤城山に来ていました。終戦時には、栃木県佐野市の戦車部隊に居たと言います。そのせいで、群馬県に詳しいのだと思った。司馬遼太郎さんは、僕の本は、22歳の頃へのラブレターなんだよ。と講演会で話していた。あーそれで、群馬県なんだ。群馬県に思い出がいっぱいあるだろうなぁと思った。群馬県という所は、桑原畑があたりいちめんに広がり、寒い北風に対抗するかのように桑の木が直角に立っていた。そんな事を書いていた。ほんとうに。群馬県を一言で言い表わしていました。あの頃は、本を良く読む。読書は、楽しく無ければならない。コレが僕の信念でもあった。
和算の大家関 孝和。群馬県藤岡市。コレは確かです。お墓もあるし。石碑もあります。上毛かるたにも出てきます。「和算の大家 関孝和。」群馬県の人は、みんな知っています。
群馬県藤岡市東平井の秋葉神社には、石の彫刻の表札も出きています。
それでは、またよろしくおねがいします!

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