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現実と創造と可能性#2

実のところ、まだギターを始めて1週間程度の身分である。
ギターを手にして1週間が経とうとする中で、当然のことながら「ギターで弾き語りをしたい」という想いに加えて「誰かの前で魅せたい」という気持ちも芽生えてくるわけだが。

如何せん、機会がない。

当然だ。
周囲にバンド仲間がいるわけでも、音楽活動している奴がいるわけでもないのだから。

私は何かをクリエイトすることがしたくて色々なことに手を染めている。
例えば

漫画家になる気もないのにコピックというペンと色紙を買ってイラストを描いてみる。(無論、画力はない)

或いは

ライトノベルが読めるだけでなく執筆もできるアプリを入れて、小説の執筆に挑戦してみる。(無論、未完成である)

など。

しかしどれに於いても志半ばというのだろうか、中途半端なのである。
そもそもそれらを職にするつもりもないし趣味程度のつもりなのだから…と言い訳してみたり。

弾き語りもイラストも小説もただの自己満足だが、誰かに発信したい。
ここで題名へと戻って頂きたい。

"現実と創造と可能性"

要するに、私が何を言いたいのか

【現実】
クリエイトが好き/手をつけているどれもが中途半端/職にする気もなく趣味程度/誰かに発信したい

【創造】
ギターで弾き語りがしたい/イラストを描きたい/小説を執筆したい など

ここに並び【可能性】を考える余地がまだある、ということだ。
ここで【現実】について多角的に考えてみる。

先に上で記述した現実は、あくまでも"私自身"の現実だ。
そこで視野を今の日本に広げて見ると、どうだろう。

現在の日本ではSNSが発達している。
Twitterがある、YouTubeがある、Instagramがある。(他にもあるが省略)

実は自分の知らない人たちへの発信方法など手身近にあるものだった。

街中ではストリートミュージシャンも見かけることもあれば、似顔絵を描いている人もいる。
彼らを否定するつもりなどないし、むしろ尊敬するくらいである。

クリエイトしたものをそのままの鮮度で発信する彼らのように、私は人前に立つことができるだろうか、と考えるわけだ。

つまり、

"現実"では才がない一般人でも"創造"することが好きだという気持ちさえあれば、"現在を生きている"という意味での【現実】では誰かに発信し得る手段が溢れていて、それは誰かに届くかもしれない【可能性】がある、

という結論が私の考える【可能性】である。

ここまで持論を述べてきたのも実は自分がしていることを正当化するためなのかもしれない。

しかし、私は"現実と創造と可能性"に少しばかり夢を抱いているし、賭けてもいる、そしてやはり期待しているのだ。

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