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【訳詩】 Aurelian Townshend, “A Dialogue Betwixt Time and a Pilgrim”

オーレリアン・タウンゼント(fl. 1583–1649?)「時と巡礼者の対話」

原文

Pilgr.
Aged man, that mowes these fields.
Time.
Pilgrime speak, what is thy will?
Pilgr.
Whose soile is this that such sweet Pasture yields?
   Or who art thou whose Foot stand never still?
      Or where am I?
Time.
In love.
Pilgr.
His Lordship lies above.
Time.
Yes and below, and round about
   Where in all sorts of flow’rs are growing
Which as the early Spring puts out,
   Time fals as fast a mowing.
Pilgr.
If thou art Time, these Flow’rs have Lives,
   And then I fear,
Under some Lilly she I love
   May now be growing there.
Time.
And in some Thistle or some spyre of grasse,
My syth thy stalk before hers come may passe.
Pilgr.
Wilt thou provide it may.
Time.
No.
Pilgr.
Alleage the cause.
Time.
Because Time cannot alter but obey Fates laws.
Cho.
Then happy those whom Fate, that is the stronger,
Together twists their threads, & yet draws hers the longer.

Source:
Townshend, Aurelian. Aurelian Townshend’s Poems and Masks. Edited by E. K. Chambers, Clarendon, 1912.

翻訳

巡礼者
この牧草を刈る老いた者よ。

巡礼者よ、話せ、何をお望みだ?
巡礼者
かくも美しいこの草地が産む土は誰のものだ?
 決して静かに止まらぬ足を持つお前は何者だ?
  私は何処にいるか?

愛の中に。
巡礼者
その君主は上におられるが。

そうだ、そして下にも、四方八方に、
 あらゆる種類の花が育つところにも。
その花たちを、早春が始まるときに、
 刈り取りの速さで時が切るのだ。
巡礼者
お前が時ならば、これらの花には寿命があり、
 ゆえに私は恐れる、
百合の花の下で、私が愛する彼女も、
 今育っているということを。

そして、どこかの薊やどこかの草の芽の中で、
私の鎌がお前の茎を彼女より先に過ぎるのを。
巡礼者
青春を与える気はないのか。

ない。
巡礼者
理由を言ってみろ。

時は改まることはできない、ただ運命の法に従うのみ。
コーラス
ならば幸せなのはかく者、時よりも強力である運命が、
二人の糸を共に撚りながら、彼女の糸を長く引く者だ。

コメント

英詩のロマン派にはいわゆる六大詩人(Big Six)——ブレイク、ワーズワス、コールリッジ、バイロン、シェリー、キーツ——がいる(この区分が現代でどれだけ効力を持つかはさておき)ように、形而上派詩人(metaphysical poets)のなかにも、取り上げられることの多い六名の詩人、ダン、ハーバート、クラショー、ヴォーン、マーヴェル、トラハーンがいる。ロマン派に比べれば彼らも(現代ではなおさら)知名度は低いが、「形而上派」という言葉で連想されるのはこれらの名前であり、ジョンソン博士が取り上げたようなカウリーやクリーヴランドも時として挙げられることはあれども、オーレリアン・タウンゼントという名前を真っ先に思い浮かべる人はまずいないだろう。それも無理のないことで、タウンゼントについては伝記的事実も不明なところが多く、作品集(本稿の引用源でもある)が出版されたのも1912年、今や一世紀以上前のことになっている。

しかし、20世紀初頭に形而上派詩人が再評価されたとき、少なくとも、その重要な貢献者T. S. エリオットにとっては、タウンゼントはもっと注目されるべき存在だった。ハーバート・グリアソンによる記念碑的アンソロジー『17世紀形而上派詩選集』(_Metaphysical Lyrics & Poems of the Seventeenth Century_, 1921)への書評でもあるエッセイ「形而上派詩人」(“The Metaphysical Poets”)を締め括るにあたって、エリオットは次のように述べている。

It would be a fruitful work, and one requiring a substantial book, to break up the classification of Johnson (for there has been none since) and exhibit these poets in all their differences of kind and of degree, from the massive music of Donne to the faint, pleasing tinkle of Aurelian Townshend—whose _Dialogue between a Pilgrim and Time_ is one of the few regrettable omissions from the excellent anthology of Professor Grierson.
(_Selected Essays_, Faber and Faber, 1980, p. 291)
ジョンソンによる格付け(彼以降にそれを行った者はなかった)を解体し、ダンの堂々たる音楽からオーレリアン・タウンゼントのかすかで快い、調子の良い響きに至るまで、あらゆる種類と程度の異なる詩人たちを並べることは、実りある仕事であるだろうし、価値のある書物を要するものであろう。もっとも、タウンゼントの「巡礼者と時の対話」は、グリアソン教授による素晴らしいアンソロジーに収録されなかったことが悔やまれる詩の一つではあるが。

エッセイで言及される他の詩と同様、エリオットの詳細な解説や読解は与えられないものの、「時と巡礼者の対話」が「収録されなかったことが悔やまれる」作品として挙げられているのは興味深い。

エリオットの主張の大きなポイントのひとつは、<詩はもっと知的であれ>という考え方だろう。「時と巡礼者の対話」の場合、知的な態度は、その構成にまず表れている。ある巡礼者と擬人化された「時」との対話の後、コーラスが結論的な締めくくりを行うという展開は、情緒的・感情的というよりも論理的な流れをもつ。対話や問答という形式じたい、知の追及と結びついている。また、巡礼という行為は、俗的世界から聖地を求めて信仰を深めることであるが、信仰による真理への接近は知への接近でもある。詩の内容を読む限り、おそらくこの巡礼者は、当時の詩や戯曲でよく描かれた「愛の巡礼者」でもあるから、若い男性だろう。対して、大鎌を持った老人としての時の翁≒死神という伝統的な表象を受け継ぐ「時」は、「老いた者」(“Aged man” line 1)と最初に呼びかけられ、その高齢が強調される。ここには若者と老人という図式がある。若者による問いへ老人が答えるという流れからは、教師と生徒のような関係が想起され、やはり知的な雰囲気が見られる。

ただし、感情と思考という二分法をあえて設定したとき、タウンゼントの詩は完全に思考寄りというわけではない。巡礼者には愛する相手がいて、彼は、その彼女が(時の翁の鎌に刈られる花と同様に)死んでしまうという未来を恐れている。巡礼者の恋という感情の領域に属する事柄も、この詩では明らかに重要な問題である。この点にかんしては、エリオットの次の言葉を参照するべきだろう。

When a poet’s mind is perfectly equipped for its work, it is constantly amalgamating disparate experience; the ordinary man’s experience is chaotic, irregular, fragmentary. The latter falls in love, or reads Spinoza, and these two experiences have nothing to do with each other, or with the noise of the typewriter or the smell of cooking; in the mind of the poet these two experiences are always forming new wholes.
(_Selected Essays_, Faber and Faber, 1980, p. 287)
詩人の精神は、その作品へと完全に整っているとき、つねに異種の経験を融合させているが、一般人の経験は、混沌としていて、不規則で、断片的なものである。一般人は、恋をすることも、スピノザを読むこともあるが、これら二つの経験は互いに無関係であり、タイプライターのノイズや料理の匂いとも無関係である。詩人の精神においては、これら二つの経験はいつも新たな統一体を形成しているのである。

ここでは、いわゆる「感性の分裂」(dissociation of sensibility)の問題が語られている。当時のエリオットは、形而上派詩人において感情と思考は一体になっていたと考え、ふたつを「恋をする」ことと「スピノザを読む」ことに喩えた。この考えを「時と巡礼者の対話」へと接続すれば、次のようになるだろう。タウンゼント(の詩における若き「巡礼者」)は恋をしている。しかしそこから、いかに自分が相手を好きであるかとつらつら述べたり、いかに相手が美しい人であるかを賛美したり、というのでは、感情の次元にとどまっているに過ぎない。そこで、巡礼者と時の翁の対話という設定を立て、時間という(形而上学的な)問題についての問答を用意する。人の死は時の翁の鎌によって刈られるものではあるが、その時の翁も運命というより大きな存在に従っているに過ぎない。それゆえ、可能な限り巡礼者が恋を享受し、可能な限り時の翁が巡礼者の恋を妨げないという、両者の譲歩によるいわば妥協点は、コーラスによって語られる運命のひとつの結末、すなわち、巡礼者と恋人とが共に生き、巡礼者が恋人よりも先に死を迎えるということになる。こうして詩人の感情は、思考のステップと組み合わさることで、詩という有機体を形成する。最後の糸の比喩は形而上派以前の詩風とも重なる神話への古典的アリュージョンであるものの、一連の展開にはたしかに新鮮で知的な、エリオットが言うような、「形而上派」的工夫があるようだ。

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William Hogarth, Time smoking a picture (Wikimedia Commons)

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院生です。主な関心は初期近代(16–17世紀)の英詩。

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