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【訳詩】 William Cartwright, “No Platonique Love”

ウィリアム・カートライト(1611–43)「ノー・プラトニック・ラブ」

原文

Tell me no more of minds embracing minds,
   And hearts exchanged for hearts;
That spirits spirits meet, as winds do winds,
   And mix their subtlest parts;
That two unbodied essence may kiss,
And then like angels twist and feel one bliss.

I was that silly thing that once was wrought
   To practice this thin love:
I climbed from sex to soul, from soul to thought;
   But thinking there to move,
Headlong I rolled from thought to soul, and then
From soul I lighted at the sex again.

As some strict down-looked men pretend to fast,
   Who yet in closets eat,
So lovers who profess they spirits taste
   Feed yet on grosser meat;
I know they boast they souls to souls convey:
Howe’er they meet, the body is the way.

Come, I will undeceive thee: they that tread
   Those vain aёrial ways
Are like young heirs and alchemists misled
   To waste their wealth and days;
For searching thus to be ever rich
They only find a medicine for the itch.

Source:
Fowler, Alastair. The New Oxford Book of Seventeenth-Century Verse. Oxford UP, 2008.

翻訳

もうその話はよせ、精神が精神を抱くだとか、
 心が心と交換されるだとか、
精気と精気が、風と風のように出会い、最も
 純粋な部分が混ざることで、
肉体から離れた二つの本質が口づけを交わし、
天使の如く一つの至福を撚って感じるだとか。

僕はかつて、この稀薄な愛を実践するために
 作られた愚かなものだった。
僕は性から魂へと、魂から思考へと登ったが、
 そこで動くことを考えると、
真っ逆さまに思考から魂に転げ落ち、そして、
魂から再び、性のもとへと着地したのだった。

厳格な取り澄ました男が断食するふりをして
 こっそり食べているように、
自分たちは精気を味わっていると宣う恋人も、
 より淫らな食事をしている。
彼らは魂を魂へと伝えていると誇っているが、
いかにして会おうと、肉体が通路なのだから。

おいで、僕は君に真実を伝える。あの空虚な
 空気の道を踏んでいる者は、
道を誤って富と日を浪費する、若い相続人や
 錬金術師のようなやつらだ。
そうして絶えず豊かであろうとしたところで、
彼らは痒み用の薬を得るに過ぎないのだから。

コメント

ルネサンスの芸術の背景にある思想的潮流のひとつ、(新)プラトン主義の考え方は、初期近代英詩においても至るところで見られる。とりわけ、マルシリオ・フィチーノがプラトンの『饗宴』に付した注釈書『愛について』(_De Amore_)や、ピコ・デラ・ミランドラによるベニヴィエーニ作『愛の歌』(_Canzone dell’Amore Celeste e Divino)への注解などが発端となって広がったプラトニック・ラブの思想は、恋愛詩に多大な影響を与えた。その過程でプラトニック・ラブには新たな意味が付け加えられながら、その是非を直接的・間接的に議論するような形で、さまざまな詩人がこの伝統に応えた。

カートライトの「ノー・プラトニック・ラブ」は、そのタイトルから分かるように、肉体的な愛を蔑んで精神的な愛を志向するという規範をきっぱりと否定する。「精神が精神を抱く」、「心が心と交換される」、「精気と精気が……」などの第一スタンザで列挙される行為はすべて、先行する多くの恋愛詩で(時に賛美されながら)描かれるものである。それゆえ、「もうその話はよせ」(“Tell me no more” line 1)と語り手がうんざりしたトーンで詩を始めるとき、この言葉は、精神的愛を重視しているのだろう女性の聞き手に向けられていると同時に、既にクリシェとなった表現を用いる先行テクストおよび先行する詩人たちにも向けられている。

肉体から離れ、より純粋なイデアを求めるプラトニック・ラブの伝統に従い、語り手もかつては「魂」や「思考」という上位のものを目指したが、それでは動くことができずに結局下へと落ちてしまい、スタート地点の「性」へと戻るというユーモラスな展開(第二スタンザ)や、精神的愛を重視している人間も実際には肉欲を楽しんでいるという風刺(第三スタンザ)からは、カートライトの遊び心が感じられる。現代では彼がむしろ劇作家として知られていることを思えば、このようにおちょくる語りは、戯曲におけるいやなキャラクターの口ぶりと重なるだろう。

この詩が想定している過去の詩はおそらく大量にあり、特定の作品というよりは複数の詩に見られる共通現象を題材に書かれているのだろうが、それでもあえてひとつ挙げるとすれば、ジョン・ダンの「空気と天使」(“Air and Angels”)だろう。プラトニック・ラブの教えにならい、語り手は純粋な愛を求めるが、自らの愛は魂から生まれ、子は親を超えてはならないから、魂が肉体をもたなければ動けないように、愛にも肉体のようなものが必要だと考える。そこで語り手は、自らの愛が宿る場として、愛する女性の肉体を選ぶ。しかし、純粋さを志向する愛にとって、肉体はあまりにも重すぎる(不純すぎる)。このジレンマから、語り手は天使の例を考える。肉体も性別ももたない天使という純粋な存在は、人間の前に現れるとき、空気を媒介とすることがある。空気は、それ自体で純粋であるものの、天使ほど純粋ではない。そこで語り手は、自分の愛を天使に喩え、女性の愛を空気に喩えることで、自らの愛が純粋な(プラトニック・ラブに適う)ものであることを(ほとんど詭弁に近い論理によって)論じる。

カートライトに言わせれば、「空気と天使」に描かれるような「空気の道」は「空虚」なものに過ぎない。しかし注意しなければいけないのは、カートライトが嘲笑する種類の恋愛詩を書いたダンや他の詩人たちも、プラトニック・ラブを無批判に受け入れたわけではないという点だろう。「空気と天使」にしても、ダンは語り手をかなりの程度戯画的に表現しているだろうし、当時の状況を考えれば、仲間内での知的ゲームの一種として詩を書いていた側面もある。カートライトがおちょくっている詩の多くも、どれだけ真面目に書かれたのかは微妙な問題として考える必要がある。

記事見出し画像:
Marc Chagall, The Birthday, 1915 (Wikimedia Commons)

#文学 #英文学 #詩 #英詩 #翻訳

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院生です。主な関心は初期近代(16–17世紀)の英詩。

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