『平場の月』朝倉かすみ 滋味深い生活の細部の幸福

第32回山本周五郎受賞作。朝倉かすみの小説は初めて読んだ。なんとなく本屋で手に取って買った本だ。しみじみと味わいのある生活感溢れる看護恋愛小説とでも言おうか。50歳になって故郷で再会した中学の同級生、バツイチ同士のゆるやかな大人の恋。

病院の売店で働く須藤葉子に、青砥健将は再会する。お互い検診で再検査に引っかかったという健康に問題ありの中年二人。小説は冒頭から須藤の死を明らかにする。青砥が須藤の死を知らされたのは、同窓の安西から。須藤と同じパート先だったウミちゃんから聞いたという。時間は過去から現在、回想と行きつ戻りつしながら、死の知らせでショックを受けた青砥が、黄色い花束を買って彼女のアパートを訪ね、「夢みたいなことをね。ちょっと」と考えていたという須藤を回想する。深夜、アパートの窓を開けて外を見ていた「須藤の表情は、その夜の月に似ていた。ぽっかりと浮かんでいるようだった。清い光を放っていた。」・・・ラストまで読んで、もう一度この冒頭の部分を読むと、なんだか切なさがこみ上げてくる。

須藤が再検査で大腸がんが発覚してから二人の距離は接近し、抗がん剤治療を受けて苦しみながらも、青砥の存在が支えになりつつ、決して全面依存しない須藤という女性の精神的な「太さ」。それを物足りなく感じる青砥。その二人の微妙な距離感が、なんとももどかしい。ある程度いろいろなことを経験してきた大人の二人のそれぞれの思い。「若さ」で突き進むような恋愛ではない自重した節度と配慮。決してキラキラした恋愛話ではない。居酒屋で外飲みするより、金がかからない家飲みで会話する二人。どこにも行かず、仕事場と部屋との往復。洗濯物を吊した部屋。お互いの部屋に泊まっても、それぞれぞれの家に戻っていく二人。そんな地味な生活感がなんともいじましく、あたたかい。

弱っていく須藤は、身内の妹か青砥か、「頼る相手は自分で決めたい」と、あくまでも意志的だ。その須藤が中学生時代から青砥のことが好きで、それでも青砥の好意に背を向けて、自分だけで生きるという「太さ」を身につけていった不幸な家庭事情。そんな過去の思いを吐露する須藤が、部屋で青砥の背中をマッサージする場面の身体的な触れ合いの愛おしさ。そして、「もう二度と青砥とは会わない」と死を前にして決別する須藤の頑固さ。

死を意識するからこそ感じるであろう日々のささやかなこと。それこそが大切で愛おしく思えてくる小説だ。かつて好きな男を妻から奪い、馬鹿な年下の男に貢いで金を浪費し、自己嫌悪の塊の人生でも、「ほのぼの」と「しみじみ」とした幸せを感じる時間。アパートの駐車場脇の小さな土のスペースに、自家菜園と称してハーブを植えて料理に使っていた須藤のささやかな幸福。死後、その土に中から青砥は須藤の形見を発見する。

「平場の月」というタイトルが示しているように、非日常的な恋愛ではなく、日常の「平場」の恋。「夢みたい」な、ぽっかりと空に浮かんだ月のような、淡くぼんやりとした幸福感。ハッピーエンドではないが、死を前にして、「合わせる顔がないんだよ」と呟きながら、こんな気持ちになれたのなら、それはそれで幸せというものだろう。

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