#95 あなたの中心はどこにある?

特徴的な違い


この二つの生き方には特徴的な違いがあります。

それは、前者は外から内にエネルギーが流れ、後者は内から外にエネルギーが流れているところです。


では想像してみましょう。

あなたは会社帰りに駅前のコンビニに立ち寄りました。今日は朝からの激務もあり家に帰っても何もしたくありません。この時期は繁忙期で、明日も朝から激務が待っています。そこであなたは、早めに就寝しようとコンビニで夕飯を買って帰ることに決めました。

しばらくして弁当を選んでいる時にスマホからLINEの通知音がしました。画面を立ち上げLINEを開いて見ると、友人から「これから飲み会があるので一緒に行こう」との誘いでした。

①この友人は誘いを断ると不機嫌になります。

②この飲み会はあなたの気になる異性がいるそうです。

③この飲み会の料金は友人がご馳走してくれるそうです。

さて、あなたはどうしますか?

これだけの条件がそろっていると、無理をしてでも誘いを受けたくなります。ですが、①~③の条件が全てではなく個別のみだとしたら、誘いを断る人も多いと思います。

①~③すべての条件がある場合だとしても誘いを断れる人は、主体・意識的に生活できているようにみえます。

ですが、すべての条件または一部の条件に限り誘いを乗ってしまう場合は、反応・反射的に生活している可能性があります。

①の理由で意志変更する人については、友人など親しい間柄との関係を優先している人に多く、今回のようなケースに自身の身がおかれると、自己の意識決定よりも親しい人間の希望を優先します。

なぜならば、自分の軸がそこにありそれを中心に生活が回っているからです。

例えば、夜空を見上げたとき北極星が動くことはありません。他の星々は、北極星を中心に動いているようにみえます。

正確には北極星が地球の自転軸をのばした先にあるためですが、北極星のように人間にも中心という概念が存在します

別の言い方でいえば核というのが良いでしょうか。

②の理由で意志変更する人については、宗教・家族(恋人)の強い影響を受けやすいといえます。

アメリカでは、クリスマスに家族で七面鳥を食べることが有名です。

これはクリスマスの12月25日が、イエス・キリストの誕生日で、キリスト教の信仰が深いアメリカでは、イエス・キリストの誕生日に特別なご馳走を用意してその誕生をお祝いし感謝する風習がありるためです。

日本では、お正月は家族・親族で集まり新年をお祝いすることが大事にされていました。初詣以外で三が日はお店もやっておらず家族でいることが当たり前でした。

これは東アジアに多くある家族主義の影響だと思われます。そのため、個人よりも家族の繁栄が優先されたために、政略結婚があり、庶民の間でもお見合いの文化がありました。

③については利益優先主義の影響を強く受けているといえます。物事の判断基準が自身の利益にそうかそわないか、もし利益があるのならばどちらがより自分にとって利益が多いかを優先します。利己的ともいえ周りの損失については無頓着です。つまり、相互補助関係ではないといえます。

このように何気ない日常のワンシーンにおける判断にも、多くの複合的要素によって、判断を変更したり決断したりしています。

たとえ意識的に選択したものも強い外的要因によって選択の変更を無意識に行っている可能性があるのです。

先ほどのケースで、家に帰ることを選択した後に友人からの連絡があり状況が変化したのだから再度選択するのはおかしくはないはずと思う人もいるでしょう。

確かにその通りなのですが、このケースではコンビニで家に帰り明日の準備のために早めに就寝すると一度、決断しています。(そのように仮定しています)

つまり自分の意思で決めた決定事項を、外的要因によって変更するのかというところが焦点になります。

そしてその後、行動の変更をしたとしてもそれは主体的な選択によるものなのか、反応・反射的なものなのかを区別する必要があります。

主体的な選択によるものなのであれば問題ありませんが、自分の意志とは乖離した欲によって促された行動ならば、再検討する必要があります。

外的要因により選択された行動は自分で選択しているように見えても実は選択させられているだけで本来の選択とはいえません。

このような選択は時として選択後に後悔をします。

では主体・意識的な選択とはなんなのでしょうか。

それは、先ほどのケースにおいて全ての選択肢を理解した上で、自分の意志によって短期的ではなく、中長期的に自身の歩むべき未来と照らし合わせ最適解を選択するということです。

それでは結果的には一緒の選択になることもあるのではと思われるでしょう。

そのようなこともあると思います。

しかし決定的に異なるのは、思考し熟慮して出した選択であり、その後の結果が良くとも悪くとも、不満や不幸にはならないことです。(結果的不幸はありえます)

人は結果によって悩むのではなく、自分の了解しない行動自体に悩むのです。

つまり、悪い結果を不満に思うのではなく、悪い結果を導いた外的要因を不満に思うのです。

社会生活において不満を抱えている人の多くは、自分が何かをやらされていると感じていて、その結果、自身の予想を下回る結果が出た場合、他人のせいだと感じてしまうのです。

このように外的要因の影響による選択は、悪い結果が出た場合、自分の責任として感じにくい性質があるのです。

身近な人の声に耳をすましてみて下さい。

不満を吐露している人が自身の非を棚上げして会話していませんか。もしそのような会話を聞いてあなたは、幸せを感じるでしょうか。私にはそのようには感じません。

主体的に生きている人は、何かの行動の結果を他人のせいにしたりしません。そんなことをしても何も結果に影響がないことを知っているためです。

問題は外的なものではなく内的なもので、自己変化というのは内側からしか起こりません。

外側からできることは、せいぜい行動の選択を変化させることぐらいです。

ならば、反射・反応的な選択をせずに自身の中心にある意志を優先し、自分だけの人生を送る選択をすることの方がより良い気がします。

このように自分の中心がどこにあり、そこからどのように広がっているかを自身が正しく認識していることは重要です。

それでも、それを正しく理解することも困難な作業です。段階を経て少しづつ成長していくほかありません。

適応優先の副作用



このように社会には反応・反射的な生き方をしている人が多くいます。

なぜだと思いますか。

つづく


最後まで読んでいただきありがとうございます。

Himeさん画像を使用させていただきました。

毎週金曜日に1話ずつ記事を書き続けていきますのでよろしくお願いします。
no.95 2021.12.3





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