#92 偶然と幸福

社会には知能が優れている者もいれば無能な者もいる。

多様な社会においては当然なことでありそうあるべきだとも思う。

身長が高い人がいれば身長の低い人もいる。足の早い人がいれば足の遅い人もいる。このような例え話を繰り返せばトートロジー的になってしまう。

しかし社会において能力の恩恵を強く受けるのはとりわけ知能(学力)になる。

私たちは、身長の高低や、力の強弱や、容姿など身体的特徴については容易に生まれつき要素が強いことを肯定する。

たが、知能または学力についてはこれを否定し、努力の結果だと主張する。

努力をすることですら遺伝的な要素を捨てきれないにも関わらず、努力をし学力向上するべきだと社会は主張する。

これは一部の人においてはかなり酷な外部的圧力だ。

身長の低い人に「君は牛乳を飲めば180cmに成長するのは簡単だ」と言うのに近い。

一般的に身長の低い人に社会が牛乳や発育を促す指導を行うことはない。ただし健康を害して社会の公的資金が多く失われるような事態になった場合、社会は損失を減らすために適当な理由をつけてそれを促進するかもしれない。

いずれにしても身体的特徴を変化させるために社会が個人に資金を投入することはまずないだろう。

しかし、知能(学力)においては異なる。7才になれば公立・私立の小学校に通い、中学校まで義務教育が行われる。

親の収入の差に関係なく教育の機会平等を得られることは素晴らしいことだ。

世界に目を向ければ、教育を受けたくても親の収入によりそれが実現できない子どもたちが大勢いる。そう考えれば、9年間行われる義務教育はやり方はともあれ良い慣行だろう。

しかし、機会を提供されたとしても持っている資質が違うのだから同じ効果が得らるわけもなく、一方で良い結果を、もう一方で悪い結果が生まれる。

そのこと自体は当然なことなので不満に思う人はいないと思う。

ではなぜ、違和感を抱える人が多いのはなぜだろうか?

おそらくそれは、機会均等という平等性を盾に、結果を個人の努力によるものだと社会に決めつけられることにあるのではないだろうか。

例えば、足の速い資質を持つ子と、足の遅い資質を持つ子がいたとする。共に走ることの仕組みやテクニックを教師から指導を受けたとしよう。

2人は時間・質ともに同じよう指導を受けたが、その後の大会で明暗が分かれる。

足の速い資質を持つ子は見事に優勝する。足の遅い資質を持つ子は努力のかいなく最下位になった。

教師はこう言うだろう「きみは素晴らしい努力をした。努力は人を裏切らないというがまさにその通りだ!」と。

そして足の遅い資質を持つ子には「きみの努力は足りなかった。残念な結果だが今後努力次第で優勝もできるはずだ」というだろう。

努力が必ず結果を連れてくると誰が言った?

そんなことは誰も言っていない。努力することで今の自分よりも明日の自分が良くなることは間違いない。しかし、それはあくまでも自分軸の話だ。

誰かが本当にこんな経験をしたとしても、その屈辱的な経験の多くは一過性のものであり風邪をひいたようにいつか忘れてしまう。

しかし、知能(学力)は違う。

なぜなら、社会はそれを物差しにして回っているからだ。

多くの大企業は、一流大学卒業生を欲しがる。

「大企業は一流大学でないと入社できない」ということはありません。しかしこれは表向きで、実際には一流大学を筆頭に、有名大学の出身者が多く採用されています。大企業は1人の募集枠に対して、全国から100人くらいの応募があるほど競争率が高いです。100人全員を面接するわけにはいかないので、書類選考では大学名で選別されてしまいます。中には出身高校をチェックする企業もありますので、「あのとき勉強しておけばよかった…」と後悔しないよう、早い段階から準備が必要です。

引用:リクらく

上記にもあるように多くの入社希望者を面接する上で、容易に選別が可能という手軽さから重宝される。優秀な人材が一流大学にしかいないわけではないが、優秀な人材の多くは一流大学を出ているという事実があるからだ。

昨今、一流大学の生徒または卒業生がつまらない事件を起こしているのを散見する。しかし、それも一部の生徒または卒業生にすぎない。

問題は、大学の卒業証書が免罪符のように利用できることにある。

先ほどと同じように大学の卒業証書を持たない人の中にも優れた人もいればそうでない人もいる。それでも彼らは大学の卒業証書を持つ者とは違い、雇用のチャンスを与えられない。

競争の舞台で判定されるのではなく、競争に参加させてもらえないのだ。

このような事実があれば、大学に何の意義を見いだせない人でも通わざるえなくなる。入社したい会社はあっても採用の資格が大学の卒業証書なのであれば、まずそれを手にしなくてはならないためだ。

経済評論家いわく、最終学歴が大学の人と高校では、その後の人生で約2000万ほど所得に差が出るという。これは、大学を出るほど優秀な学力があったから所得の差が生まれたのではなく、大学の卒業証書の有無の違いだ。

また一流大学に入学し卒業するだけの能力と気力を兼ね備えていたとしても、経済的な理由から断念する人もいる。

そのような人材が、ただ大学の卒業証書を持たないという理由によって選別されることは社会にとっても不利益に思える。

そのような人材は自分で起業し学歴に縛られない会社を経営することがあるが、そのような会社も一定の規模を持つと入社資格に最終学歴にしたりする。

つまり、進学できるのであれば残念だが大学は卒業した方が無難だ。

大学そのものに意味はなくても、卒業後の利益が大きいためだ。

わたしたちは、生まれ落ちた身体が優秀かそうでないかで、社会から受ける恩恵があまりにも違い過ぎる。

まさに我々は賽を投げるのではなく、賽そのものなのでしょう。

あなたが、もし美貌に優れていればそれはラッキーだ。

あなたが、もし知能に優れていればそれはラッキーだ。

あなたが、もし身体能力に優れていればそれはラッキーだ。

今、幸せならば、それはラッキーだ。

わたしたちは、自分のラッキーをサルベージしなければならない。

なぜならそれがあなたが手にしているモノだからだ。


おわり



最後まで読んでいただきありがとうございます。

Himeさん画像を使用させていただきました。

毎週金曜日に1話ずつ記事を書き続けていきますのでよろしくお願いします。
no.92 2021.11.12








科学的に僅かな有効性に依存し、それを盾に努力を半ば強要する。

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