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【書評】万物の根拠になる日本人(五十嵐峩岑 『サッカーと日本人論--日本サッカーを呪縛するもの』パブリック・ブレイン,2012年)

目次
はじめに
本の概要
日本人サッカー論
内外の評価差
根拠に便利な日本人観
おわりに

はじめに
  スポーツには地域の歴史や文化の影響がありますが、サッカーのように世界中で行われるスポーツであれば、グローバルとローカルの対比がより強くなります。「日本サッカー」という言葉を頻繁に目にするのもそのためでしょう。 しかしその延長なのか「日本人のサッカー」と括られますが、私としては「日本」という環境からならまだしも、「日本人」という曖昧な切り口で論じるの難しいと感じています。
 そんな中であるブログの参考文献に上がっていたのが今回の本で、題名に惹かれて即購入、中々面白かったので紹介します。ただし、私自身内容(引用元など)を精査できておらず、評価自体は仮であることを強調しておきます。

本の概要
 大きなテーマとしては「日本においてサッカーがどのように語られてきたか」で、特に「日本サッカー」という言葉がいかに使われてきたかについて、膨大な資料をもとに展開されています。2000年以前の状況を目の当たりにしていない世代の私としては、当時を知る上でも貴重な本でした。
 ただし具体例の列挙に留まっており若干恣意的だと感じてしまうことや、引用の仕方がわかりにくく筆者の意見が曖昧に映りました。冒頭で仮の評価であると述べたのはこういったことからです。

日本人サッカー論

「日本のサッカーを語ることとは、ひっきょう日本人論を語ることである。つまり「サッカー日本人論」である。サッカーを題材に日本人論を論じること。あるいは日本人論の通説や文脈でサッカーを論じること。それは、ほとんどすべての日本のサッカーへの自虐的な、否定的な評価となる。」(46)

  筆者の考えるサッカー日本人論が上の記述です。これには同意で、日本のサッカーを語る際にはその人の日本人観が見えます。そして確かに「日本人だから」の文脈で好意的に書かれることは少ない気がします。最近だと西部さんのテクニック論あたりは中立的に書かれてました。
 よく出てくるのが個人の確立された欧米人に比べて、個が弱い日本人は集団で戦うしかないという論。「個人」の概念の話ですね。イメージでは納得いくんですが、しっくりきません。というのも、トップクラスの選手たちほど個が確立されているのは相当レアなケースで、あれを欧米の標準と認識してしまうのはどうなんだろうと思うからです。なので個の確立はまた次元が上がった話で、日本人全体に当てはめて論じるのは違うと思ってます。がまだまだ考えきれてません。
 この自虐的になりがちなのは欧州への憧れなのでしょう。サッカーだと明らかに欧州と南米が先進国で、日本はそこから学んでいく立場です。とはいえ日本人という括りも広いものの、欧州もまあ広い。そろそろ「欧州は〜」とかもやめていってほしい。スペインとイングランドじゃ全然違うはずです。

内外の評価差

サッカージャーナリスト サイモン・クーパーは、99年3月、興味深い中田英寿のリポートを『ニューズウィーク日本版』に寄稿している。セリエAでの1年目、「ゼロからのスタートです」といった(日本ではまずやらない)殊勝なコメント、イタリアでインテリア商品を買い込んだという話(“買い物好きの日本人”)などを紹介しながら、中田のことを「いかにも日本人」だと評したのである。(200)

 本書の中では、集団主義的で出る杭は打たれる日本人の性格に対して、日本的なしがらみから逸脱した個人主義者として中田英寿が語られてきたとされます。それまで日本人にはサッカーが向いていないとされていた中で、「日本をはみ出したサッカー選手」は褒め言葉で、そうして中田は神格化されていました。最近だと本田圭佑も同じような扱いでしょう。
 話題になるようなカリスマやスターを求めるのがメディアなので仕方ない部分もありますが、ある程度の客観性は担保してほしいです。上は客観性を失った事例で、国内外で中田の評価(日本人らしいかどうか)についての差を表しています。真逆な中田像を描いていることから、日本メディアの「日本人らしくない中田」を演出する意図を感じます。ただしサイモン・クーパーがどういった報じ方をする方かはわからず、逆に彼のほうが「中田を日本人らしさに留めようとした」可能性もあるので、この辺りも精査が必要です。
 ジャパンアズナンバーワンの時代に日本文化に注目したのがアメリカの組織論研究だったように、自国のことについて語るのは自分たちじゃないほうが良いこともあります。そのためフットボリスタでの海外アナリストによる日本代表分析のように、外からの客観的な目で日本を分析されることが増えると良いと思います。

根拠に便利な日本人観

奥寺の移籍は、冬の時代にあった当時の日本サッカー界にとっては大きな驚きだったが、筆者〔後藤〕が当時抱いたのは「MFは無理でも、パスを受けて〔ゴールを〕決めるFWなら日本人でも通用するのではないかといった感想だった。「MFは通用しても、FWではどうか?」と言われる現在〔03年前後〕の状況と比べると、隔世の感がある。(253)
当時は、サッカーでFWのような人に使われる側の選手は日本人から出てくるが、MFのような人を使う側の選手は日本人にはできない、そういう役割は無理じゃないかといった考え方があった。一種の日本人論のような議論になっていた。(253ー254)

 上二つは孫引きなので少しわかりにくいですが、上が後藤健生、下が宮崎雄司がともに70年代を振り返ったコメントです。これらを見る限りは日本人観は今と変わらず、自分で決断ができず、創造性の欠けた日本人。おそらく変わっているのはサッカーの見方や情勢でのほうで、その変化によって日本サッカーの論じ方が違っているのでしょう。これらからサッカーを論じる時に「日本人だから」という根拠が便利に使われていることがわかります。もうどんなことにも使えるのではないかと思うくらい。
 論調が変わったのがフランスW杯の城彰二、もしくはドイツW杯の柳沢敦でしょう。これ以来日本人だから決定力がないと言われることが多いように思います。決定力なんてどの国も困ってるはずなのに、日本人の問題に収斂させてしまっているのは、むしろサッカーへの態度としてはおこがましくも感じます。他国のことを知らずに勝手に「日本対海外」の構図にしてしまうことが、日本人の特殊例を「全ての日本人」に抽象化したがる傾向を生み出しているのかもしれません。

おわりに
 もしかしたら遺伝子レベルで日本人はサッカーに向いていないのかもしれず、それを否定できる根拠はありません。けれどもそこを結論にする理由もないし、なによりそれが結論ならば行き止まりです。きっと「日本人論」に嫌悪感を抱くのもこうした理由で、だからそこから距離をとってサッカーを考えたいと思います。
 とはいえ多くの人が願う「日本がW杯優勝」を夢見る私としても、日本のサッカーについては考えていきたいです。そのための切り口に「サッカーと文化」を設定しようと思っていますし、そこでは日本という「場」を論じていくつもり。この「場」については別で参考図書があるのでいずれ紹介します。


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