【SF短編】Hana【12000字】



 その日はよく晴れていた。

 保育士の朝は早い。しかもその日は新人が来るというので、殊に集合時間が早かった。新人との顔合わせで子どもたちや、連れて来る親たちを待たせるわけにはいかないからだ。それで、まだ寒さの残る時期とはいえ、ベスが自転車を引き出した時は空がまだ少し色づいていた。

 職場の新しい仲間は、遠く日本から来ると聞いている。以前から移住を希望しており、ベスの職場に就職が決まったことで、念願かなって渡航してきたのだそうだ。言語は問題なさそう、と園長のキャロルは言っていた。ここのところアジア系が入って来るのには慣れていたけれど、日本からの移住者、それも二世や米国籍ではない、ほやほやの移住者が入って来るのは初めてで、話を聞いた他の仲間たちもどことなくそわそわとし、今日のシフトに入っていない者はつまらなそうにしていた。何せ、日本は人口減少が以前から加速していて、滅多に出会えない。それでいて、一時期は自由な先進国とされていたが今は観光に行っても禁止区域が多いとか、帰って来られなくなった外国人がいるとか、遠い国ながら不穏な話も多い。結果、日本人を見る機会がないのは、欧米はもちろん、アジアの中でも同様なのだという。同じアジア系になるシンイーは、普段は新入りが来ようと誰かが辞めていこうと動じないタイプだが、今回に限っては初日に休みなのを悔しがり、チャットでどんな人だったか教えてよと頼んできたほどだ。

 果たしてキャロルの隣に並んだヨウカは、アジアらしい黒髪をシンプルにまとめ、小柄で、三十歳くらいに見えた。アジア人の年齢当てはあまり得意ではないので、少し「盛って」見た結果そのくらいに見える、ということだが。そしてその小柄な体をさらに小さく固めて緊張し、とても青ざめていた。今日から働くことなんてできるのだろうか、というくらい、血の気を失っている。周りから心配の声が上がり、どうしたのか、体調でも悪いのかと聞かれると、ヨウカはささやくように言った。
「私は今、自信を喪失しています」
 発音にやや訛りはあるが、きれいな文だった。これなら子どもたちに妙な言葉を教えないでほしいと保護者たちからクレームをつけられずに済みそうだ。しかし、まだ働いてもいないうちから自信を喪失するとはどういうことだろうか。みんなが怪訝そうな顔をして見つめていると、ヨウカは泣きそうな顔をして話し出した。
「私は数日前にこちらに来ました。飛行機を降りてすぐ、ある家族が目につきました。その家族が子どもたちと関わっているのを見て、私は、今まで私が学んできたことが、何もかも間違いだったと気がついたんです」
「子育ての方法が違ったということ?」
「いえ──、ああ、はい、そうかもしれません。子どもたちは私が思っていたのと違う様子でしたし、家族の関わり方も、私がこれまでに行ってきたこととはまったく違っていた」
「でも、それはたまたま、その家族が変わってただけかもしれないじゃない?」
キャロルが優しく聞いた。優しくしなければ本当に泣き出してしまいそうだった。
「いいえ、違うと思います。そのあともここに来るまで、いくつもの家族を見かけました。そのどれもが、私がこれまで考えてきたのと違っていたのです」

 みんなが首を傾げた。いくら国が違うとはいえ、グローバル化した現代のことだ。まして一度は先進国として国際社会の先頭に躍り出ていた日本で、それほどショックを受けるような違いが、それもほんの少し見かけた程度の家族に共通してあるとは、考えにくかった。
「ともかく、やってみましょう」
キャロルが不自然なほど元気よく言った。
「ヨウカは不安なことがあったら、誰かに聞いてね。大丈夫、あなただって子どもとかかわる専門家だもの」
 ヨウカは唇を噛んでいるようだった。とても「専門家」には見えなかった。



 ヨウカの異常さは、すぐに明らかになった。
 まず最初の一報は同じ教室についたジアからで、登園してくる子どもたちを迎える際、およそこれまで子どもと関わって来たとは思えないほどおっかなびっくりだったという。多人数での遊びや読み聞かせは問題なくでき、むしろ上手いほどだったが、一対一で子どもとかかわるとなると、何をして良いか分からない様子だ。
 その後、次々と他の職員の間でも、異常なエピソードが報告されてきた。いわく、子どもが昼食をとる際、のどの奥までスプーンを突っ込みかけて危険だった。時々急にぼんやりしてしまい、子どもの行動を見ていないことがある。大人との会話は何の問題もなくできるのに、子どものひとりひとりに話しかけようとしない。そして極めつけは、喧嘩をした子どもの腕を掴んだことだった。あまりに乱暴に掴んだので、一緒にいたシンイーが駆けつけて止めたという。
「あなたの国ではそんな風に子どもを扱うのかって聞いたの」
シンイーは困惑顔で報告した。
「そうしたら、ハッとした様子で動きを止めて、『そうなの、でもそうしてはいけないんだった』って」
「アジアってそういう国が今も多いの?」
シンイーは移住者だ。
「昔はね、私が子どもの頃は、まだ少し体罰なんかも聞いたけど。でも今はもうアジアでもそんなに乱暴に子どもを扱うことはないし、日本なら中国よりも早くから体罰や虐待について言われて、改善もされていたと思うんだけどね」
園長のキャロルもある日、ヨウカのいないところでこっそりため息をついた。
「教室で大声を出して怒鳴りつけたから、あなたの国ではこういうときそうするのかって聞いたんだけどね、謝るばかりで要領を得なくて。言葉ができないわけじゃないのにね」

 経歴詐称なのでは、という声も出た。しかし、ヨウカは一対一での関わりはまったくできなかったが、多人数への声かけや遊び、読み聞かせなどになると、明らかに経験を積んだ者の態度を見せる。少なくとも無知ではなさそうだった。それだけに奇妙さは増して見える。そのような経験の偏りが生じる状況を、合理的に想定することができないからだ。
 それでもその後もヒヤリハットが続き、保護者の目にも留まるようになってくる。結局、ヨウカはわずか三か月ほどで辞めていくことになり、そしてあまりにも目立つ新人だったがゆえに、辞めるときにも入って来たときと同じくらい注目を集めた。

 お世話になりました、と日本式にお辞儀をして、ヨウカは相変わらず青ざめた顔でつぶやくように言った。
「私はここに来て、日本で言われたことを理解しました。今の日本がどれほど異常なのか知りました。ここで通用しないことはもうよく分かっています。だけど──だけど、それは私の能力がないからじゃないんです」
今度こそ本当に泣きながらヨウカは言った。
「皆さんに、言えないことがあります。私が言えるのはこれだけです」
 ヨウカが去ると、園に平和が戻って来た。あまりにも嵐のような日々だったのだと、いなくなってから気がついた。

 ハナがオンラインで面接を受けたのは、ヨウカが去って五年以上が経ち、六十代になった園長のキャロルが引退を考え始めた頃だった。キャロルの跡はベスが継ぐと何となくみんな思っていたし、キャロルの方でも最近は、重要なことを真っ先にベスに話そうとするのだった。
「日本人から面接の申込が」
キャロルから聞いて、ベスは鼻白んだ。
「面接をするの?」
ヨウカのことがあったのに、とはさすがに言わないが、意図は伝わったようだ。
「日本人だからダメだなんて、言えると思う?」
それもそうね、と二人でため息をつく。人権に厳しい現代、そんな断り文句を言うわけにはいかない。取って付けたようなウソの理由を伝えるのは簡単だが、万が一ウソだったとバレたときは面倒を通り越して、園が存亡の危機に陥ってしまう。
「ともかく面接をしてみましょう。もしかしたら、予約の日時に来ないかもしれないし」

 そんなありもしない希望が叶うわけもなく、ハナは時間どおり面接に現れた。オンラインなので細かい点までは見えないし、おそらく多少の美化フィルターもかかってはいるだろうが、園に来た当時のヨウカよりは少し若いくらいだろうか。少し茶色がかった髪をヨウカと同じようにシンプルにまとめ、はきはきと心地良く応答してくる。言語も問題なさそうだ。保育の仕事は十年近くになるという。ヨウカのことさえなければ、近場で採用するよりもよほど好感が持てると思っただろう。

「うちは以前にも日本人を雇ったことがあるんだけど」
ベスは面接の終わりごろ、切り出した。キャロルが慌てた様子を見せるが、横目で静止する。人権問題になるようなことを言うつもりはなかった。
「こちらの子育てはずいぶん違うって戸惑って続かなかった。あなたはその辺り、自信がある?」
ハナは少し戸惑ったようだった。目線が斜め上を向き、何かを考えているようだ。
「──それは、何年前のことですか?」
返された質問は、ベスの想定のどれでもない。
「ええと、そうね、確かもう六年近く前だと思う」
「なら、大丈夫です」
ハナは笑った。八重歯が覗き、少し子どもっぽくなる。
「日本では五年ほど前、大きな改革がありました。その方は改革前にそちらに行ったはず。改革は外国と同等になることを狙ったと聞いています」

 後日結果を伝えると言って通話を切り、振り向くとキャロルが何とも言えない顔をしていた。
「そういえば、ヨウカは面接のときからあんなふうに、自信のない感じだったの?」
尋ねると、キャロルは首を振った。
「いいえ、ちょうど今日のハナみたいに、自信にあふれて、明るい感じだった」
「なるほど、それは判断材料にならないわけね」
「どう思った?」
キャロルは相変わらずすっきりしない顔をしている。
「さあ、ヨウカのことがあるから何とも。今日の様子だけなら、最高の人材だと思ったけどね」
そうね、とキャロルはしばらく黙って、それから言った。
「改革があったと言っていたし、それに」
「それに?」
「実はね、日本人の面接って、日本政府があっせんしてるの」
「政府が?」
初めて聞く話だった。
「そう、専門職の移住支援みたいなプログラムらしいんだけど。だから悪い結果を伝えるときには、政府が見てもおかしく感じない理由が必要」
「それは」
目を見合わせてため息をひとつ。
「断れないね」
「そうでしょう?」

 ハナの滑り出しは、皆の不安を裏切って好調だった。ヨウカのように棒立ちになってしまうこともなかったし、子どもたちひとりひとりの目を見て話しかける。食事や遊び、喧嘩の対応、何でもごく普通の専門職としてこなしていた。むしろレベルが高い方だと言える。自信が持てているせいか、職員同士でのやり取りも話が弾み、円滑な関係を築けていた。ヨウカも語学力は高かったし、必要なやりとりはできていたが、今ひとつ打ち解けていなかったのだとふと思い当たる。技量の面であまりにも色々なことが起きていたので、交流の面には思いが至らなかったのだった。観察するベス自身が地位を上げ、現場の全体を見るようになったからこそ気がついたことでもあるかもしれない。

 入職からしばらく経ったので経過を聞こうと面談した際、ヨウカの自信のない様子がハナの明るい笑顔にダブって見えて、日本のことを聞いてみたいと思った。
「ねえ、あなたを面接したとき、前にも日本人が来たことがあるって言ったでしょう。あのときは本当に、教育機関で訓練を受けたとは思えなかった。それに、いつも自信がなさそうで。でも園長は面接のときは元気だったって言うし、うちに最初に来たとき『自信を喪失した』って言ってた。そんなに日本とこの国とは違うの?」
ハナは少しの間、困ったように黙っていた。
「──そう、ですね。全然違います。全然」
沈黙のあとに出てきた言葉は、絞り出すようだった。
「面接のときにもお伝えしたように、五年ほど前に改革があって、大きく変わりました。五年よりも前の状況でここに来たら、そのショックは本当に大きかったと思う。よく政府が許したと──当時は渡航も制限されていたと思うし」
「そうなの?知らなかった」
「はい、外国にはあまり周知されていなかったはずです。ただ移住プログラムが実質的な停止に近かったと思います。私たち、子どもに関する専門職は、初めから移住を前提として教育されているんですが、ちょっとその、十年前から五年前くらいにかけては、色々と問題が続いていた時期だったんです」
「移住を前提に?それじゃあ、国内の子どもに関する職とは別なの?」
「いえ──はい」
ハナの様子はいつものはきはきと明るい調子を失い、何かを隠しているようだった。
「ねえ、その歯切れの悪さ、ヨウカと同じ」
ベスは思わず、言わないようにしていた個人名を出してしまう。
「何があるの?日本に、一体」
「言えないんです」
ハナは口を結んだ。
「私たちには、言ってはいけない機密があります。日本政府から言い渡された機密事項が」
──皆さんに、言えないことがあります。
 ヨウカの言葉を思い出して、ベスはますます混乱を覚える。

 週末、ベスは図書館にいる。日本に関する資料を調べるためだ。インターネットも散々見たが、知りたい内容は出てこなかった。出てこないことが異常だった。七十年前、日本の人口が一億人を切ったニュースがあった。その頃には出生数が五十万を切っていた。五十年前には十五万人に。そして──その後のデータが、ない。
 第二次世界大戦後に華やかに躍り出た日本だが、ベスが生まれた四十五年前にはもう小国だった。自分が生まれるよりも前に外国人労働者への門戸を広く開き、その後また閉じてしまった国。いったん入った労働者は帰れなくなったとも聞く国。国際社会における日本の地位はすっかり小さくなり、名前を思い出されることすら減ってしまっている。中国、韓国など近隣諸国との領土争いも人口減少による集住で落ち着き、資源のある領土の一部は交渉により実質「売った」と聞く。ネット上でデータが途切れていたところで、当の日本人以外は誰も気にしないかもしれない。

 図書館員に頼んで古い資料を引っ張り出してもらう。いまどきほとんどの資料はオンライン化されていて、棚にないものも館内の端末からでも見られるのだから、そうまでしてもらわないとたどり着けない紙の資料のままであるのにはそれなりの理由があるはずだった。「館内」と印のついたページをそっとめくる。
 四十年前の日本の出生数は数万。三十年前には万を切る勢いで減少。この中には移住労働者のものももちろん含まれている。それを考えれば、いくら少子化とはいえ、よほど子どもを産み育てにくい国だったとしか思えない。一体何があったのか、政府の資料を見ても「子どもが減っているので増やさなければ」と繰り返し書かれるだけで、そのために何を行ったのかすら定かではない。いや、定かではないような国だから減ったのかもしれなかった。そして国内の人口が減っているにも関わらず、政府資料は常に国際化、人材輸出、と叫んでいる。日本の威信を知らしめるために国際的な人材を育て、外国に輸出し、稼いでもらおう、そうして国内の経済だけでも何とか持たせよう、というのだ。そういえば学生の頃の歴史の授業で、移民嫌いが強い国だったと聞いたことがあったような気がする。

 図書館の資料ですら、二十八年前を最後に途切れている。
 けれど、手元にあるこのかびくさいページだけでも重要だ、とベスは指でなぞる。ヨウカが生まれたころ、国内に子どもは一万人か二万人くらいしかいない。おそらくハナが生まれたころには数千もいない。なのに二人は、子どもに関わるための教育を受け、仕事をしてきたと言った。そしてハナは、それらの教育は移住を前提としたものだとも。
 四十年前から三十年前に生まれた日本の子どもたちの一部は、将来的に高度人材として輸出されるため、子どもと関わる専門職として教育を受けた。そして「実績を積んだ」。でも彼らが大人になった頃、おそらく日本に子どもはほとんどいない。
 ヨウカがおよそ子どもと関わったことがあるように見えなかったことを思い出す。ハナはそうではない。五年前に改革があったから。でも一体、どんな「改革」があれば、あれほど劇的に変わるだろうか。どんなに教育手法を変えようとしたところで、それほど根本的に変わるものだろうか。急に子どもがたくさん生まれるようになったとも考えにくいが──。
 「ベス」
小声で後ろから話しかけられて、椅子から飛び上がるかと思った。ドキドキしながら振り返ると、ハナが立っている。
「日本のことを調べていたの?」
黙ってうなずくと、ハナは開かれた資料を眺め、そっとなぞった。
「良かったら、外でコーヒーでもどう?」
 不穏だった。ハナは何の表情も浮かべていなかったけれど、背後に日本政府が、機密が、そびえているような気がした。ベスはただ頷くしかなかった。

 「質問して。言えることは全部言う。あなたは推測して。それが私にできる最大限」
図書館の近くで買ったコーヒーを片手に公園のベンチに座ると、ハナはささやいた。いつも園児たちに向かって話す、よく通る声ではない。大声では言えない話なのだと、ベスももう分かっていた。質問をよく考えなければいけないことも。
「じゃあ、最初の質問。あなたはいつから専門職の教育を受けているの?」
「十七歳から」
「あなたが成長する頃の教育制度はどうなっていたの?」
「私たちの世代は」
ハナが唇を小さくなめた。
「子どもはみんな、六歳くらいで一か所に集められた。小学校はみんな一緒。十二歳でまず、ブルーカラーの技術系に進むかそれ以外かを決める。技術系の子は外に出て働きながら仕事を覚えていくことになる。学校に残った子は十七歳で、国内で働くためのコースに進む子と、移住が前提の専門職に進む子に分かれるの。移住プログラムの子はそのまま寮の中で生活して、外国語と専門技術を集中的に学ぶ。移住が決まるか転職をすると決めるかのどちらかまで、誰も一度も寮から出ない」
「ネットやデバイスは?」
「保育の寮にはなかった。プログラミングの寮の人は持ってたみたいだけど」
「教育制度はそのあと、変わったの?」
「私のあと、最後に入寮したのは私の五つ下の子たち。それ以降はもう来ないって言われたから、何かが変わったと思う」
「あなたの代の教育制度はいつからあった?」
「制度自体は、たぶん私より十個くらい上の代にはあったんじゃないかな」
「『改革』は何のために行われたの」
「移住プログラムから外国に出る子の質を高めるため」
「実際に行われた施策の内容は?」
微妙な沈黙が、核心に近づいたことを示していた。
「──設備の刷新」

 設備の、刷新。
 保育を学ぶ人たちの質を高めるため、行われたのは方針の変更でも、子どもの増加でも、教育内容の充実でもなかったということ。
「『改革』の前にあった問題っていうのは?」
ベスは動揺に負けず、静かに質問を続ける。大声を出したり批判めいたことを言ったりしたら、この機会は終わると知っている。
「経験の質の、不足」
ヨウカのことを思い出す。明らかな経験不足。
「経験ね。あなたはここに来る前、給料をもらって働いていたの?」
「そうね、給料をもらっていた。そうすれば実際に働いていたって言えるから」
「つまり、教育との差はあまりない?」
「そう、あまりない」
全然ない、かもね、とハナは笑った。八重歯がただでさえ若く見えるアジアの顔をさらに幼く見せる。
「教育って、座学?」
「座学もあるし、実習もある」
「実習って何をするの?」
「おそらくここの人たちと一緒。子どもたちと実際に触れあって生活する」
「あなたが触れあってきた子どもたちは、刷新された子どもたち?」
沈黙が場を支配した。言い当てたのだと分かる。隣にいるハナのほうを見ると、アジア系にしては大きな、色の濃い瞳と目が合った。顔には何の表情もない。
「最初は違った」
小さな声が聞こえた。
「途中で改革があったの。五年前」
 ベスは息を吐いた。たぶん答えにたどり着いたと感じたからだ。そしてふと思い立って尋ねた。
「ねえ、もしかして、改革前の子どもたちには、腕に何か重要なものがあった?」
ハナはふと目を逸らした。
「あった。私たちがどうしようもなくなったときに使うためのもの」
「改革後は?」
「胸のあたりに」
「わかった。私は推測を話す。あなたはただ聞いて」
ベスは独白を始める。

 日本の出生数、二十五年前──ゼロ。人間のことだからいったんゼロになっても必ずしも続くわけではなく、数人、数十人単位で出生がある年も散発的に発生したはずだが、やがて本格的にゼロが続くようになった。
 それに先立つおよそ四十年前、日本政府は数が減った子どもの初等教育を省人化するため、すべての子どもを一か所に集めることを始めた。もう、いくつもの学校を維持するだけの経済的な余裕もなかったし、分散させるほどの数の子どももいなかったのだった。そしてすぐに気がついた。こうして子どもたちを外界から隔離しておけば、都合の悪いことは教えなければ知られずに済むということに。社会に出るまで、子どもたちは出生数ゼロ、やがてこの国は滅亡するという、最悪のニュースを知らされることはなかった。

 社会を回すには人手が必要だった。しかしテクノロジーが発達した世界では、あらゆる人手不足の一定程度を技術力で解決することができる。子どもが減っても日本社会は何とか回っており、必要なのはむしろ、豊かに暮らすためと、人手不足を補う設備をまかなうための金銭だった。外貨を得るために、政府は子どもの一部を「輸出」することを試みる。そのためには専門技術を身に着けさせることが必要だった。世界で求められる技能はもはや、百年前のそれではない。いくらモノづくり、製造、建設に特化していても、DX化の進んだ社会では役に立たない。現代世界で求められるのはそれら製造や建設を行うシステムを動かすためのIT技術と、そしてロボットやシステムでは代替できない福祉の人材だ。
 しかし日本である程度の人数の人材を育てようとしたとき、子育て分野だけは、どうしようもなかった。対象となる子どもがもう、ゼロなのだから。
 それでも世界の一部では人口が増えて保育人材を必要としているから、一獲千金を夢見た政府は代替手段を試みた。それまで自分たちよりも幼い人類を見たことがない「教育対象」に、座学の次に与えられたのはAIを搭載したアンドロイド──名称「子ども」。本物の子どものようにふるまうようプログラムされ、外装はそれぞれの年齢の子どもを模しており、そして初期、電源ボタンは腕と肩の境目裏側、脇のあたりのくぼみに置かれていた。乳児を抱くような姿勢でも、幼児と関わる場面を再現しても、誤作動させる恐れが少ない位置だった。

 人口が減少し、いかんせん指導者の数も不足していた。監督が行き届かない中、初期のアンドロイドは誤作動やバグが多く、「教育対象」や「実習生」たちは十分な「実習」ができなかった。大声を出さなければセンサーが反応しなかったし、目を合わせたり適切な返答をしたりといった関わりもうまくできず、誤作動で暴れると実習生たちは電源を落として再起動していた。彼らはそれが「普通ではない」と気づけなかった。もちろん生身の子どもに電源ボタンがないことは知っていても、態度や取扱いの点でどう違うのかは分からない。現実の子どもと触れ合ったことがなく、子どもとはこういうものだと教えられていたのだから。
 政府が自信を持ってリリースした「子どもたち」に不具合があることをわざわざ報告する人は誰もいなかったが、移住先でうまくいかなかったこと、クレームがついたことで問題が発覚。責任問題の追及、数人の自殺を経て、数年の間は移住が実質的に停止となり、設備の刷新が図られた。

 「設備の刷新」。それはつまり、「子どもたち」が総入れ替えになったということ。

 新しい「子どもたち」は、中抜きを防止し監督を厳しくして開発されたゆえに、保育者のかかわりに個別に応答ができ、誤作動を起こしにくく、良いセンサーを搭載し、ボタンは胸のあたりに移動された。まるで本物の子どものようだった。
 当然、実習生たちは大混乱を起こした。それまでの方法が役に立たない。やっと軌道に乗り、移住が再開されたのは数年後のことだ。ハナが面接を受けたのは、移住再開から二年目だった。

 本来ならほとんど移住が停止されていた時期に、どういう理由からか例外的に出国したヨウカは、既に発生していた「問題」を前提に、十分に注意するよう言い含められて来たはずだった。だからこそ「言われたことが分かった」のだ。そして、どれほど自分が置かれてきた状況が「普通ではなかった」のかを理解したとしても、日本の「保育」に関する現実を口にすることは禁じられていた。
 ではヨウカはその後、どうしたのか。ヨウカが辞めた日、シンイーは帰り際にこれからどうするのか尋ねたのだという。これまでにない自信のある目で、ヨウカは答えた。
「何でも良いので仕事を探します。そうするように、政府に言われていますから」
と。
 日本政府は一人でも多くの人材を外貨を稼ぎに行かせたかったために、より就職しやすい保育分野を手掛かりにしたのかもしれない。「失敗作」の「子どもたち」しか知らないヨウカが保育分野でやっていけないことを、政府が知らなかったとは考えにくい。ヨウカは初めから、保育に限らず何らかの方法で外貨を稼いで国に還元することだけを期待されていたのだろう。

 ベスの言葉が途切れても、ハナは何も言わなかった。その沈黙こそが肯定だった。
「日本は今、どうなっているの」
ベスの声は震えた。アンドロイドの「子どもたち」を生み出してでも、人材を輸出し、外貨を稼ぎ、そうしなければ成り立たない、子どもが一人もいない国。それがどんな国でどんな生活なのか、想像もつかなかった。
「知らないんです」
ハナは軽く肩をすくめて答えた。
「言ったでしょう、私は小さいころに学校に入って、移住プログラムに選ばれたら外に出ることもない。私に与えられたのは政府がそう教えるべきだと考えた知識だけ」
「確か、六歳くらいで集められたと言ってた」
「そう。大体そのくらいだと思う」
「ねえ」
ベスはいつの間にか外していた視線を隣のハナのほうを戻して尋ねた。
「両親の記憶はないの? 六歳よりも前の、子どもの頃の思い出は?」
「何も」
ハナは淡々としている。
「私の最初の記憶はもう、学校の中。それよりも前のことは覚えてない」
ベスの背筋にすっと、冷たいものが走った。
子どもたちの記憶が六歳くらいから始まるのは珍しいことではない。とりわけ、平穏な日常が続いていた場合には。けれど、親と引き離されるような大きな体験をしたのに覚えていないのは珍しい。それまで一緒に暮らしていた外の生活のすべてを失い、寮での集団生活と学校教育が始まった、それほどの大きな差異以前を何一つ覚えていないのだとしたら、それはよほどつらかったので記憶を封印してしまったか、あるいは。

 いや、これは言うべきことではない。本能が告げていた。

「日本はこれから、どうなるのかな」
ベスは平静を装って言う。
「滅亡する、のでしょうね。日本人、というアイデンティティは残るかもしれないけれど、国としては、おそらく、いま政府を運営している人たちが死に絶えたときに」
ハナは相変わらず淡々と言う。それこそ日本人のアイデンティティを持っているようには見えないほど、不自然なまでに感情の動きがない。
「私、こんなこと誰にも言わない」
ベスはつぶやくように言う。求められたわけでもないのに宣言する。してしまう。
「そうね」
ハナも小さな声で言う。
「そのほうがいい」
 ──それがどこまでを意味しているのか、もうベスには分からなかった。



 ベスは考える。これはただの推測で、正解はない。
 保育の現場にいるからこそ分かるが、子どもというのは実に複雑で、不可解な生き物である。子どもの相手をする職業にある人たち、保育士であろうと教師であろうと、それらの人たちが子どもという生き物を、未熟であるから単純で扱いやすいものだと発言することがあるとしたら、その人は決してプロフェッショナルとは言えないだろう。未熟とは単純化することではない。未熟だからこそ、一筋縄ではいかないのだ。
 そんな子どもを、発達の段階に合わせて、それぞれの年齢幅に合った反応をするものとしてプログラムでき、現実の子どもと同じような扱いを促すようなアンドロイドが、日本にはあるのだという。

 そんな高度な「子どもたち」を作れるのであれば、大人だって作れるのではないか。人間と寸分違わない、見分けのつかないような「大人たち」を。

 正直なところ、日本に不足しているのはもう「子どもたち」だけではない。保育サービスの対象となる子どもたちがいない、その次に来るのは、働き手がいない、である。日に日に高齢化する人口の福祉を支える人材が、いなくなるということ。おおよそ二十五年前に出生ゼロを記録した日本では、どう見積もっても人口の大半はとうに高齢世代だ。人口減少が急速に進み始めた時期でも、日本では移民労働者への反対が多く、一定の時期からはまったく受け入れを行っていない。一体誰が、彼らの介護をし、看取り、必要な手続きを行っているのだろうか。
 そしてもし「大人たち」をも日本が「生産」しているのだとすれば、移住プログラムの対象者が人間である必要も、もうどこにもない。貴重な生身の人材を外に出さなくても、外貨を稼いでくれる「人材」がいくらでも作れるのだから。

 もうひとつ、気になることがある。ヨウカのことだ。ヨウカは明らかに日本政府からすれば保育人材の「失敗作」に違いなかった。たとえ保育人材として期待をされていなかったとしても、その違和感が現地で問題にならないと思われていたとしたら甘すぎる。けれど、日本政府としては、日本の人材は質が低いと思われてはかなわない。そこで新しい人材を送ることにする。それがハナだ。しかし、ハナがあまりにも優秀であれば、ヨウカとの違いが目立ち、何があったのか怪しまれることも想像がつく。
 そんなとき、新しく送り込む人材が、余計な事を言わず、都合の良いことだけを話し、その上でこちらが信用できるかどうか監視する役目をしてくれると確実であれば、日本政府はどれほど安心だろうか。
 そんな安心ができる人材は、果たして人間なのだろうか。
 人間であるにしてもそうでないにしても、その語る言葉は、どこまでが本当なのだろうか。

 ベスは今、ハナの胸に触れるにはどうしたら良いか考えている。エロティックな意味ではなく、ただ、そこにスイッチがあるのかどうかを確かめるために。

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