誰かが世界のどこかで見守ってくれてる
そういう気がしている。心強いし、なんだかむずがゆいけど、そうなのだ。これは感覚の話であって、勘違いと言われてもまあそれでいいんだけど、そうなのだ。
こんにちは、こんばんは。くりたまきです。
まず母方のおじいちゃんは見守ってくれてる気がする。ほとんど記憶にないけど、なんとなく。
それに父。
それから友だち。そんなに交友関係が広いわけじゃないけど、昔から一緒に遊んできた友だちや、書くことで知り合った友だちがいる。
あと宗教については勉強不足なんだけど、なんか大きな眼差しってあるような気がする。見守ってくれてるもの。わたしに霊感はないけど、ある。
わたしの場合、こういうのって若いときには気づかなかったんだよなあ。親や友だちが自分をどう思ってたのか知らないまま過ごして、大人になって「じつはね」って友だちから本心の手紙をもらったり、親からすごく大切な言葉をもらったりして、ああ見守られてたんだ、と知った。
単にわたしが自尊心が低くて愚かなだけかもしれないんだけど、気づかないものだったりするんだよな。
きっと過去のあの瞬間も見守られてたんだって後から知って、すごく尊いなと感じてうれしかった。
「そんな人、ひとりもいないよ」と思う人も読んでる人のなかにはいるかもしれない。
でも大丈夫。あなたには、あなたがついてるじゃないか。
過去のあなたが、5歳の、12歳の、18歳の…いろんなあなたが、あなたを見ている。きっと未来のあなたも見ている。
あなたが過去の自分を抱きしめられるなら、未来のあなたも今のあなたを抱きしめている。
それに、言葉を読み書きして、箸を使ってごはんを食べて、暮らすための力を備えているのなら、それは誰かに見守られてきたということだ。誰かの愛情ややさしさや配慮や時間やお金によって。
だからわたしも誰かを見守りたいし、ときには見守っていることを盛大に伝えたい。だってうれしいからね。
って思うまま書き連ねてきたけど、今日はまた一段と気恥ずかしいね。でももし、ふとした拍子にしんどくなったら思い出してみてほしい。世界のどこかで誰かが見守ってくれている。これは絶対だよ。
さいごまで読んでくださり、ありがとうございます! サポートしてくださったら、おいしいものを食べたり、すてきな道具をお迎えしたりして、それについてnoteを書いたりするかもしれません。