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ご自愛の矢印が指し示す方向→

「ご自愛」ということばのブームはやや過ぎ去って、多少定着し、市民権を得たように思う。すこし旬を過ぎたからこそ、ちょいと考えを書き残してもいいかなという気分になった。

こんにちは、こんばんは。栗田真希です。

たまに書く手紙などの締めくくりに添えて使ってきた「体調を崩されませんようご自愛ください」のことば。

どちらかといえば「自分の健康状態に気をつけること」という意味合いで使うことが多かったけれど、ここ数年使われてきた"ご自愛"には、「自分のこころを大切にする」という意味が強く感じられる。

それがすこし、むずかしいなと思っていた。

人間というのは、その漢字のとおり、人のあいだで生きている。とてもあやふやで、変化しやすい生きものだ。平野啓一郎さんの「分人主義」という考え方もとても参考になる。

たった一つの「本当の自分」など存在しない。対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

ご自愛の対象が「からだ」ならば、むずかしいことはない。たくさん寝たり、バランスのよい食事をしたりすればいい。

けれど、多面的で目に見えない「こころ」が対象になると、難易度が突然EXになる。場面によってご自愛の内容も変わるし、満たされ度合いも計りにくい。100gのうまい肉を食べる、というのとは違う話だ。

ご自愛の矢印を「こころ」のどこに向けたらいいのか、わたしにはよくわからない。ぜんぶ「からだ」に向けたい。ラーメン食べて、散歩して、たっぷり寝たい。

ご自愛ということばが、余計に誰かを追い込むことがなければいいなあ、と思う。みんなにご自愛してほしいけれど、そこにこころを癒す特効薬はない。

わたしがなんとなく思うことだから、的はずれだったら読まなかったことにしてほしいんだけど。

「ご自愛」ということばがこれまでの使われ方と違うかたちで人口に膾炙したのは、ことばの意味うんぬんではなく、「自分で自分を愛してもいいんだ」という肯定を新鮮に感じる人が多かったからなんじゃないかと思う。そういう、ある種の時代のさみしさみたいなものが、根本にあるんじゃなかろうか。わたしもその道を通ってきたから、そんな気がする。

でも、さみしさを見つめ続けることが、ご自愛ではないだろう、きっと。

自分のさみしさを受け入れ、さみしさとともに誰かを愛することが、ご自愛なんじゃないだろうか。

さみしさ成分だけで生きてきた人間はいない。誰かの愛情(お金も食べものもいろいろ含む)を経ずにこの世に生きている人間はいないから。生きているというだけで、愛はある。

大丈夫、ヘンにご自愛の迷路に迷い込まないで、でもご自愛していこう。ラーメン食べよう。

なんて、つぎはぎだらけの話なんだけど、夜中に思ったのでした。

どんなことばも、用法容量を守って服用ですね。

30minutes note No.1035

さいごまで読んでくださり、ありがとうございます! サポートしてくださったら、おいしいものを食べたり、すてきな道具をお迎えしたりして、それについてnoteを書いたりするかもしれません。