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思いやりの押し付け

 通勤や通学などで電車によく乗る皆さんなら、他人の電車マナーの悪さでイライラしたまま目的地に着いたことがおありだろう。例えば、「イヤホンから流れる音楽がうるさい」「後ろに背負っているリュックが邪魔」「優先座席の前に譲るべき人がいるのに譲らない」......それらのマナー違反は全て、車内の斜め上を見れば、ポスターや電光掲示が電車マナーについてけたたましく啓発している。

  私は世間一般でいう若者だが、「常に席に座りたい人」である。電車での時間が長い、というのもあるし、不慣れなため電車が揺れてよろけることもある。なんの身体の異常も持っていないのに、「座りたい」と思うのは周りから非難されそうであるが、駅につく度に周りを見渡して、席を必要としている人には譲るという人としての当たり前の行動は取る。

 ただ、「席に座りたい」という私情が先行するが故に、たくさんの人が座れなくて立っていて、席を詰めたら何人か座れるような状況に立ち会うと、とてつもなく苛立ちをおぼえる。

 「好きに広がって座りやがる。慈悲の一欠片もないのか。」

 というようなことを思うことがあるのだが(普段私は穏やかで慎ましい人だ(自称))、ある時このような自分を俯瞰して、興ざめてしまった。


 「あ、傲慢だ。」


 そう脳内で呟いた時、このような苛立ちはなぜかマイナスに思えたのだ。おかしいと思ったらおかしい、と声をあげるべきなのだが、そのように思ったのは、とある体験が脳裏を掠めたためなのである。


 夜22時ごろ。

 私は満員電車の最中、電車から降りる乗客の後を狙い、運よく席に座れた。しばらく優越に浸っていたが、斜め前になんだか不機嫌で痺れを切らしているおっちゃんが座っていて、多少居心地が悪かった。

 電車が発進するとおっちゃんは、すぐそばに立っていたOLに「おい」と話しかけた。OLが怯えた顔でおっちゃんの顔を見ると、おっちゃんは

「下におろしている荷物、邪魔やろ。上に棚があるの、見えへんのか。周りの奴らの迷惑になっているの、わからんのか」

 がんがら声で叫ばれるので、車内の視線はおっちゃんとOLに注がれた。

 ただ、私が見る限り、「えっ、これ邪魔なん?」というくらいの少し大きめの荷物であった。その荷物は縦30cm横70cmほどの紙袋で、中には何かが詰まっていて、ずっしりとしていた。どう見てもOLの力では上へ上げられそうにない重さの荷物で、その難しさはウエイトリフティングで金メダルを取ることと等しいように思えた。また、こんなものを棚の上にあげようと思えば底が抜けて中身がおっちゃんにかかり、二次災害が起きてしまうことも考えられる。

 結局OLの方は荷物を重そうに持ち上げ、細い腕で残りの道中を耐え忍んでいた。大阪のおっちゃんは繊細レベルがよく泣く赤ちゃん並で、いちいち細かいから。

 大阪の府民性もあるかもしれないが、このような思いやりの押し付けにたまに出くわす。お節介で言っているのか、それともその場だけの自身の評価をあげようとしているのか......それは定かではないが、その傲慢さを誰もが抱えているのではないか。第一は周りを見ない人が悪いのだが、その上で注意するときに自己のためだけになっている人もいるのではないか。さらに、悪いところだけ目につけて、周りの状況判断を怠っているのではないか。

 ここで私の話に戻そう。私が「席を詰められませんか」と言うのを躊躇うのはこのためで、「もしかすると潔癖症なのかもしれない」「好きにぼーっとしてないと精神が安定しない人なのかもしれない」「話しかけたら話を分かってくれない人で、こじれるかもしれない」と想像を膨らませてしまう。


 では、思いやりの押し付けをなくす方法とは。

 それは、各自で周りを常に見渡すことであろう。最近、スマホに目が取られてしまい、

駅に着いても状況を判断できない人が大多数である。


 そうやって各自が気をつけることによってリスクを減らしていく。これに限るのではないか。

 また、電車会社は「駅に着いたら周りを見渡す」というルールを浸透させることが急務であろう。貴社が発行しているモラルのポスターは、最近の残念な人間の習性によって意味をなさなくなっている。

 このように、長々としたブログの文で、「お節介」の「思いやりの押し付け」を執行した。ここで言う「思いやりの押し付け」の意味が、「傲慢」ではなく「お節介」になるよう皆様が気をつけて頂ければ幸いである。

 

  

 

 

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