努力とは
私は数年前まで、自分のことを努力家だと思っていた。
周りの人からも、努力家と言ってもらえることが多々あったし、自分のやっていることが“努力”だと思っていたから。
でも今は、自分は努力をしたことのない人間であり、努力のできない人間であると思う。
バスケが上手くなりたくて勝ちたくて、
部活以外でバスケができる環境に積極的に参加したり、部活後に公園で自主練したり、毎日家で筋トレをしたり、左手のドリブルが上達するように日常生活でできるだけ左手を使って過ごすように意識したり、部活中もタイミングがあれば自主練をしたり。
(ちなみに中学生の頃は、「チームの中で1番努力した自信がある」と思っていたし、それを口に出していた。)
大学受験とハードな部活を両立しなければならなくなった時、周りに流されず自分で物事に優先順位をつけ行動し、勉強時間の確保をしながら部活と自主練も全力でやっていたり。
文化祭のクラスの出し物の準備のために、土日の部活の昼休憩には急いでご飯を食べて、すぐに教室へ向かい、30分でもクラス活動に参加していたり。
専門学生の時は、常に満点を目指してテスト勉強を行い、ある程度の成績を取り続けていたり。提出物や課題は常に100%で取り組んだり。周りの人よりも早く国家試験を見据えて勉強を始めていたり。国家試験前は、自主的に学校へ行き一日中1人で勉強していたり。
よくよく思い返すと、私は、
自分が「好きなこと」「やりたいこと」「やらないと気が済まないこと」や、「やって当たり前のこと」をやっていただけであり、
それに対して自分で勝手に「努力」だと思い込んでいただけだった。
好きなことだしやりたいことなんだから、やれて当たり前だし
自分の性格上やらないと気が済まないことなんて、やらない方が難しい
やって当たり前のことはやって当たり前だし
本当に、なにもすごいことをしていないし、努力なんて言えるわけがない。
すごいね、努力家だね、と言ってもらえる度に、思い込みが激しくなっていたのも事実だが、
私は自分を「努力家」に見せることがほんの少し得意だったのも事実。
というか、自分を偽り、自分の思うような評価をしてもらえるように他人をコントロールするのが少し得意で、それを無意識にやっていたのだと思う。
今、23歳になる年の今、
少しの困難から簡単に逃げるという道を選んだ自分を見て、自分は努力家ではなかったという事実に向き合えるようになった。
「努力」「努力家」の定義は人それぞれあるだろうから、私の行動をそう褒めてくれる人がいるかもしれない。
けれど、今の私は自分のことを努力家だとは全く1ミリも思えないし、
人生で努力をしたことがない人間だと思う。
努力の仕方がわからないと本気で感じるし、努力ができる強さを持ち合わせていない。
努力とは。
努力家とは。
努力の仕方とは。。。
努力のできない自分や、
努力の仕方がわからない自分、
自分のことを努力家だと思っていた過去の自分、
色んな自分が本当に情けないししょうもないし本当に嫌いで受け付けない。
努力のできる人間になりたい。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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